約束ですか
私の眠りを
窓枠の上部に取り付けられたぼろ切れのような
私の視界は奇妙な板に
森の木々を思い起こし、形は変わってしまっても、青空に
全身がひどく痛む。あれほどの怪我を負ったのだから当然だ。思うように身体を
消化液が一気に沸騰し始める。痛みもひどいが空腹もひどい。無意識に
「起きてくれてよかった」
飲み込まれているので若干くぐもった声になってしまっていたが、獲物は確かにそういった。
口内を
「すみません!」
慌てて彼を
「お腹空いてる?」
粘液で顔をべたべたにした彼がいった。
「めちゃくちゃ空いてます」
「僕を餌だと間違えるくらいだもんね」
「ま、間違えてないです! あなたは餌ですから」
「はいはい」
適当にあしらわれた。わざとらしく
「全然足りません」
それらを一瞬で平らげてしまった。申し訳ない。ついでに言うと私は人間みたいに口から水を飲まない。根で吸い上げるタイプだ。その根は切断してしまったばかりなので飲むのに苦戦した。
「長いこと眠っていたようだからね。落ち着いたら買い物に行こうか」
「私、そんなに眠ってましたか?」
「三日くらいかな。このまま起きないんじゃないかと心配してた」
「それはそれは……ご心配をおかけしました」
「
あの規模の火災を三日で食い止めてしまうとは、大した生き物だ。災害を引き起こし
「よく私をあなたの家まで運べましたね。人間の街に人食いアルラウネを持ち込んだとなれば大騒ぎでしょうに」
「あぁー……いつもなら警備の人たちがいるんだけど、あの日はそれどころじゃなかったみたいでさ。街の入り口付近は避難する人たちで
「はぁ。意外にちゃっかりしてるというかなんというか……」
「そこは腐っても絵描きだから、周りをよく見ているんだと思う」
「またまた、ご冗談を」
今度はこちらが受け流してやる。彼はがしがしと頭を
「これから出かけるにあたって留意してほしいことがある。アイルの怪我の具合をみるとしばらくは僕の家で過ごすだろう。加えて僕が住んでいるのは森じゃなくて人間の街だ」
自分の身体に視線を落とす。今更ながら傷口に包帯が巻かれていることに気がついた。
包帯には〈
「そうですね」
窮屈な感覚はあったもののそれが包帯によるものだと思い至らなかったのは、私が植物型の魔物であるからに他ならない。出血をせず、欠損しても生え
傷口を物理的に
「いいかい。きみはここにいる間……少なくとも僕がきみの面倒をみている間は、決して人間を食べないでくれ」
「あー……」
盲点だった。ひとまず命拾いしたことに安堵していたが、別の問題が発覚してしまった。
彼に対しては今のところ食欲の抑制に成功している。しかし他の人間はどうだろうか。
どうしようもない空腹に襲われたとき、生命の最たる欲求の一つともいえる食欲を抑えるのは並大抵の意思では不可能だ。人間にとっての空腹による苦痛の度合いは分からないけれど、アルラウネにとっての空腹による苦痛は耐え
即答できずにいる私をみて、彼は念を押すようにいった。
「今後人間を食べるなとは言わない。アイルはそういうふうに生まれてきたわけだから、人食いを
「……わかりました。人間の肉は我慢するので、他の肉はあなたが食べさせてくださいね」
「もちろん、約束だよ」
「約束ですか」
「破ると針を千本飲まされる呪いの魔法さ。きみの身体でいうと棘になる」
「うわぁ」
恐ろしい魔法だ。自分の荊棘を千本も飲まされたら死んでしまう。
ほどなく身支度を完了させたらしき彼は、不摂生な生活の様相を
「その怪我が治ったらの話だけど、アイルは森に帰りたいって思うのかい?」
「えぇっと」
唐突な質問に答えあぐねる。
「僕としては……ここで、きみと暮らしたい」
私は考える。
猛毒を持つ草食性のアルラウネと違い、私は完全な肉食性の個体。大食いで人間を主食とするため飼育には適さない。経済面での負担も大きい。大人しく野生に戻ったほうがお互いの利益になる。
頭では正しく損得勘定ができているのに、「ごめんなさい」の一言が告げられずにいた。
沈黙する私の
「アイル」彼が私の名前を呼ぶ。「僕と一緒に暮らそう」
