第30話
気を引き締め直したその翌日。功を奏したのか、問題が起こることなく過ごせました。
とはいえわたくしを取り巻く空気は、少々不穏です。エスト嬢を快く思わず害そうとしているようだ――という噂が定着してしまいました。
そのおかげというのもどうかと思いますが、彼女を快く思っていない何人かの存在を知ることができましたわ。
彼ら、彼女らはエスト嬢の存在を罵り、わたくしの行いを褒め称えましたから。
身分によって人の価値を決め、己の中で価値のないものは傷付けても構わない。むしろ当然の権利だと言わんばかりでした。あまり親しくはしたくない方々ですね。
逆に現状でわたくしを見て眉をひそめた方々を、エスト嬢に紹介して差し上げるといいかもしれません。
……事が、すべて落ち着いたら。
さて。あらぬ疑いがこれ以上増えないよう、今日はすぐに帰るとしましょう。トレス様に贈る不死鳥の刺繍をしている方が、余程心安らぐというものです。
だというのに。教室から出たその直後、廊下で小さな悲鳴が立て続けに上がりました。
「?」
そちらに目を向けると――何とエスト嬢が、全力疾走しています。
何事もなく終われると思ったのに……。
目的が他にあって、わたくしの隣を素通りしてくれないものでしょうか。
一縷の望みをかけてみましたが、現実は無情です。エスト嬢はわたくしの目の前で止まりました。
中腰になり、膝に両手をついて肩で息をする姿は、とても淑女のものとは思えません。
けれど形振り構わず走ることができる彼女の勇気に、少しの羨ましさも感じます。
「どうなさいましたの?」
「ク――クルス、が」
「クルスさんが?」
「あたしを襲わせた二人の、黒幕だって!」
「な……っ」
何ですって……!?
「ヒューベルト……先生がDクラスに来て、そう言ってクルスを連れて行ったの」
今、敬称を付け忘れるところでしたわね?
エスト嬢が貴族だから、という理由で誰かを敬ったりはしない方なのはもう分かっていますから、わたくしも指摘はしませんけれども。
「どうしたらいい? 絶対違うと思うけど、貴族が犯人だって言ったら、平民は犯人にされちゃうわよね!?」
「落ち着いてください、エスト。――イシュエル殿下に立ち会っていただくのはいかがでしょう」
昨日、貴族の平民への横暴について、あれだけ憤っていたのです。きっと、無茶な理屈を通すことを許しはしないでしょう。
殿下は、エスト嬢に好感を抱いているように見受けられますし。
「そ、そうかも! あたし、殿下を呼んでくる!」
「お待ちなさい」
どれだけ動転しているのですか。
――いえ。当然ですね。わたくしだって、もしお姉様やトレス様が同じ目に遭っていたら。
……トレス様、も?
お姉様のお力になりたいと思う気持ちは、もうずっと前から――物心がついた頃には、わたくしの常識となっていました。
そのお姉様とトレス様を、自然に並べて考えたことに、わたくしは自分で戸惑いを覚えます。
ええ、でも、気のせいではない。
トレス様に何かがあっても、わたくしは走るでしょう。トレス様がわたくしにしてくださったのと同じように。
形は違っても、エスト嬢もきっと同じ。
大切だから、走るのです。
「貴女がイシュエル殿下に頼みごとをするなど、要らぬ火種を増やすだけです。わたくしが参りましょう」
わたくしなら、声をかけるぐらいは周囲からも許されます。内容を伝えることさえできれば、イシュエル殿下はきっと動いてくださるでしょう。ご自身の正義には忠実な方ですから。
「貴女は先に、クルスさんの元へお行きなさい。誰かが自分を信じてくれている実感は、強い支えとなるものです」
おそらく今クルスさんは、とても心許ない気持ちでいるでしょうから。
「分かったわ」
「ヒューベルト先生とクルスさんは、今どちらに?」
「教務棟の生徒指導室。――じゃあ、あたし戻るわね! なるべく早くお願い!」
「そういたしましょう」
わたくしがうなずききらないうちに、エスト嬢は駆け去って行きました。
では、わたくしもすぐに参りましょう。
イシュエル殿下とトレス様は同じ第三学年であり、Aクラスです。運がよければ、トレス様にも同行していただけるかもしれません。
急ぎ階段を上り、お二人が所属する教室へと向かいます。
「――失礼いたします」
すでに放課後なので、扉は開け放たれたまま。入口で一礼してから、中へと入らせていただきます。
「ロア」
「ラクロア」
