第2話

 何故人を殺してはいけないのか?その問いに答えるのは難しい。しかし、次の問いなら容易い。何故人は他者を殺さないのか?そう、捕まるのが怖いからだ。ならば更に以下のように問いを出そう。何故大抵の殺人犯は捕まるのか?ラスコーリニコフが、それについて興味深い意見を残している。彼によれば、大抵の犯人が捕まる理由は「犯行の瞬間には意志と理性が麻痺したような状態になって、それどころか、かえって子供のような異常な無思慮に陥るから」である。ならば何故「犯行の瞬間には意志と理性が麻痺した状態」になるのか?なにが犯人を「子供のような無思慮」に陥らせるのか?


 最初に考えられるのは、その犯罪への思い入れである。計画的な犯行は世に多くある。しかし最も多い殺人のケースは、感情的な、ついカッとなってやったものだろう。殺人のような犯罪の場合、結果と原因の繋がりが判明なものが多い。多くの犯人は、相手への恨みや憎しみから殺害に至る。推理を進める上で、人が最も考慮する点はここだろう。誰が最も被害者に殺意を抱いていたか。この結果にふさわしい原因の持ち主は誰か。実際、真理の発見はあまり重要ではない。問題となるのはむしろ過失の驚くべき埋め合わせである。


 よって最も捕まりにくい殺人とは、理由なき殺人、結果と原因が直接的な繋がりを持たない犯行である。人類史を振り返れば、シリアルキラーと呼ばれる人間が一定数いることがわかる。ネットで検索をかければ、殺人鬼についての記事が多く出てくるだろう。切り裂きジャック、アルバート・フィッシュ、ジョン・ゲイシー、など。しかし、ここで不思議に感じることがある。 何故彼らは捕まらずにこれだけの人間を殺すことが出来たのか。一般的な犯人は容易に捕まるのに、何故彼らはそうならなかったのか。それは、彼らの犯行が理由を持たないからだ。なるほど、間接的に彼らを殺害に走らせた原因はあるかもしれない。しかし、捕まりづらい犯人は、常に被害者と直接的な関係を持たない。知り合いだったとしても別に深く思い入れがあるわけではなく、痴情のもつれや、愛憎の果てに生まれた事件とはわけが違う。無関心な犯行こそが、殺人の成功をより確実なものにするわけだ。


 しかしここで、人が犯罪に失敗する第二の理由を考えなければならない。それは「殺人」という言葉、あるいはその行為に含まれる一般的な意味である。リルケが傾聴すべき意見を残している。「名前というものには気をつけなければならない。一つの生命を破滅させるのも、しばしば犯罪の名前であって、本当に名づけようのない個人的な行動そのものではないことがある……」これは彼が手紙に残した言葉である。


 同性愛を例にとってみよう。今では少なくなったが、かつては同性愛に罪深いものを見出す人は多かったに違いない(そして、それ故に同性愛に惹かれる人も多かったろう)。事実、聖書の中では男色は罪とされており、十九世紀イギリスでもそれは犯罪であった。懊悩する同性愛者は、自らが分類される「同性愛」という言葉に含まれた意味のために苦しむだろう。それ自体で罪深いとされるものに自分が分類されること、一般性から除外され、他人から好奇の目で見られ、裁かれる対象となること。「同性愛者」という言葉には、名乗る側が意図しなくとも、そのような意味が含まれてしまう。


 同情を誘う犯行というものがこの世にはある。妹が義父に性的虐待を受けているさまを目の当たりにして、兄が殺害に至る時、誰も彼の犯行を責めようとは思わないだろう。事実、彼のおかげで妹は救われたのだし、義父は、見方によっては然るべき罰を受けたと言える。しかし、兄は自分のした行為の名前、すなわち「殺人」という名前の持つ意味のために苦しむだろう。自分が一般性から外れ、他から白い目で見られるような人間になることに劣等感を覚え、自分が分類されるカテゴリーのもつ罪深さに苦しむだろう。人を裁くのはその者の行為なのではなく、むしろその行為に与えられる名前なのである。


