第95話

「それで、お前は何をしに来た」

「当面の資金を融通していただきたい。それと、しばらくフラングロネーアに滞在していてください」

「資金は分かった。私の私室へ行き、執事長に必要な分を用立てさせろ。しかしフラングロネーアで何をさせたい」


 すぐにペンを走らせ言った通りの言葉を書いてサインをした紙を、そのままエルデュミオへと渡してくる。


「聖神教会は、おそらく僕を邪神教徒として手配し、引き渡しを求めてくるでしょう。捕まってやるつもりはありませんが、ルティアにはそれを受諾させるよう、働きかけてもらいたいのです」


 目的はおそらく神樹神子録。そしてエルデュミオ、強いてはストラフォードの信用を失墜させること。こちらが何を言おうと、その発言を各国が取り合わないように。

 国として瑕疵のないストラフォードをいきなり聖神への反逆者に仕立てるのは無理がある。しかしエルデュミオだけならばすぐにでも可能だ。

 そしてそのエルデュミオを庇えば、なし崩しにストラフォードが反逆者となってしまう。


(ルティアは多分、僕を庇う)


 王に、私情でそれをさせるわけにはいかないのだ。国のために、臣民のために。


「笑止」


 しかしヴァノンは、鼻で笑ってそう言った。


「笑い事ではなく。自惚れと言われるかもしれませんが、ルティアは僕のために、個人的な判断をしかねないのです」


 数ヶ月前の関係性であれば、エルデュミオとて心配しなかった。

 近くにいないヴァノンが把握していなくとも無理はないので、エルデュミオは重ねて変化と危惧を訴える。


「違う。お前だ、ディー」

「僕の何が」

「子を見捨てる親などいない。ましてそれが言い掛かりであれば尚のこと」

(……言い掛かりとは言い切れないんだが)


 エルデュミオが魔神の手を取っているのは事実なので。


「人として恥じるべき行いの果ての結果であれば、お前という人間を育てた者の咎として、私もまた同じ罪を負おう。しかしそうではないのなら、なぜ頭を垂れて我が子を断頭台に進ませるのを看過せねばならん」

「ですが、父上。為政者であれば、時に救われる数によって切り捨てるべきものを選ぶべきではありませんか」


 そう教えたのは他でもないヴァノン自身だ。幼い頃はただ教わったことをなぞっていただけだが、今はエルデュミオ自身も同意できる。

 たとえ切り捨てられる側に自分がいようと、何も変わらない。


「民のために自分を捨てるなと。貴族であるお前と平民は別の生き物なのだから同列に考えるなと、あれほど教え込んだのに。それでもお前は捨てられなかったのだな」

「っ……」


 今話しているのは、ストラフォードという国を生かすための判断だ。民だけの話ではない。

 だがエルデュミオの認識が変わっていることを、ヴァノンは正確に見抜いて指摘してきた。現状エルデュミオが陥っている状況よりも、ヴァノンにとってはそちらの方が重大なのだ。

 与えられた躾を思い出し、全身に寒気が走る。顔から血の気を引かせて一歩足を下げてしまったエルデュミオへと、ヴァノンは悔恨の表情を見せる。


「ディー。お前は、イルケーアの嫡子だ。そして神樹の神子だ。そのお前は、これから先も救う者を選び続けねばならない人生になる」

「はい」

「己が切り捨てる者を、同じ人として考えるな。数として処理しろ。そうでなければ早晩、お前の気が狂う」

「……そうかもしれません」


 エルデュミオはすでに、人の感情に触れ、知ってしまった。貴族だろうと平民だろうと、人としては何も変わらないのだと。

 いや、本当はずっと前から知っていた。両親が将来を危ぶむ程に。


「心を病んで苦しむより、傲慢に歪んだ価値観になろうとも、知らぬ方が良いこともある。貴族として人として、成すべきさえ間違えなければ」


 それが正しい在り方だとは、ヴァノンも思っていない。それでも彼は自分の子どもに与える教育を歪めて育てた。

 己の身分と立場、相手との関係を理解していてなお、幼少でありながらエルデュミオが人に対して誠実であり、優しい気質の持ち主だと分かってしまったそのときに。


「……はい。分かります」


 ヴァノンがしている想像を己でもできるようになるぐらいには、エルデュミオも年を重ねた。ここまで曲がりなりにも正常な精神で生きてこられたのは、両親から与えられた教育故だと理解もしている。


「ですが、父上。知ってしまえばもう、知らなかった頃と完全に同じにはなれません」

「そうだな」

「同時に、僕ももう子どもではありません。決断の結果を想像して覚悟を持つだけの理性と、どちらを得るべきかの判断力ぐらいはあります。その時間を、父上と母上が作ってくださった。感謝しています」


 もし感情のままに突き進む年齢のときに今と同じ心性でいれば、エルデュミオは国の体制にさえ不満を持つ不穏分子として、周囲から忌避されていたかも知れない。


 夢に酔う年齢は過ぎた。だが夢を諦めるほど無気力でもない。


「……そうか」


 現実と希望に折り合いをつけ、その上で望む未来を掴む。そのための手段を考えるための冷静さが、今のエルデュミオにはある。己の心が耐えられる限界も、想像まではできる。


 だからもう大丈夫だと、はっきりと告げた。


「分かっているのなら、良い。しかし無理はするな」

「はい。ですので父上、ルティアを説得しに行っていただけますね」

「それは別だ。そもそも、必要性を感じない」

「ですから……!」


 言葉の途中で、ヴァノンは手を上げてエルデュミオの口を閉じさせる。


「ルティア陛下がお前の名誉を護るならば、良し。そうでなければ私は――我がイルケーア公爵家は、領地の全てを擁して独立する」

「父上!?」

「誤解はするな。それはお前が、我が子だからというだけではない。権威を以って我欲のために横暴を働く者に従ったところで、未来などないからだ。そして力ある者として、歪んだ行いには否を突きつけねばならん」


 国という大きな枠組みのために、小を殺すことはある。だがそれは発展のための過程であり、熟慮の末、最少の被害で成さねばならないのが前提だ。

 まかり間違っても、己が生き延びるために権力者に迎合し、媚びへつらえという意味ではない。少なくとも、ヴァノンにとっては。


「神の威光を身勝手に振りかざす愚か者に、思い知らせてくれよう。現実は、国は、貴族は、それほど甘くないとな」

「……父上。ですが、それでは」


 自分のせいで無関係な民が巻き込まれ、苦を味わうことになるかもしれない。

 正道を貫くことにその価値があるのかどうか、エルデュミオには断言できなかった。


「お前はもう少し、護られることに慣れろ。それもまた、立場のある者がしなくてはならない覚悟だ」

(そういえば。ルティアにも似たような状況で似たようなことを説いたな)


 フラングロネーアが囮として魔物の襲撃を受け、ルティアが標的にされていたときの話だ。

 そのときルティアに護られることを求め、自責の念を持ち過ぎないように諌めたのはエルデュミオ自身だった。


(他人に求めておいて、僕ができませんと言うわけにはいかないよな)

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