第12話
「考えていても仕方ないよな。――何か手伝うことはあるか?」
「えっ!?」
唐突に、わたくしにも分かる内容に戻ってきました。さらに、言われた事柄そのものにも驚いてしまいます。
「そんな。王子殿下の手を煩わせるようなことではありませんわ」
「そりゃ、王子としての職務じゃないだろう、どう考えても。単純に上級生として、婚約者として、手伝いたいと思っただけだ」
「――」
わたくしたちの婚約は、国の都合です。
その関係のための行いも、大別すれば王子としての役目と言えるかもしれません。けれど仰る通り、しなければならない職務ではない。
だから公の立場ゆえではなく、それでも、手を貸してくだると……。
「あー……。この言い方じゃ断れないか。悪い。えーと……。……駄目だ思い付かない」
もどかしそうに頭を掻き、ややあって、諦めたため息をつかれました。
「邪魔して悪かった。俺もう行くから、後はゆっくり」
「あの!」
もしもこれが役目のための提案ならば、わたくしは殿下が退こうとした時点で、引き止めるべきではありません。
けれど仰ることがそのまま真実なら、わたくしは。
「よ、よろしければ。昨年、一昨年のお話を参考に伺わせていただけたら嬉しいです」
わたくしも、トレス様に近付きたい。
…………というか今、わたくし、お言葉を遮ってしまいました!
焦ったからといって、何ということを。猛省します。
青くなるべきか赤くなるべきか、わたくしの体の中で血も迷っているような気さえします。うっ……。頭がぐらぐらしてきました……。
「――そうか!」
一瞬きょとんとした間を置いてから、トレス様は破顔し、声を弾ませてそう言ってくださいました。
トレス様は、あまり感情の起伏が大きくない方です。感情が薄いというよりも、理性と思考が先だって、冷静な部分が必ず残る――そのように見受けられます。
だからこそ、何というか。
感情そのままのようなその笑顔は、反則ですわ!
「ありがとう」
「な、なぜトレス様がお礼をおっしゃるのです?」
手伝っていただくわたくしがお伝えするべき言葉ではないでしょうか。
「まあ、あれだ。正直、俺は結婚相手として結構なハズレ枠だと思う」
「そのようなことは」
否定の言葉は、途中で片手を上げて止められてしまいました。
……そうですわね。ご自分がそう見られていることをご存知の方には、意味のないことです。
「お前にとっては不運だっただろう。縁談は姉のものだったのに、貴族として、真っ当に華やかに活動する場を失った」
トレス様に求められているのは、地位はあれども権力はなく、そこでただ大人しくしていること。妻たる者も同じです。
「それでも、受け入れてくれようとしているから、さ」
「お言葉ですが、トレス様。大貴族だからといって、誰もが栄華を望むわけではありませんわ」
クラウセッド家の娘として、必要であればこなさなくてはなりません。それがわたくしに向いているかどうかは分かりませんし、これから先も知る機会がないことが、ほぼ確定しています。
ですがそんなことより、わたくし、今確実に自信を持って言えることがあるのです。
「わたくしは、トレス様の伴侶となれるこの身の幸運を嬉しく思っています」
「……幸運か?」
「はい。だって貴方は、わたくしのことを想ってくださっている」
今手を差し伸べてくださったことだけではありません。トレス様はずっと、わたくしに歩み寄ろうとしてくださっている。
わたくしは何より、それそのものが嬉しいのです。
「それはハードル低すぎだ……。と言いたいところだが、そうでもなかったか、ここじゃあ」
「ここ?」
不思議です。まるで別の場所を想起しているような言われ方ですわ。
「それはそれで悔しい気もする……。面倒くさい奴だったんだな、我ながら」
「トレス様?」
「よし、決めた。――ロア」
「は、はい?」
独りごちていらっしゃったトレス様が、急にわたくしに向き直りました。その瞳に強い光を宿しながら。
「幸せになろう」
「幸せになる、ですか?」
わたくし、今の時点で充分な幸せ者だと思います。
お姉様の件に関しては誤解でしかないと思いますが、エスト嬢の訴えは心の底からの事実でしょう。金銭的に余裕のある家に生まれたこと自体、わたくしはすでに幸運なのです。
そしてこのまま、何事もなくトレス様と結婚できれば、穏やかな一生が送れると思います。女性として得る、最高の人生だと言って過言ではありません。
家に入り、家を継ぐ子を成す。それが貴族の女性に求められる役割です。その相手が己を尊重してくれる方ならば、もうこれ以上ない幸福だと言えます。
男性側は妻に子どもさえもうけさせれば、そのあとはある程度自由です。本当に愛している相手を愛妾として囲うことも珍しくありません。
しかし女性はそうではない。不貞を働けば罵られ、離縁され、困窮することになります。
だからこそ女性は、求められた通り貞淑でいるしかない。婚約者に、夫に気に入られるように阿るしかない。そうでなければ破滅しか待っていないのだから。
お姉様はその社会構造を、理不尽だと仰っていました。言われて初めて気が付きましたが、そう、正に理不尽なのだと思います。
けれど、何もできない。なぜならば権力を手にしている男性たちにとって、それが都合がいいことだから。
変えられる人が変える気がないのだから、変わるわけがないのです。
それでも諦めずに変えようとするならば――……駄目です。どうすればいいのか、わたくしには分かりません。お姉様でさえ、言葉に詰まって視線を落とすほどの問題です。
「お前が今何を考えているか、一応、察しはつく。だからこそ言わせてもらう。ロア。俺はお前に、心からの幸福感を持って俺で良かったと言ってもらいたい。心を凍らせてやり過ごし、教え込まれた常識の中の幸いではなく、本当の意味での幸せをだ」
「あの……。申し訳ありません。仰ることがよく分かりませんわ」
優れた養育環境を与えられ、安全に暮らし、家族にも恵まれています。日々、わたくしは幸せですわ。
婚約者であるトレス様も、好ましいお人柄。これ以上の幸福があるものでしょうか?