 確かにラスコーリニコフは捕まった。自首したのだ。自分の行為の背負う名前の重さに耐えられなかったのである。しかし、失敗した理由はそれだけではない。たとえ自分の犯行に崇高な内容を与えようとも(「ナポレオンになりたかった」と語るラスコーリニコフの有名な「天才は人を殺してもいい」という理論)、彼自身が殺人に走ったのは、彼の生活が追い詰められていたため、妹が金銭のために望まぬ結婚をしようとしていたため、世の善良な人々の不幸を目の当たりにしたため、そして悪人がいい思いをして善人が苦しんでいるように見えたため……とにかく沢山の原因が積み重なった上であった。結果として、彼は他の犯人と同じように、「意志と理性が麻痺したような状態」あるいは「子供のような無思慮」に陥ってしまったのである。



 そもそも何故、人を殺す必要があるのか?ラスコーリニコフと違い、俺は生活が追い詰められているわけでもなければ、世の中に絶望したり、妹が金銭目的で男に抱かれようとしたり、母親がそのことを手紙で知らせてくるわけでもない。そもそも俺には妹も母親もいない。なら何故、人を殺さなければならないのか?ブレッソンやドストエフスキーを越える作品を生み出すために、わざわざそんなことをする必要があるのか?


 無論、そのはずがなかろう。結局、自分がこんなにも殺人に興味を持った理由は、経験してみたかった、ただそれだけだ。人を殺す時、相手はどんな顔をするのか。自分はどんな反応を見せるのか。やはり緊張に手が震えるのか。ラスコーリニコフのようなミスを犯すのか。そして何より、上に立てた自分の推論は正しいのか。果たして自分の考えた捕まらない犯罪、理由なき殺人は、本当に最も捕まりにくい殺害方法なのだろうか。それが知りたかった。人を殺すという行為は、当たり前だがそう体験できないことだ。もし出来るのならしてみたい。結局のところ、俺の犯行動機は好奇心からだと言っていい。


『罪と罰』は、この点で非常に参考になった。ラスコーリニコフという「意志と理性による殺人」を夢見た先人が、いかにして失敗したかを示してくれたから。おかげで同じ轍を踏む可能性は大いに減った。もしドストエフスキーがこの事を知ったら、きっと悲しむに違いないだろうが。


 さて、今や次に問うべきことは明瞭である。誰を殺すべきか、あるいは、いかにして殺すべきか?どうすればひとつの行為から、原因、目的、理由を取り除くことが可能になるのか?あるいはそれを可能な限り取り除くには、どうすればいいのか?この答えを出すことも、最早そう難しい話ではない。そう、できる限り自分に無関係で、自分から遠く離れた、無関心な相手を殺せばいいのだ。



 ここで再び、捕まる夢を見た晩のことを思い出す。


 あの晩、俺達は酔っていた。コウタの家にあったウィスキーのボトルを勝手に開けた。家主とタカシの二人はゲームで盛り上がっていた。そして、ぼんやりそれを眺めていた。差し入れに持ってきた数袋のポテトチップスは既に空になっていた。返しに来た『スリ』と共に、何本か好きな映画のDVDも持ってきた。しかし、誰も映画を観る気分ではなかった。もっと楽しいことがしたかった。馬鹿騒ぎしたい気持ちだった。しかし、騒ぐためには飯が必要だった。三人ともお腹を空かせていた。


