アイルと七十九点の絵描き
スズムシ
アルラウネです
私には名前がなかった。生物の
これは先日、消化し終えたばかりの冒険者と呼ばれる人間が
あの捕食した人間は不運にも私に
母体から飛ばされる種子によって生を
それに擬態をせずとも獲物が向こうのほうから歩いてくるのだと考えると、一概に悪いこととはいえなかった。
数ある種のなかで、とりわけ人間の肉を好んだ。初めて
私はこの種を食い殺すために生まれてきたのだと。
理屈などなかった。本能ともいうべき何かが体内で歓喜し、私の脳(あるのかどうかわからないが知性は存在する)に強烈な快感を焼きつけた。以来、一時たりとも人間の味を忘れたことはない。
そして今、食い殺すべき人間の青年がこちらに歩いてくる。夜の森は月光を
武器になりそうなものは持たず、代わりに奇妙な木製の三脚を小脇に抱えていた。それは絵描きが用いるイーゼルという道具であるのだが、このときの私は知らなかった。
随分と無防備な恰好をしているのだな、と私は思った。身なりからあまり裕福ではなく食事や運動も
私はじっと待った。
すると足元ばかり見つめていた青年が顔を上げ、私に向かって手を挙げる。
「こんばんは」と彼はいった。
私はいつもと同じ動作で軽く会釈をする。
「こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
挨拶というよりは習慣だ。私には人間の
「もしかしてきみは魔物ですか」
私は驚く。
ランタンが照らすものの、この暗がりの中、たったの一言で私の正体を見抜くとは信じられない。
今すぐに殺すべきだとは思わなかった。彼は怯えたようすでもなく、敵意もなく、知り合いに明日の天気を
「えぇ、ちょうどあなたを食べようと思っていました」
「そうですか」と彼は笑った。「正直な魔物ですね」
「ありがとう……ございます」
私は曖昧に笑い、彼の背後に蔓を伸ばした。逃げられないようにするためだった。
「名前はありますか?」
私の行動に気づく素振りもなく、彼はそう訊ねた。
「アルラウネです」
冒険者の書物から引用することにした。彼は感心したふうに手を叩く。
「面白い魔物だね……あ、普通に喋ってもいいかな。僕を食べようとするきみに気
「好きにしてください」
「きみはずっとこの森にいるのか?」
「えぇ」
「動かずに?」
「えぇ」
「変な生き物だ」
「植物ですから」
なるほど、と彼が
「しかしその体躯を維持するのは大変だろう。動かずに獲物が都合よく現れるとは思えないが……」
「あなたのような愚かな人間がいます」
「たしかに。人間は好きか?」
「好きです」
「肉の味がだろう」
「肉の味がです」
会話の最中にも私は彼の味ばかりを考えていた。期待と空腹で体内の消化液はごぽごぽと音を鳴らす。
「食べる以外に、楽しみはないのか?」
餌である人間にそういった質問をされるとは思わなかったので、私は言葉を詰まらせた。
「本を読むことです」
それは人間を捕食したときに偶然、〈知識〉の魔法がかかった道具を誤飲したことから始まった。この魔法は言語を司る領域を活性化させ、言語理解力を大幅に高めたり、知識そのものを道具に蓄えることができる。しばらくすると魔法の効力は切れるのだが、その時に読んだ書物の内容は、それ自体を忘れてしまわない限り記憶に
魔法の力によって私は、私に殺された人間たちの遺品を読み漁った。時間は腐るほどあった。〈知識〉の効力が切れた後も読んだ書物の記憶を利用し、言葉を入れ替えたりする遊びをしては文章への理解を深め、徐々に言語を習得するに至った。
私が人間に近づけば近づくほど捕食の成功率は飛躍的に上昇したのだから、私にとって学びは有益といえた。
一方で言語への理解が深まれば深まるほど書物は虚無だった。特に物語と呼ばれる空想上の出来事を
金品や衣類も手にしたところで使い
「きみは芸術がわかるのか」
彼は目を丸くしていた。
「……すこし」
控えめに
大方、私が好きなのは物語のほうだと勘違いしたのだろう。死にゆく人間の誤解を正すことは無意味だ。好きなだけ勘違いをさせてやろう。
「なら物語を一つ聞いてくれ。孤独な男の話だ」
彼の口から語られたのは、世界中を旅したいと願った男の話だった。しかし世界には危険な魔物が多く
膨大な時間をつぎ込んでいるものの、土壌に問題があるのか一向に才能の芽が出ず、優秀な芸術家たちには置いていかれるばかり。これでは世界を旅するどころか馬小屋のように
男には唯一、自分の隣を歩いてくれる幼馴染がいたのだが、冒険者になるという長年の夢を叶えた
自堕落に腐っていく男に失望した幼馴染はやがて彼のもとを去っていき、男の種は一度として実りに向かうことなく土に埋もれてしまったのだという。
「あなたのことですか」
「そうだよ。幸運なアルラウネさん」おどけた口調で彼はいう。「実のところ、いま僕はすごく死にたがってる」
「望むならすぐにでも殺してあげられますけど」
「あまり痛くならないように頼む」
私は
「大丈夫です。急所は熟知しています……もっとも、殺した人間の感情はわからないので痛みについては保証しかねますが」
「ごめん、ちょっと待ってくれ」
「命
「命乞いだよ」と彼はまた笑った。「みっともない人間らしくていいだろ」
「
この場で彼がどれほど無様に跪こうが泣き
ただ、こう返しておくべきだと思った。
「魔物らしくていいね」
彼は頸部に触れている棘を優しく
「さいごに僕の絵をみてくれないか」
一枚の絵をイーゼルに
私は、それをまじまじと眺める。どうでもいい風景と、どうでもいい少女が描かれた、心底どうでもいい絵だった。
不安そうに
『素敵な絵ですね』
嘘でもそういえばいい。彼は自分の凡才を
「どうでもいい絵ですね」
ある意味で、彼は他者の本音を引き出す才能があるのかもしれない。
驚いたようにランタンの火が揺れる。飢えた魔獣と
「まいったなぁ」
人差し指で何度も自分の頬を
それが人間同士が行う求愛行動の一種であると知っていたため、私は激しく動揺させられた。
この男の生存本能が死を目前にして性欲を高めたのだろうか。あるいは、単に恐怖で頭がおかしくなっただけだろうか。
「本当のことをいうときみが魔物であることが信じられない。ひとの言葉を話す魔物なんて見たことがないし……そりゃあ話には聞くけどね」
ランタンの火と同じくらい頬を赤らめた彼は、饒舌になって喋りだす。
「心のどこかで思っていたんだ。ひょっとして僕の理想の人間はこの世にいないんじゃないか。僕の絵を認めてくれる生き物は、人間ではなく、魔物なんじゃないか。言葉を話し、芸術を理解できる魔物が、さらに僕の絵に本音で向き合ってくれる恐ろしいほどの
僕は奇蹟をずっと探していたんだ。夜が切り裂かれていくみたいにはっきりとした声でいう。
「きみは何からなにまで僕の理想だ。その対価に命をくれというなら容易いさ。死ぬ前にみた幻といったほうが納得できる。だが僕の疲れもそろそろ限界だ。できればもう少し、きみと話がしたかった……」
彼はそういい残して、私を抱きしめるような体勢で眠った。しばらく呆然としていた私は、ゆっくりと彼の頭部を飲み込む。
そのまま朝を迎えた。
結局、私は彼を食べなかった。
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