わたくしを見つけたトレス様とイシュエル殿下が、ほぼ同時に声を発しました。
「どうした。何かあったのか?」
「はい。先程エスト嬢が来て、クルスさんが彼女を襲わせた犯人だと、ヒューベルト先生に連れて行かれたと報告にきました」
「……どうしてそんなことに」
唖然とした様子でトレス様は呟きます。
まったくもって、わたくしも同感です。
「クルス? 誰だ」
イシュエル殿下。貴方はご自分が興味のある方以外にも、きちんと目を向けてくださいませ。昨日、エスト嬢を送って行ったのなら、彼のことも紹介されたでしょうに。
とはいえ、イシュエル殿下は貴族であれば男爵の養子であろうとも覚えていらっしゃる方。
それが平民となった途端にこの意識なのですから、ご自身の中での認識が知れるというものです。
「ファディアの友人だ。昨日も側にいた」
「ああ、彼か」
やはり存在は記憶していたご様子。
「だが彼はエストの友人で、しかも平民だ。中央区に人を送る術はないし、エストを襲う理由もないだろう」
「ええ。ですがそのような理屈が貴族にとって関係がないことは、殿下もご存知と思います。今彼を――エスト嬢を救って差し上げられるのは、イシュエル殿下だけですわ。どうか、足をお運びいただけませんか」
「無論、構わない。だがラクロア。お前は何を企んでいる」
イシュエル殿下の中では、わたくしが一連の犯人ですものね。警戒されるのは無理のないことでしょう。
「彼が犯人だとは思えないからですわ。さあ、殿下。クルスさんが自白させられ、処罰が下る前に止めなくては。急ぎましょう」
「そうだな。たとえお前が何を企んでいたとしても、無実の者を見捨てる理由にはならない」
わたくしではありませんが、企んでいる誰かがいるのは確かです。
イシュエル殿下が前面に出ることで、諦めてくれるとよいのですが。
自然の流れで、わたくしとトレス様もイシュエル殿下の後に続きます。家名を使われたのですから、無関係とは言わせませんわ。
「入るぞ」
生徒指導室に着くなりそう言ってイシュエル殿下は扉を開け、中に踏み込みます。
部屋にいるのはエスト嬢とクルスさん、そしてヒューベルト先生です。
「クラウセッド侯爵令嬢……はよいとして、イシュエル殿下、ヴァルトレス殿下。このような所に一体何の御用です」
「貴族の監督は私の仕事の一つだ。居られて困ることがあるのか?」
「わざわざお越しいただくほどの案件ではない、と申し上げただけです。お望みであるのなら、ご随意にどうぞ」
ヒューベルト先生の声にも態度にも、動揺は見られません。本心から仰っているように思えます。
「さて、話を戻そう。クルス・ミゼアン。これは中央区に侵入した平民が、門を通過するために見せた許可証だ。クィスパー子爵の署名がある。クィスパー子爵とミゼアン商会は、取引があるな?」
「あります。しかし、僕は許可証を持ち出してなどいないし、誰かに渡したりもしていません。家を調べていただければ、我が家にある許可証が動いていないことが分かるはずです」
クルスさんは潔白を主張します。
常ならばどれだけ潔白であっても平民の主張が通ることはほぼありませんが、イシュエル殿下は認めてくださるでしょう。
殿下がそうヒューベルト先生を止める前に、彼はクルスさんの言を否定しました。
「語るに落ちたな、ミゼアン。調べた上で、言っている」
「……え」
……え?
無表情で告げられた内容に、クルスさんは愕然とした呟きを零します。
わたくしも同じ気持ちです。
だって、彼らを警備軍に引き渡したとき、わたくしも確認しているのです。
彼らは許可証など持っていなかった。
「お前は以前から、クラウセッド侯爵令嬢を嫌っていたそうだな。署名も読めない平民二人を金で雇うのは、難しくなかっただろう? 彼女を陥れ、ついでに好意を抱く女子に恩でも着せるつもりだったか?」
「違う!!」
純粋な気持ちまでをも侮辱されてか、クルスさんの顔に、怒りによる朱が差します。
「いくら口で否定しようと、証拠は揃っている。ファディアを襲った二人から取れた使いの者の特徴も、お前とよく似ているぞ。悪足掻きはよせ。立場がより悪くなるだけだ」
「違う。僕じゃない。僕ではありません――」
すでに周到に事実が用意されていることを悟ったのでしょう。クルスさんの顔から血の気が引いて行きます。
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