「わかりました」
あっさり承諾させられた。仕方がないので発想を変えてしまおう。
彼と一緒に暮らしておけば、彼が森に足を踏み入れる理由がなくなり、他の魔物に襲われる心配をせずに済む。
それに、自分の身を
彼の家を出る間際、テーブルの隅で一枚の画用紙を発見する。鉛筆の跡が私の寝顔になっている。
二十九点。
ずっと看病してくれたからプラス五十点。でも私が見てないときに描いたからマイナス五十点。やっぱり二十九点。
*
私にいわせてみれば、人間の信仰心は過剰で自己満足に寄りすぎている。供物を
まぁ、それで人間が満足するなら勝手にすればいいのだけれど。
心のなかで悪態をつく私は、森が死んだ日のように彼に背負われ、街の雑踏と同化していた。
私にとって人間の街はこの世のありとあらゆる財宝を詰め込んだ宝箱だった。大好物の肉があちらこちらで
その一方で宝箱は罠でもある。人間の街で人間を殺めるのは重罪。もしも開錠したならば、私は即座に命を奪われることになるだろう。
宝箱を目前にして、喉から
彼の「一緒に暮らそう」を言い換えると、「死ぬまで苦しんでくれ」という意味になる。欲望と理性が波のように押し寄せ
とはいえ人間の築き上げた文明――すなわち人間の巣の完成度の高さは驚愕に値する。個の単位でみて人間よりも
「これはなんですか」
木の棒で串刺しにされた〈怪魚〉を
「怪魚の塩焼きだね」
彼の説明によると捕獲した怪魚を焼いて殺すのではなく、殺して焼くらしい。鮮度を重視する場合、暴れないようにその場で失神させてから生きたまま焼いて食べるのだとか。
いずれにせよ生き物を二度殺すなど残酷極まりない行為だ。
「塩焼き……生命に対する
「食べてみるかい?」
「いえ、私は、その……」
「すいませーん! 塩一本。お願いします」
彼は聞くや
「う~ん。これは焼きますね。冒涜最高です。人間も焼けば美味しくなるんでしょうか」
怪魚由来の臭みが消えて食べやすい。身がほろほろしていてとても美味でした。
「焼かないよりはましなんじゃないか? 僕は想像したくないけど」
「あーあ、私にも〈火〉が使えたらなぁ……」
「使えたとしても植物のアイルには酷だろう」
「忘れてました……火はこりごりです」
焼きアルラウネになるのはさすがに嫌すぎる。当面は
「私を外に連れ歩いても大丈夫なんですか?」
巻きつけた蔓同士をきつく絡ませ、背中越しに
「大丈夫。
「それ大丈夫じゃないですよね?」
「見つかったら僕は罰を受けるし、アイルは殺処分かな」
「さらっと私の
彼のせいで殺されたら笑い事では済まされない。
「安心してくれて構わないよ。アイルのように人間に危害を
「すごい圧を感じますが……」
「バレたか。まぁ、きみが弱っている間に連れ歩いて、人間の街に慣れてもらおうっていう目論見もある」
「なるほど」
彼の動機に合点がいった。それ以上は
目的の精肉店に着く。色とりどりのご馳走たちに思わず
「よくうちに肉を買いに来ると思ったが……魔物を飼い始めたのか」
「はい……アルラウネに一目
「アルラウネは肉を食べるのか。まぁ、あれだ。なかなか可愛らしい見た目をしているな。飼いきれなくなったら貰ってやるよ。肉だけはあるからな」
店主がいい、豪快に笑った。
「嫌です」
彼の代わりに断っておく。なんとなく暑苦しくて不快だった。
「断るか! ますます気に入った。おまけに一切れ付けといてやるよ」
「わーい、ありがとうございます!」
前言撤回。この人間はいい人間です。
「楽しいだろ」と彼が語りかける。「開き直って堂々としていよう」
「それもそうですね」
私は同意する。魔物だからと無条件に嫌われたり、必要以上に注目を集めないのであれば落ち着いて楽しめる。
商店街を行き
人間とはますます奇妙な生き物だと実感する。
それから彼と一緒にへドリスの平民街を観光していると、不意に刺すような視線を向けられる感覚があった。
「おい」と背後から声が掛かる。「あんたそれ、野生種のアルラウネか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます