BLTのベーコン抜き

西野ゆう

第1話

「なかなかの大漁だったな、わたる!」

 本日の釣り場だった沖の堤防から渡し船で港に帰ると、父さんは上機嫌で僕の背中を叩いた。ベストタイプのライフジャケットを付けているから、ポフポフと音を立てて、衝撃も吸収されている。

「まあね。でも、僕のアレ、絶対大きい鯛だったよ。グングングンって三段引きしてたもん」

 そのライフジャケットを脱ぐと、長袖のTシャツは汗でびっしょりだった。

「逃がした魚は大きいっていうからなあ、サバとかだったんじゃないのか?」

 そう言いながら同じくライフジャケットを脱いだ父さんも、やっぱり汗だく。

「いいや、鯛だね」

 僕は絶対鯛だったと、譲らなかった。でも、逃がしてしまっているから、結局なんだって同じだ。それなら夢を見ていた方がいいに決まっている。

「よいしょっと。こりゃ、ほんとに重いな。多すぎて母さんに叱られるかもしれないぞ」

 父さんは車の荷室にクーラーボックスを入れて、代わりに着替えの入ったボストンバックを引っ張り出した。

 夏休みも残すところ僅かになっていたこの日。非番の父さんが釣りに連れて行ってくれた。非番――。そう、僕の父さんは警察官だ。白バイに乗っている。小学校五年生の僕にとっては自慢の父さん。でも、本当は刑事になりたいらしい。ま、そんな父さんより僕の方が推理力は上だと思っているけどね。

「なんだか、雨が降りそうだね」

 早速僕は推理力を発揮して、この後の天気を予想した。風向きが変わって、上空から冷たい空気が滝のように流れ落ちてくる。この時期特有のゲリラ豪雨が降る合図だ。

「それじゃあ、高速乗る前にゆっくり昼めし食うか。なあ、航」

「うん、いいよ。来るときにね、一軒あったの見た? 三角屋根の」

 着替え終わった僕たちは、車に乗り込んだ。既にエンジンをかけてあった車内は、クーラーが効いていて天国だ。

「おお、見た見た。やってればいいけどな」

 父さんが「やってればいいけど」と言ったのも無理はない。僕たちがここに来たのは夜明け前の四時。その時見た喫茶店らしき建物には、当然明かりもついていなかった。

「まあ、やってなかったらコンビニでもいいだろ。とにかく、雨が止むまでは高速は乗らないでおこう」

 父さんも強い雨が降るのは確実だと思っているようだ。それもそうだろう。雷鳴はまだ聞こえてこないものの、遠く水平線の向こうで、雷がフラッシュをたいているのが見える。

 そして、父さんは慎重派だ。雨で視界の悪い時に車を走らせるリスクは侵さない。小降りの雨なら平気だけれども。

 そして、車を走らせて二十分後、曲がりくねった海岸線を走っていると、ブラインドコーナーを抜けた先に、僕たちが来るときに見かけた建物が見えてきた。

 鋭角にそびえる真っ赤な切妻の屋根は、軒先が地面すれすれまで伸びている。出窓の周りには蔦が這っていて、今にも中から寝ぼけた顔の小人が出てきそうな雰囲気だ。

 その建物の横にある駐車場に車を止めると、入り口近くに置かれたノッキングチェアーに、メニューが書かれた黒板が立て掛けられているのが見えた。

「良かったね。やってるみたいだよ」

 エンジンを切った父さんにそう言って車を降りると、一滴目の雨が落ちてきた。

「『あまやどり』だって! なんか凄くない?」

 僕は格子ガラスの入り口に書かれた店名を指さして、父さんに言った。雨宿りに来た店の名前が「あまやどり」なんて、どんな偶然だろう。

 僕この時、何か良いことが起こりそうな予感がしていたけど、まさかあんなことになるとは……。

 父さんも「本当に『あまやどり』だな」と言って、その入り口のドアを開けた。

 コロンコロン、とドアに付けたベルが楽しげな音を出した。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの向こうからその声を出したのは、若い女の人だった。どう見ても高校生くらいにしか見えない。

 そのお姉さんの他には、お店の人も、お客の人もいなかったので、僕たちは窓際の席に座ろうとした。だけど、とうとう雨が窓を強く叩き出したので、カウンター席に移った。

「えーっと、食べ物は何かありますか?」

 父さんがそう言うと、お姉さんはまず「ごめんなさい」と言った。

「父がいたらホットサンドとかもお出しできたんですけど、今はケーキセットか、トーストセットぐらいしか」

 お姉さんはそう言いながら、僕と父さんの前におしぼりを置いた。

「航、どうする?」

「トーストセットでいいんじゃない? どっちにしてもそんなに沢山食べるほどにはお腹空いてないし」

 ちょっとした嘘だった。ほんとはカツ丼でも食べられるくらいの状態だったけど、申し訳なさそうに言うお姉さんを見て、ついそう言った。

 でも、父さんにはその嘘が見破られていたようで、頭を乱暴に撫でられた。

「じゃあ、トーストセット二つで」

「はい、少々お待ちください。五分ほどでお出しできますので」

 お姉さんはそう言うと、赤いポットに水を入れてガスコンロに乗せ、厚めに切ってある食パンをトースターに入れた。

「雨、強くなってきましたね。ゆっくりしていって下さい」

「ありがとう。ここはお一人で?」

 父さんがお店の中を見渡しながら聞いた。

「ええ、一年前に父がいなくなってしまいまして。閉めるつもりだったんですけど、学校が休みの時に、常連さんたちに飲み物を出すだけでもいいから続けてくれって。でも、この先どうなるか不安で」

 そう言いながらもお姉さんは微笑みを絶やさなかった。きっと常連客って呼ばれる人たちは、ここのコーヒーというよりも、この笑顔を見ていたいんじゃないかな。僕にはそう思えた。

「いなくなったって、どうしてまた」

 あ、父さんの職業病だ。僕は父さんをひじでつついた。

 父さんは舌をちょろっと出していたけど、お姉さんは何度も同じ質問をされてきたみたい。落ち着いた口調で話し始めた。

「それが分からないんです。携帯電話も部屋に置きっぱなしで。それでも父からはたまに電話がかかってきます。ただ……」

「ただ?」

 お姉さんは少しためらってたけど、すぐ決心したように言葉を続けた。

「電話の最後に、決まって意味の分からないことを言うんです」

「意味の分からないこと?」

 お父さんは完全に仕事モードになっているのか、質問に遠慮がなくなっていた。

「ええ。三日前にかかってきた電話でもやっぱり同じ言葉を。『ライトニングトークされたらすぐに、モモのしっぽをつねって、右耳上げたら六匹のニシンを回してやるんだぞ』って」

 彼女は手元のメモを見て読み上げた。

「モモ? ペットの名前ですか、それは?」

「いえ、それが違うんです。犬は飼っていますけど、名前はルカなんです」

 何とも不思議な言葉だ。不思議だし不自然。僕はすぐに暗号じゃないかと思った。

「お姉さん、そのメモ見せてもらってもいいですか?」

 僕はお姉さんが書いたメモをよく見てみた。

 ――ライトニングトークされたらすぐにモモのしっぽをつねって右耳を上げたら六匹のニシンを回してやる。

 父さんも横からメモを覗いていたけど、全然わからないみたい。残念だけど、僕にもさっぱりだった。

 そこに、コロンコロンというドアの開く音が聞こえた。振り向くと、父さんより少し年上ぐらいの男の人が、濡れた肩をタオルで拭きながら入ってきた。大雨なのに、サングラスをかけている。ちょっと怪しい感じだ。

「いらっしゃいませ。雨、降りだしちゃいましたね。はい、メニューです」

 お姉さんが、テーブル席に座ったおじさんにメニューを渡すと、おじさんはそれに目を通すことなく注文した。

「BLTのベーコン抜きとカフェラテを」

「あの、ごめんなさい。今、食事はやっていないんですよ」

「……マスターは?」

「今留守にしてるんです。申し訳ありません」

 それを聞くと男は立ち上がった。

「じゃあ、また別の日に」

「あの、コーヒーはお出しできますけど」

「いや、結構」

 そう言い残しておじさんは店を出ていった。

「はぁ……。やっぱり食事も出せるようにならないとダメですよね。せめてサンドイッチくらいは」

 お姉さんが苦笑いしてテーブルに置かれたメニューを手に取ると、入り口ドア横に置いてあるピンクの公衆電話が鳴った。

「はい、あまやどりです。……ええ、やってますよ。……はい、お待ちしております」

 電話を切ると、お姉さんはため息をつきながらカウンターの中に戻ってきた。

「食事らしい食事はないって言いそびれてしまいました」

「まあ、トーストセットも立派な食事ですよ。それにしてもピンク電話って懐かしいですね。マスターの趣味でしょうか?」

 父さんの質問スイッチはまだ入ったままだ。でも、僕も同じことを聞きたかったから良いけど。

「ええ、なんでも基本使用料が安いらしいんです。普通の電話回線より。それと、おっしゃる通り、父の趣味でもあるんじゃないかな。古いものが好きなんですよ」

 僕は、生まれて初めて見るその電話に興味を持った。ボタンじゃなくてダイヤル式の電話なんて、実物は初めて見る。

「お姉さん、ちょっと電話みてみていいですか?」

 僕がそう聞くと「どうぞいいですよ」とお姉さんは笑顔で頷いてくれた。

 ん? そういえば……。

「お姉さんのお父さんからの電話って、このピンクの電話にかかってくるんですか?」

 僕はそう聞きながら、電話を隅々まで観察した。

「え? うん。そうだよ」

「やっぱり、これが『モモ』か」

「モモ? ああ、ピンクだから?」

 お姉さんはそう言ったけど、まだピンと来ていないみたい。父さんもそうだ。

 僕はカウンター席に戻って、もう一度メモを読んだ。

「『ライトニングトークされたらすぐにモモのしっぽをつねって右耳を上げたら六匹のニシンを回してやる』だよね……。父さん、お姉さんも。『ライトニングトーク』って言葉の意味知ってる?」