「それを教えてみせる。必ずな。……でなきゃ俺が、多分、納得できない」
「……」
断言された声の力強さに、とくりと心臓が常より大きく脈打った気がしました。
けれど、なぜでしょう。決して不快ではなかったそれに、わたくしは怖れを感じます。知らないはずなのに、『それ』は知るべきものではないと、心のどこかから警告されているような。
「まあそんなわけで」
ふ、と空気を緩めトレス様が微笑すると、わたくしの体からもいつの間にか入っていた力が抜けました。
「まずは楽しい思い出をつくるとしようか。昨年はアリシア発案の異国情緒溢れる特殊系だし、一昨年の兄上案はオール伝統で参考にするのはどちらも微妙だ。二年連続で変化球が続いたなら、今年は皆に馴染み深い形に戻ったほうが受けがいいかもしれないぞ」
「はい。わたくしにお姉様のような発想力はありませんので、伝統を崩さず流行を加える形で纏めたいと思いますわ」
昨年のお姉様たちが主催したガーデンパーティーは、とても評価が高かったものです。静寂の中に荘厳さを感じる、静謐で美しい空間でしたわ。
お姉様は『わびさびよ』と仰っていました。発案者たるお姉様が名付けたのならば、あの空気感はわびさびというのでしょう。
しかし、不思議な音です。語源はどこの言葉なのか、さっぱり聞き覚えがありません。
そしてもちろん、イシュエル殿下を始め、王室も大絶賛でしたわ。
「割合的に、どれぐらいが好まれるんだろうな。まあその辺は会合で詰めるところか。まずはモチーフを探しに行かないとな」
「はい。――あっ」
「ど、どうした?」
わたくし、今大変な事実に思い至ってしまいました。
本棚に向かいかけていた足を止めてまで声を上げて固まったわたくしに、トレス様が振り向きます。
「エスト嬢に謝罪をしそびれてしまいましたわ……」
「あー……。向こうも喧嘩腰だったからなあ……」
エスト嬢にまったく非がないとはわたくしも言いたくありませんが、それとこれとは別問題です。近いうちに機会を持つ必要がありますわ。
「次は、穏便に話ができるといいな」
「はい」
遅くなるだけ誠意が薄れる気がいたします。優先順位を高く考えておきましょう。
「ファディア本人はあんまり気にしてないっぽいけどな」
「そういう問題ではありませんわ」
エスト嬢が気にしていないかもしれないことと、わたくしが無礼を働いたことは、やはり別問題です。
「謝罪とは、自らの非を認め、償うためにするものです。許していただくためではありますが、どこまですれば許されて当然、というものでもありません」
それは被害を受けた方だけが決めてよいことですもの。相手を傷付けたのであれば、一生償い続けたとて許されないのを覚悟するべきです。
とはいえ、今回の件に限って言えば、わたくし、エスト嬢が言葉以上の謝罪を求めてきても応じるつもりはありません。謝罪にかける労力は、己の罪をどれ程と認識しているかにも比例いたしますわね。
今回の無礼に対するわたくしの認識はそこまでです。
「謝意は受け取っていただきまずが、付き返してくるのも、許すのも許さないのも彼女の自由ですわ。ですが、主張はします」
「謙虚なのか傲慢なのか、微妙だな」
「そ、そうでしょうか」
「ん。でも、俺は好きだ。これからは俺もそうするか」
トレス様は楽しげにくつくつと笑って、そう肯定してくださいました。それにわたくしはほっとしているのを感じます。
自らを認めるのは、己自身。ですが他者からの肯定がなければ、中々難しいものであるのも事実だと思うのです。
「さ、始めるぞ。時間は案外、早く流れるものだからな」
「はい、トレス様」
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