変な生き物ですね


 目が覚めると彼は姿を消していた。貴重な食糧をみすみす逃してしまうとは情けない。

 私は弛緩しきったつるを引き戻す。じんわりとしたあの温かさは不快ではなかった。たったの一夜で彼の重さを覚えてしまったのか、身体にひどいしびれと倦怠感があった。人間の女であればちょうど下腹部にあたる部位。

 まだ人間の香りがする。

 消化液がえたつように鳴る。「なぜ食わなかった」と私に叱責しっせきしているみたいだった。

 彼を食わなかったのはなぜか。わからないから困る。



 その日は悶々として過ごした。空腹でいら立ってもいた。花粉をき散らし、寄せつけた昆虫を狙う猛禽種を罠にかけたり、疑似餌をもちいて親元からはぐれた幼獣を仕留めたりした。

 食欲が満たされると途端にむなしさが押し寄せる。

 私の隣には魔法の切れたランタンと、根を固定するための宿主として借りている巨木、そして木漏れ日を反射するんだ湖があるのみだ。毒性の強いいびつな形状のキノコも自生している。

 本当につまらない景色で嫌気が差す。せめて歩くことができれば別の視点から自然を捉えられるが、私にとって森は永遠に同じ模様の壁紙に等しい。

 腹いせにランタンはみ砕いて捨てた。それから私はつぼみのように縮こまって眠る。

 彼はもう二度とやってこないだろうな、と思う。同時に彼は二度とあらわれないでほしいとも思う。

 昨夜の出いは夢魔たる〈インキュバス〉のせた夢であると言い聞かせることにした。


 ――僕は奇蹟をずっと探していたんだ。


 ふと彼のセリフがよみがえる。人食いアルラウネの上で眠り、たぶん間の抜けた顔で起き、無傷のまま生きて帰った。

 人間にしてみれば、十分すぎるほどの奇蹟。

 まったく「幸運なアルラウネさん」だなんてとんでもない。それはもう、うんざりするくらい不幸だったよ。



 三日ほど経った後だろうか。灰雲がやや赤みを増した頃合いに、私の寝覚めを悪くさせる音が聞こえてきた。

 がさがさと枯れ葉を踏み鳴らし、一面に生い茂る多年草をかき分けて、イーゼル持ちの青年が私に近づいてくる。


「やぁ」と彼は手を挙げていった。「また会えたね」


 不覚にも胸が高鳴った。

 これは再会を喜んだというより、極上の餌が接近しつつあることに対するたかぶりに過ぎない。


「何で来たんですか」

「きみのことが気になってさ」

「迷惑です」

「こっちのきみは嬉しそうだよ」彼はあぎとを指差していった。「涎まで垂らしてるし」

「生理現象ですよ」

「難しい言葉を知っているんだね」


 彼は、私に喋りかける行為の愚かしさをまるで理解していなかった。だからこそ愚かなのだが。


「私、肉食なんですよ? あなたを食べたくてたまらないんですよ?」

「だろうね」


 苦笑しながら大きなバックパックを地面に降ろし、袋詰めにされた異物を取り出す。とても生臭い。あと美味しそう。


「それはそうと、いい匂いがしますね」


 蔓の先端で紙袋を指し示すと、彼は得意げな表情で開けた。入っていたのは肉の塊だった。

 

「アルラウネが何を食べるのか調べてきたんだ。きみの場合、肉ならなんでも食べると書いてあったから、商店街で売っている適当な生肉を買ってきたんだけど……好き嫌いある?」

「人間の肉がいいです」

「人間の肉だけは困るなぁ……」

「竜の肉とか、食べてみたい」

「さすがに僕の手には空が遠すぎる」

「じゃあ、そこの適当な肉で」

「言葉遣いまで適当になってきた」


 大袈裟に項垂うなだれる彼の仕草がつい、私の頬を緩ませた。ためらいがちに差し出された「適当な肉」を二本の蔓で受け取り、鮮度を確認してから口内に放り込む。

 適当な肉は、それなりに美味しかった。

 最後の一口をかじり終えるまで、彼はずっと私の顎を凝視していた。妙にそわそわするので辞めてほしい。


「ごちそうさまでした」と私はいった。


 彼は驚いたようすで頷いた。「きみは本当に人間みたいだ」


「人間の文化に合わせただけです」

 

