第29話
わたくしの隣で、トレス様が小さく舌打ちをします。
わたくしへの理不尽で、実の兄であるイシュエル殿下にさえ苛立ってくださった。兄弟の不和の種になりそうなのは申し訳ないですが、そのお気持ち、嬉しく思います。
……そんなことを考えている時点で、わたくし、やはり性格が悪いのかもしれません。猛省します。
「クラウセッドを敵に回す気か? 兄上」
「必要とあれば。トレス、お前も。情勢で尻尾を振る相手を変えるような、見苦しい真似は止めろ。その血がそうさせるのか? だがせめて父上に恥じぬよう、王族としての誇りをきちんと持て」
「――」
一呼吸分。トレス様は間を空けました。
強い動揺が現れたわけではありません。きっとそれも、トレス様にとっては言われ慣れてしまっている事。
それでも心が何を感じたかは、抑え込むように力が入ったその拳が物語っています。
「臣下を敵に回せば、できることさえできなくなるぞ。兄上の行いは平民や下位貴族には歓迎されるかもしれないが、高位貴族は兄上の治世を怖れるだろう。本気で変えたいなら、今はクラウセッドを敵にするべきじゃない」
事象に聞く耳を持っていただけなかったので、政治の方面から説得なさるおつもりですのね。
効果は高いと思います。クラウセッドが本気になれば自分が廃嫡される可能性があることは、イシュエル殿下も分かっていらっしゃるでしょうから。
これは、トレス様にしか口にできません。
レグナ様が言ったら、王家へ反意ありと取られかねませんもの。
「ロアを罰したところで、得られるものはないに等しい。正しさだけで事が運ぶなら、そもそもそんなことは起こらないんだ」
「それは、そうだが」
自身の正しさを肯定した弟に、イシュエル殿下の感情が軟化したことが窺えます。
「真に得たいものを得るためにどうするべきか、兄上には分かっているだろう?」
「正しさが、正しいだけで通る世の中のために、か。ああ確かに、今の私には力が足りない」
心底口惜しげに、イシュエル殿下は認める言葉を紡ぎました。
「私が王位を継いだ暁には、歪んだ権力の行使を許しはしない。覚えておけ、ラクロア。――そして、アリシア。身内だからと庇いだてをするなら、お前も同じ末路を辿る。善悪の分別を付けてくれるよう、切に願う」
「……」
まるでイシュエル殿下のお言葉に心当たりがあるかのように、お姉様は顔を強張らせます。
お姉様の反応にとりあえず満足したのか、イシュエル殿下は改めてエスト嬢へと向き直りました。
「エスト、行くぞ。ここではゆっくり休めもしないだろう。今日は何も危ないことが起こらないよう、私が送っていく」
「あ……。えっと、はい。あの、ありがとうございます」
少しためらいつつも、エスト嬢はイシュエル殿下の厚意を受け取ります。
とはいえこれは、わたくしたちのためですね。エスト嬢がイシュエル殿下を引き受けてくれたこと、感謝します。
イシュエル殿下に手を取られ、エスト嬢と、彼女についてクルスさんも医務室を後にしました。
「……あ。会議で決まった内容、伝えそびれた」
一番初めに口になさるのがそれですか。実行委員長の鑑ですわね。
「わたくしたちが伝えるのは諦めた方がよろしいかと。今日出席した、Dクラスの方に頼むのはいかがでしょうか」
「そうだな」
うなずいたレグナ様が心なしか不機嫌に見えるのは、おそらく気のせいではないでしょう。
「あれが、次代の王か……。一々詭弁が必要そうだ。面倒くさいことになりそうだな」
順調にいけばレグナ様は魔法局の局長となり、王と直接言葉を交わすことも少なくないかと思われます。
そのことにあまり明るい展望を見ていないご様子。
仕方ありません。レグナ様とイシュエル殿下は、相性が良いとは言えませんもの。
「――すまなかったな、ロア」
兄が去って行った扉をしばしの間見詰めていたトレス様は、わたくしに向き直るなり、そう謝罪の言葉を口にされました。
「トレス様に謝っていただくようなことは、何もなかったかと思いますが……? わたくしは助けていただいたのですから」
