第7話
「申し訳ございません」
婚約者の悪評は、トレス様にも傷を付けます。この失態を、どうお詫びすればよいのでしょう。
「ああ、いや。悪い。言い方が悪かった。人の行動なんて難癖付けようと思えばどうとでも言えるものでしかないから、そこは別に深く考えなくていい」
「ですがわたくし、トレス様にもご迷惑を」
「悪評の一つや二つで傷付く儚さがあったら、今頃俺はとっくに自殺していなくなってるから安心しろ。俺が聞きたかったのは、お前の真意についてだ。なぜ相手の礼儀に応えなかった?」
問題となったわたくしの行動は、間違いなく起こした事実。被害を受けたトレス様には隠すことなくお伝えするべきですね。
「エスト嬢が、お姉様に敵意を持っているように見えたのです。わたくしのことは知らないようでしたので、素性を知られる前に彼女と話がしたいと思いました」
ただ一つ噂に対して抗弁させていただくなら、わたくし、たとえ相手が貴族のご令嬢、ご令息であっても同じことをした自信があります。
……ええ、もちろん褒められたことではありませんけれど。
「あー……。なるほど。そっちもか……」
「?」
そちらも、とは、どこにかかってくるのでしょう。
「お姉様はエスト嬢からの敵意に、思い当たるところがあるようでした。けれどエスト嬢は貴族に知り合いはいないと言っています」
まったく関わりのない相手に、敵意など持つでしょうか?
貴族全体へというのならば納得できますが、そうではなかった。
「あの方は、一体何者なのでしょう」
「抜群に高い魔力を持った平民だ。今のところは。……しかし、アリシアに敵意か。俺も一回会ってみるかな」
お姉様のことで、トレス様自らが――?
そのお言葉を耳にした瞬間、お腹の中にコトリと氷の塊が落ちた心地がしました。
やはりトレス様は、お姉様のことを……。
「ロア? どうした」
「ど、どうした、とは?」
「気分が悪そうだ」
「……いえ。そのようなことはありませんわ」
指摘され、わたくしは慌てて笑みを作りました。空々しいのは承知ですが、他にどうすればよいのか分かりません。
「――……」
動揺を見せてしまった以上、誤魔化すのは無理があるでしょう。事実、トレス様は眉を寄せ、問うべきか否かを迷っているようです。
「……そうだな。入学初日から面白くない話をして悪かった」
「いいえ。必要なお話であったと思います」
そして、申し訳ありません。わたくしの心配事はそこにはないのです。
もしトレス様のお心がお姉様にあるなら、わたくしはどうするべきなのでしょう。
……いえ。どうすることもできませんね。お姉様はすでにトレス様との婚約を幾度となく拒み、王家はわたくしで妥協し、トレス様も受け入れた。
気持ちが伴わない婚姻は、貴族にとって珍しいことではありません。
理解しているはずなのに。わたくしは今、心に少し寒さを感じています。
そしてふと、お姉様のお言葉を思い出しました。
『知ってはいたけど、理解していなかった』と。
お姉様が何を思ってそう仰ったかは分かりません。ただ、今のわたくしにはそのお言葉が身に沁みます。
貴族の結婚は家のもの。私人である前に公人であれ。
受け入れるのは、義務です。わたくしは貴族として、その権利を享受しながら生きている。ならば義務も果たさなくては。
分かっています。けれど――心は。心が伴わないのは、きっと、寂しい。わたくしはそれを否定できない。
「とにかく、お前の真意が聞けてよかった。心配するな。噂の大半はエスト本人。お前の話は、悪意を持った誰かの嫌がらせだ」
「……はい」
悪意の持ち主に付け込ませる隙を作ったのは間違いないので、失態です。またお父様とお母様からお叱りを受けるかもしれません。
当然とはいえ、立て続けだと堪えますわね……。
「いいか。この先たとえ何が起こって何が降りかかろうが、俺はお前の側にいる。だからもし困ったことに遭ったら、まず俺の所に来い。これでも王族だからな。後先考えなければできることは少なくないぞ?」
「分かりました。ですが、そうならないように気を付けますわ」
トレス様はお優しい。政略上妻に迎えなくてはならなかった娘にも、心を砕いてくださる。
……しかし、不思議です。
わたくし、そんなに厄介事に見舞われそうなのですか?