 風化してしまった亡骸の横に積み上がる書物たちを指し、淡々と答える。


「見かけによらず、アルラウネは勤勉なんだね」

「感心してる暇があるなら」私は弱々しい身体を大顎で突き飛ばす。「はやく逃げてくださいよ」


 尻もちをついた彼は、臀部に付着した泥をはらう。


「ひどいなぁ……もしかして足らなかった?」


 私は、彼の薄汚れた衣服と履きつぶされた靴を確認する。姿は俗性をあらわすとはよく言ったものだ。


「十分でした」

 

 年頃の少女のような嘘をついた。全然足りなかったが、彼の身なりからこれ以上を要求するのは気が引けた。

 飢えをしのぐ程度にはなる。仮に獲物に恵まれずとも、日中の活動時間を削ればいい。


「また来るから」


 柔らかく微笑んだ彼は、大きく手を振って森を去った。生憎と植物の私には振りかえす手が存在しなかった。





 毎日、彼は魔物である私に会いにきた。来訪の時間帯にはばらつきがあり、私が眠ったままでいることも多かったので、しばらくすると互いの生活サイクルを合わせるようになった。

 雨の日もひょうの日も満月の夜(月齢で狂暴化する魔物がいるため非常に危険)も私に会いにきた。

 特に満月の夜は、私をまもりにきたのだとのたまっていたけれど、私が彼を朝まで護った。暴風雨の日などは必要もないのに支柱をこしらえようとしたこともある。その後、突風に吹き飛ばされかけた彼の身体を私が支える羽目になったのだから笑える。

 人間と関わることで私の空虚な日々はあわただしく変貌し、それは楽しくも鬱陶うっとうしくもあったが、結論だけを述べると私は名前も知らぬ彼を拒まなかった。いつの間にか受け入れていたのだ。


「今日も待たせたかな」

「待ってないです」

「でも肉は食べるだろう」

「食べますよ……腐っちゃうので」


 彼は必ず、食べ物を持ってきてくれた。たとえ少量だとしても危険をおかさずに餌が手に入るのはありがたい。しかし彼を食べてしまいたい欲求を常に抑えなくてはならず、彼の存在は悩みの種だった。

 魔物の本能が食べてしまえと叫ぶけれども、私の心は殺したくないとも思う。この変化を認められたのはごく最近になってからだ。

 日を追うごとに彼との距離は縮まっていった。私は動けないため彼が一方的に距離を詰めてくるともいう。

 彼はよく、私の絵を描いた。とぐろを巻いた蔓の上に腰掛け、画用紙と対峙する彼は普段のおどけた雰囲気とはうって変わって真剣な目つきをする。


「ほら、アイルの絵だよ」


 アイルは彼が付けてくれた私の名前だ。アルラウネの「アル」を、彼の国での女性名に変えたらしい。


「昨日も描いてましたよね」

「蔓の位置が微妙に違うんだ。頭部の花の模様も日によって違ったりする」

「それで?」

「新しいアイルを見つけるとさ、無性に描きたくなるんだよね」


 こうしてどうでもいい絵が量産される。

 どうでもいい絵の途中経過や出来栄えを披露されたところで、私は嬉しくもなんともない。

 

「二十点です」

「厳しいな」

「本物の私はもっと可愛いです」


 はっとなって彼の顔をみる。手鏡というものや、水溜まりの反射で自分自身をみたことはあった。なかなかにグロテスクな形状をしていると思う。


「そうだね。アイルは可愛い」


 優しい声だった。硬い突起や荊棘けいきょくに覆われたみにくい身体を「可愛い」と表現する人間の感性は理解に苦しむ。

 不意に消化液が音を立てる。「あっ」と声が出て、彼のほうを見る。目が合いそうになり、私は気まずさかららした。


「僕を食べたくなったらいうんだよ」と彼がささやく。

「遠慮しておきます。あなたの貧相な身体では、食べても美味しくなさそうなので」


 自分でも嘘くさいセリフだと思った。森には〈木霊こだま〉という精霊が住みつくらしいのだが、木々のざわめきはまるで私の言葉をあざ笑い、掻き消そうとしている気がした。

 大地の化身と伝わる聖獣〈ヘカトンケイル〉も私の行いを見守り、そのおぼしによって私は正しいとされてきた。人間を殺めるべくして生まれたアルラウネの使命に反した発言だ。

 薄幸そうな彼の横顔を盗み見て、再度、「食べませんよ」といましめを兼ねて強調しておいた。甘言に揺らぎかける自分が悔しい。大好物の人間。きっと至福の味がする。


「まいったなぁ……」

「八十点」と私は小さな声でいった。「取れたら食べてあげます」

「そこは百点じゃないのか」

「肉をくれるので、おまけです」

 

