第97話
しかし心配は不要で、真っ直ぐ彼女の執務室に向かうとすぐに通され、ルティアに会うことができた。
「お帰りなさい、エルデュミオ。ウィシーズでの務め、ご苦労様でした」
入室したエルデュミオを見たルティアは、その帰還を心から喜ぶ柔らかな笑みで彼を迎える。
「今戻った。僕が不在の間、変わりはなかったか?」
「わたくしは大丈夫です。ですが貴方の方は、色々とあったようですね?」
「まあ、そうだな」
世の中、予定通りに進まないことの方が多い。
「裁炎の使徒から報告は来ているか?」
「はい。貴方の身に何かあれば、必ず伝えるように命じていましたので」
「ではきちんと仕事をしているかどうか、確認がてら僕からも報告をしよう」
「お願いします」
現状の裁炎の使徒の能力を計るためでもあり、ルティアと齟齬なく認識を共有しておくためだ。
(こういうときは、スカーレットがやっていたマナのやり取りで記憶の受け渡しができると便利だな。……ん、そう言えば、
しかし今すぐ神呪を探して実行するほどのことはないだろう。
ウィシーズとツェリ・アデラで起こった事の顛末を語ると、ルティアはただうなずくだけで、驚きや何かと言った表情は見せなかった。
聞き終えたルティアは、まず何から話すべきかを迷う間を置いて、無難なものから口にする。
「マダラの手配はどうしましょう?」
「無論、継続する。当然だが、スカーレットの知人であるアゲートとは別人だ。マダラを直接見ている僕が言うんだから間違いない」
少々珍しい風貌だし、特徴は似通っているが、別人。それで押し通すつもりだ。
「だが手配をしているのは、マダラがセルヴィード神の信徒だからではない。奴がリューゲルで起こした犯罪ゆえだ」
エルデュミオはセルヴィードを邪神と称さなかった。その変化にルティアも気付かないはずがない。
表情をやや硬くしたルティアに、エルデュミオは自身が感じた事実を告げる。
「僕はルーヴェンたちに対抗するのに、神呪は必要だと思っている。そして今の状況では、力が足りないとも」
「ストラフォードに、セルヴィード信仰を広めるつもりですか?」
「いずれは。だがいきなりは無理だ。世論が受け入れない」
フラマティアを信仰する人々、国々からの反感も買い、ストラフォードが孤立するだけだ。そして国民に強要したところで、実質の信仰など得られないだろう。意味がない。
「まずは聖神教会の信用を落とす。その上で、セルヴィードを貶めたのは帝国皇帝ではなく、歴代聖王の誰かであり、今の形は歪んでいる、ということにする。幸い、現聖王には傷がある。創世の種に関してもだ」
聖神教会の設立やフラマティア信仰に問題があったのではなく、代行者として選ばれたはずの人選に問題があった。そういうことにする。
そしてそれは昔からの体質であったと印象付けるのだ。
各地のマナ減衰に対する対処と、その理由。民の規範であることを求められる聖人の頂点、聖王の地位に就く者にはいずれも致命的な醜態だ。
聖王の傷――ルーヴェンの出生に話が触れると、ルティアは強く拳を握り締め、ゆっくり息を吸って吐き、口を開く。
「エルデュミオ。もしわたくしがお兄様……いえ、もうルーヴェンと呼びましょう。彼と同じであるのなら。ストラフォードの王位を継ぐべきなのは、むしろ貴方で――」
「ミュリエーラ様がそう言ったのか」
ルティアの言葉を途中で遮り、否定が返ってくる確信のある問いを投げかける。
「……いいえ。訊ねてもいません」
そして当然、ルティアは否定した。
たとえ母であるミュリエーラに訊ねたとしても、認める訳もない。
「だったら、くだらないことを言っていないで堂々としていろ」
「ですが。もしわたくしに王家の血が流れていなければ、その正当性は――」
「ルティア・スペルキュナ!」
「!」
声を鋭くして名前を呼んだエルデュミオに、ルティアは徐々に俯きがちにしてしまっていた顔を反射で上げる。その表情はどこまでも頼りない。
眉は下がり、瞳は不安に揺れている。とても王のする表情ではない。
「かつてお前は僕に言ったな。その地位に就くに足る能力があれば、血筋などいかほどのものだと」
フェリシスの出世について口論になったときの話だ。
そのとき出自や身分に拘ったのはエルデュミオで、ルティアは相応しい者になら王位を譲ってもいいと言い切った。
そのルティアが、血筋で己の王の資格を問いている。皮肉な話だ。
「ええ、言いました。けれど血筋がないのなら、ただの傀儡姫であったわたくしに資格など」
「忘れるな。お前は選挙で選ばれて、その席に座っている」
はっとして息を飲み、ルティアは目を見開く。
「お前はすでに王なんだ。民も、貴族の多くもそのつもりでいる。彼らはお前の治世に向けて動いているし、身を削って民を護った女王に期待もしている。お前の中で、彼らに持たせた夢や期待は、血筋よりも軽いのか」
「――いいえ!」
エルデュミオの問いかけ方は、ルティアにとって常識を答えさせるのに等しかった。彼女は力強く言い切った。
「そう――そうですね。貴方の言う通りです、エルデュミオ。わたくしは王になるために王になったのではない。民を護り、国を守り、世界を守る手段として、王座を求めたのです。そして」
胸の前に手を持って来て、その時の気持ちを思い出すようにしばし目を閉じ、口にする。
自分自身にこそ、もう一度聞かせるために。
「求めたわたくしに、応えてくれた人々がいる」
票の多くはセレナが利権で取りまとめた文官派の物だ。しかしその中にも間違いなく、己に期待している者がいる。
それは席に座り、実務をこなす中でルティアも肌で感じたはずだ。
「ならばお前を引き摺り下ろそうとする敵の戯言など、鼻で笑って一蹴しろ」
ルティアが相手にしなければ、弱味になどならない。
証拠はないのだ。悪意によるただの妄想として決着が付き、いずれ口にもできなくなる。
「鼻で、ですか。ええと、こうですか?」
エルデュミオが言ったのはあくまで心構えの話だったが、ルティアは律義に実行してみせた。そのときの雰囲気に、もの凄く既視感がある。
「……誰が僕の物真似をしろと言った」
「だって、わたくしの周りで他人を鼻で笑うのなんか貴方ぐらいです。それで、どうでしたか?」
「腹が立つだけだからやめておけ」
虚言として一蹴するような強さは感じなかった。
「わたくしも、自分の中の印象と何かが違う気がしました。どうしてでしょう? 貴方に鼻で笑われると、自分が間違っている気持ちになるのですけれど」
「僕が真実、相手の愚かさを失笑しているからだな」
形だけの物真似には表れない嘲笑だ。そもそも褒められた行いではない。
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