そのあとは馬車内でした話には一切触れられず、トレス様のお部屋でゆったりと過ごし、お約束通り屋敷まで送り届けていただきました。
「お帰りなさいませ、ラクロアお嬢様。奥様がお待ちでございます」
わたくしを出迎えたのは、お母様付きの侍女であるアナベルでした。告げられた言葉に、一瞬固まってしまいます。
仕方ありません。今日は全面的にわたくしが愚かでした。謹んでお叱りを傾聴しましょう。
「着替えなくてもよろしいかしら?」
わたくしの侍女ではなく、アナベルが出迎えている時点でそうだとは思いますが、確認は必要だと思います。
「はい。そのままで結構でございます」
お母様が少女であった時分から侍女であったというアナベルは、お母様の腹心です。厳格な方ですが、その分彼女の仕事には信頼が置けます。
「分かりました。参りましょう」
アナベルの後に付き、お母様の元へと向かいます。
「――奥様。ラクロアお嬢様がお戻りになりました」
「ありがとう。入りなさい」
「失礼いたします」
主の許可を得て、部屋の中へと入りました。わたくしの後について部屋に入ったアナベルが扉を閉めます。
「ごきげんよう、お母様。ただ今戻りました」
「ごきげんよう、ラクロア。お帰りなさい。――さあ、お掛けなさないな」
「はい」
お母様に促されてソファに腰を降ろすと、アナベルが席を外します。人払いというより、お茶の支度のようです。
ということは、お叱りではない……?
「ヴァルトレス殿下と、仲睦まじく過ごしているようですね。母は嬉しく思います」
「ありがとうございます。殿下はお優しく、大変よくしていただいておりますわ」
わたくしの答えに、お母様は満足そうにうなずきました。
「貴女がアリシアの妙なところを真似しなくて、本当に良かった。貴女には期待していますよ、ラクロア」
微笑みながら言われた言葉に、つきりと胸が痛くなります。たとえ自分が認められたものであっても、それがお姉様を否定する言葉では喜べません。
お母様とお姉様は、あまり仲が良くないのです。お嫌いなわけではない……と思うのですが、考え方がどうしても合わないので、今は距離を置いているようです。
「ご期待に沿えるよう、尽力いたします。ですがお母様、お姉様は――」
「さあ、お茶ですよ。お飲みなさい」
わたくしの言葉を切る絶妙の間で戻ってきたアナベルによって、主張は遮られてしまいました。
聞いてくださる気がないのですね、お母様。次は言葉にして拒絶されてしまうでしょう。
ため息を飲み込むために、勧められたお茶を口にします。美味しいのに、味気ない。
「ところで。今日の貴女の行い、すでにわたくしの耳にも届いています」
「……はい。申し訳ありません」
「そうですね。他者に攻撃の口実を与えたのはよろしくありません。ですが貴女が誇りあるクラウセッド侯爵家の一員として、きちんと矜持を持っていることが分かったのは僥倖でした」
――?
わたくし、誇りを示すような行いをしましたかしら。
「近頃は己の立場を弁えない者が多い。貴族も、平民もです」
計算され尽した、気品ある微笑を湛えていたお母様が、ため息とともに僅かに表情を崩します。お言葉の通り、忌々しげなものに。
「貴族と平民は、まったく違う生き物です。だというのに愚かにもその境目を踏み越えようとする者が増えてきています。嘆かわしいこと」
「……」
お母様の言う『嘆かわしい行い』をする者の中には、お姉様も入っているのでしょう。
わたくしは……全面的には賛同できません。親の言うことに疑問を持つわたくしは、褒められた子どもでもではないかもしれませんが、それでも納得できないのです。
幼い頃にお姉様と一緒に、内緒で町に遊びに行きました。そこで知り合った人々はもちろん、日々わたくしの世話をしてくれている侍女やメイドの皆。
彼らが『違う生き物』だとは、どうしても思えないのです。お母様。
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