 タカシが言った。


「あー、なんかピザでも頼むか」


「でもお前金ないだろ」


「そういやそうだったわ。うぜー」


 その場に寝っ転がり、続けて言った。


「むかつくから万引きしてこようかな」


「どうやってピザ万引きすんだよ、宅配なのに」


「確かに。それもそうだわ。うぜー」


 家主であるコウタは笑いながら立ち上がった。そして「パスタをつくる」と言った。俺とタカシはふてぶてしく「俺らの分も頼む」と言った。コウタはそれを承諾した。


 リビングに残された俺達は、そのまま話を続けた。


「てかお前万引きしたことないの?」


 タカシがきいた。


「いや、ないよ。恥ずかしながら」


 俺は返した。


「ったく、これだからお坊ちゃんは」


「お坊ちゃんじゃねえよ。ガリ勉だったんだ。変に道徳心が強かったから、そういうのやり損ねちゃったんだ」


「なるほどねえ。まあ俺も今じゃやらないがな。中学の頃とかはよくやってたよ。しかし、ガキの頃は誰しもやったことあると思ったんだがな。いや、金がなかったからじゃないんだよ。単に面白くてやっててさ」


「注意されたことないのか?」


「ないんだな、それが。結構荒業してたんだけどな」


 三人は以前あるバイトで知り合った仲だった。それぞれ生まれも育ちも違うが、どういうわけか趣味や話のウマがあった。俺は友人の万引き話に興味を抱き、色々根掘り葉掘りと聞くことにした。


「一番見つからない盗みの手段、なんだと思う」


 酔って調子づいたタカシが言った。


「いや、わからんな。検討もつかんよ」


「盗みを盗みと思わないことだよ」


「ほお」


「大体のやつは、なにか悪いことをする時、『ああ、自分は悪いことしてるんだ』って気持ちがある。だから失敗するんだ。態度に出るんだよ。オドオドしたりして、いかにも『はい、自分がやりました』みたいな顔をする。けれども、捕まらないで何かをしたいなら、犯罪を犯罪と思わないに越したことはない。いかにも平然とした顔で、まるで息をするようにやるんだ。するとバレない。なんか変に思われても、こっちが自信満々で、なんてことない顔してるから、注意するのも変な気がしてくる。それに、犯罪者ってやつは、傍から見れば何を考えてるのかわからない。注意したくとも、関わりたいと思えるやつはいないのさ」


「へえ、そんなもんかい」


「おう、そんなもんだよ」



 散乱した部屋。空になったウィスキーのボトル。灰皿には煙草の吸殻が詰め込まれていた。夜に似合わない電燈が、部屋を不気味なまでに青白くしている 。二人はそれに照らされながら眠っている。自分と言えば、彼らのいびきを聞かないために、イヤホンから音楽を流していた。Jコールの"4 Your Eyez Only"は、今まさに二曲目の再生を終えようとしていた。


 To die a young legend or live a long life unfulfilled

 'Cause you wanna change the world

 But while alive you never will

 伝説となって若く死ぬか、満たされないまま人生を長く生きるか

 世界を変えたくとも

 それが死ぬ前に実現されることは決してない


 眠ろうと思ったが眠れなかった。部屋の電気を消そうかとも悩んだが、腰を上げるのが面倒だった。それに、何だかじっと白い天井を見つめていたい気持ちだった。先程タカシのいった言葉が、頭から離れなかった。


 身体を起こした。電気を消して眠りに入るためではなく、無音で『スリ』を再生するためだった。イヤホンはまだ外していない。今はまだJ.コールの声をしばらく聞いていたい気分だった。


 音もなく動き続ける画面をぼんやり眺めて、既に数十分が経過していた。映画は後半に差し掛かった。突然、頭の中でバラバラになっていたピースが繋がりを持ち始めた。縦横無尽に駆け巡り、これまで無関係に思えたものたちが、星座のごとき結び目を持ち始めた。夏の夜、山地で初めて天の川を目にした少年の日の思い出が呼び起こされた。ブレッソンの描く硬質な、モノクロームの画面にさえ、この閃きのためにあるものが映っていると思われた。


 犯行計画を思いついたのは、まさにその時であったのだ。

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