 百点にしてしまうと、彼が本気になるあまり話しかけてくれなくなる恐れがある。どうせいるなら適度に構ってほしい。


「よし、八十点を目指すぞ」


 鉛筆を握りなおし、イーゼルと向かい合う彼をみながら私は思う。

 馬鹿だなぁ。

 この先あなたがどれだけ上手くなっても、最高点数は七十九点までしか出ないんだよ。

 彼は一生、七十九点の絵描きなのだ。


「私と初めて出逢った夜に、どうしてイーゼルを持っていたんですか」


 画用紙の上を縦横無尽に走りまわる鉛筆を追いつつ、前々からの疑問を解消しようと訊ねた。

 私と出逢うまで、彼は夢を諦めたありふれた不幸な青年だった。絵を描くつもりがないのにわざわざイーゼルを持ち歩くだろうか?

 ややあって、画用紙をにらんだまま彼は答えた。


「僕の墓標に相応しいと思ったんだ」

「墓標……というのは?」


 魔物には聞き慣れない単語に、私は首をかしげる。


「ここで僕が死んだっていう証かな」

「虚しくなりませんか?」

「僕たちはね、他人に忘れられることが怖くてたまらない。死ぬことも怖い。けれどもその先で、自分が誰の記憶にも残らなかったとしたら、生きていた過去まで消えてしまうんじゃないかと不安になる。だから、なんていうか、墓標を立てることは神様に対するレジスタンスみたいなものさ」

「変な生き物ですね」

「お互いにね」


 と彼はいい、私の顎を撫でた。


「なんですかいきなり」

「もう大丈夫そうだなって思って」

「意味がわかりません」

「墓標を立てなくても、きみが憶えていてくれるだろ? アイルの前では、イーゼルはただの画材道具だよ」

「……植物ですから。忘れちゃうかもしれません」


 人間とアルラウネは違う。寿命も違えば臓器の機能も違う。記憶構造もおそらく異なる。果たして永劫えいごう憶えていられるだろうか。

 魔物の記憶力を高める本。五秒でおぼえる魔物の思考法。魔物は記憶力が九割。幸せになれる捕食術。そういった実用書があれば読みたいものだ。


「アイルなら大丈夫」と彼はいい、イーゼルを折りたたんで立ちあがる。「そろそろ帰ろうかな」


 すっかり日が沈んでいた。新品のランタンに魔法の火をともす。闇が光に押し出されてだいだいに染まる。


「待ってください」

 

 私は顎をかつぐ蔓を伸ばし、舌にもみえる部位で彼の全身を舐めまわした。


「こればっかりは慣れないな」


 嫌そうに顔をしかめていう。


「あのですね、森はとても危険なんですよ。食べかす程の魔力もなく、筋力も並み以下、群れもせず、武器も防具もなし……あなたなんて私たちからみたら恰好の餌なんです。

 そりゃあ多少べたついて臭うかもしれませんが……我慢してください」


 私はアルラウネの中でも飛び抜けて魔力の高い種に分類される。アルラウネは基本的に猛毒を持つか、生物に寄生するか、そのどちらでもなく私のように高い魔力と強靭な捕食機構を有することを主な生存戦略としている。

 森に棲息する魔獣は比較的シンプルな力による食物連鎖を築く傾向がみられるため、私の魔力と匂いをつけておけば襲われる可能性はほぼなくなる。

 そうでなくとも好き好んでアルラウネを襲う魔獣は滅多にいない。厄介な毒を持っている種が多いからだ。


「アイル以外に食べられるのは嫌だからね」

「私もですよ。自分の餌を横取りされるのはたまらなく嫌です」

「ありがとう」


 この日、彼は帽子を忘れていった。私はそれを抱きしめて眠った。ちょっといい夢を見た。いい夢といっても、咀嚼そしゃくしても死ななくなった彼を食べ続ける夢だけどね。



 次の日も彼は来た。二十二点の絵を描いた。その次の日も彼は来た。三十五点の絵を描いた。その次の日の次の日の次の日もやはり彼は来た。十七点の絵を描いた。



 さらに次の日は竜が空を飛んでいた。けたたましい警報が鳴っていたのに彼は来た。今日は絵を描かなかった。零点。少し寂しい。



 そして次の日に、森が燃えた。




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