「聞いたことないな」

 そう言ったのは父さん。

「前に調べてみたけど……」

 と言ったのはお姉さん。そして、お姉さんはスマホを出して調べてくれているようだ。

「えっと、『ライトニングトークとは、英語でLightning Talkと書きLTと略されます。 これはカンファレンスやフォーラムなどのプレゼンテーションで……』」

「分かった!」

 僕はお姉さんの説明の途中で閃いた。残す謎は「六匹のニシンを回す」だ。それ以外の暗号は、電話を観察したときに意味が分かっていた。

「回すっていうのはダイヤルだろうなあ。でも、ニシンがわかんない……。ダメだ。父さん、スマホ貸して」

 父さんも心得ている。こういうことは、僕の方が得意だって。

「ほい、どうぞ」

 父さんはロックを解除して、ブラウザを立ち上げて貸してくれた。

 検索欄に「にしん」と入力する。で、「確定」を押そうとした僕の指が止まった。

「二進法!」

 予測変換に出てきたその言葉で、全ての暗号が解けた。

 でもどうしてだろう?

 ひとり納得したり、また首をひねっている僕に、父さんは眉間にしわを寄せている。

「おい航。何が分かったのか教えろよっ」

 僕はとりあえず父さんはそのまま放っておいて、お姉さんに質問した。

「さっきのおじさん。BLTのベーコン抜き。そんなもの頼む人いるんですね。トマトがダメでトマト抜きとかは結構いそうだけど」

「うん。でもたまに同じオーダーあるよ。ベーコンの油が苦手なのか、ベジタリアンなのかもしれないし」

 お姉さんはそう言ったけど、メニューにはトマトサンドもあるんだから、そっちを頼めばいい。

「BLTからベーコン抜いたら『LT』でしょ? ライトニングトーク、ね」

 僕がそう言うと、父さんはお姉さんが書いたメモを指でなぞった。そして「なるほど」と頷いている。

「モモのしっぽをつねるっていうのは? モモは電話のことだろ?」

 父さんはメモを片手に電話に近寄った。

「しっぽは多分これだよ。ここに鍵がさしてあるでしょ?」

 電話機の後ろに、「KS」と書かれた鍵がさしてある。それを見た父さんは、やっぱり「なるほど」って言った。でも、今度はそれだけじゃなかった。

「これはな、管理鍵って言って、十円玉で電話をかけるか、普通の固定電話と同じくお金を入れずにかけるか切り替えるんだ」

 父さんはそう言うと、実際に鍵を九十度回して見せた。そしてメモの続きを読んだ。

「右耳を上げたらは、こうだな」

 そう言って受話器を上げる。僕と同じ推理だ。

 そして、仕上げの六匹のニシン。

「二進数で六は?」

 僕がそう父さんに聞くと、父さんは不思議な指の折り方で、一、二、三、四、五、六と数を数えた。その六のときの指の形は、Vサインになっていた。

一一〇イチイチゼロか。……ってことは」

「ってことは?」

 暗号の解読には成功したが、それが何を意味するのか、僕も父さんも首をひねっていた。

 暗号の意味は、BLTのベーコン抜きを頼まれたら一一〇番すること。一一〇番して「ベーコン抜き頼まれた」って通報するのも変な話だ。変な話だけど、やってみたらいい。何故か僕はそう思った。

 一、一、〇と、指を入れてストッパーまで回す。〇でぐるりと回したダイヤルがゆっくり戻ると、電話がつながった。

「はい、一一〇番です。事件ですか? 事故ですか?」

 それと同時に、トーストが焼けて「チーン」と音が鳴った。


 お姉さんのお父さんは、厚生労働省に務める潜入捜査官だった。

「BLTのベーコン抜き」は、薬物取引の合言葉。

 でも、麻薬売買組織の幹部に疑われて、身を隠していたんだって。

 僕は思わぬ大手柄を父さんに譲ったら、新しい釣竿をプレゼントしてくれた。

 でもそれはきっと、自分がまた釣りに行きたいだけなんだと思う。

 僕の推理ではね。

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