「俺は、お前の名誉を守ってやれなかった。あんな下らない言い訳で場を濁して、結局、お前に咎を負わせている」
「いいえ。トレス様に守っていただけなければ、わたくしの名誉など、今頃地に落ちているでしょう」
皆の規範となるべき侯爵令嬢が、王族から謹慎を言い渡されるところでした。前代未聞ですわ。
「それよりも。ご自身もお母様も侮辱されて、それでもトレス様はわたくしのために利を説いてくださった」
悔しくなかったはずがありません。イシュエル殿下がお母様を軽視した発言をなさったとき、トレス様はそれに対して抱いた感情を抑えるための行動を起こしましたから。
「必要のなかった我慢をさせて、申し訳ありません。そして、ありがとうございます」
「……お前が良かったと思ってくれるなら、やった甲斐はあったよな」
ほっとした様子で、トレス様はようやく、ぎこちないながらも笑みを浮かべます。
「トレス様がいらっしゃって、とても心強かったです」
「そうか」
「ロア、わたし! わたしは!?」
「勿論、お姉様もですわ」
お姉様のお姿があるだけで、わたくし、勇気を貰えますもの。
わたくしのために乱れてしまった御髪を、失礼ながら少し整えさせていただきます。
「ありがと」
「こちらこそ」
はにかむお姉様の柔らかな笑顔に、自然とわたくしの口元も緩んでしまいます。
ここに敵はいませんから。いいですよね?
「正しいことが正しいだけで通る治世か。兄上にはぜひ、叶えてもらいたいものだな」
「どうでしょうね。イシュエル殿下が目指している正しさは、権力者に都合がいいだけのものに思えますが。いっそ、貴方が目指していただけませんか、ヴァルトレス殿下」
まあ。ついにご本人にまで口にしてしまいましたわ。
トレス様に王座を狙う心積もりはないはずですが……。
わたくしが依然聞いたときとお気持ちは変わっていないようで、トレス様は億劫そうにため息を一つ付きました。
「今のは聞かなかったことにしておいてやる。そんな過激思想は捨てて、己の後に続く者たちへ繋ぐ方法を考えろ」
ご本人から素気無く断られたレグナ様は、落胆するでもなく、驚いた様子で目を瞬きます。
「何だ?」
「いえ、ラクロアと同じことを仰るのだと思って。お二人が会ったのは最近ですよね?」
「……まあ、アリシアの影響を受けてたら、多少通じるところは出てくるよな」
?
お姉様とトレス様も、意思を共有できるような強い繋がりはなかったかと思いますが……。
「ってことは、やっぱり貴方もなんだ? ロアから話を聞いてて変だなーって思ってたけど」
「そうなる。だから一度会って話そうって、散々言っただろうが」
「あははー。ごめんごめん。逃げることしか考えてなかったのよー」
お姉様、それはご本人に言うにはかなり失礼ですわ……!
けれど言われた当人であるトレス様は仕方なさそうな顔をしただけ。本当に大らかな方です。
「エストも別にわたしたちに害意があるわけじゃないし、問題なんか起こらないはずなのに。着々と破滅に向かってるのはどうしてなのかしら」
「ただの因果の結果だと、最近思うようになった。ロアの行動もファディアの行動も、そうさせるために動かされたものではなかっただろう。そもそも起こり得る要因がある、というそれだけだ」
「そうなのかもしれないわね。エストが優秀で気に食わないのは、別にアリシ――じゃない。貴族の中には少なくない人数いるでしょうし」
お姉様、今、ご自分の名前を仰いませんでしたか?
「エスト嬢も勿論だが、間違いなくラクロアにも悪意は向いている。それらしい証拠が出て来たら、イシュエル殿下は嬉々として飛びつくだろう。身の回りには一層注意した方がいい」
「ええ、ご忠告ありがとうございます」
とはいえ、お父様までもがクラウセッドを騙った何者かを探しています。辿り着くのは時間の問題でしょう。
それまでにイシュエル殿下から更に睨まれることのないよう、身辺には精一杯気を付けようと思いますわ。
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