第94話
体は疲れていてまだ休息を欲している気配があったが、同時に緊張も続いている。そのせいで、目覚めは早かった。
「世話になったな、エリザ」
「どういたしまして。代わりに約束、忘れないでね」
「ああ」
もちろん、負けるつもりはない。
まだ唯一ぼんやりしている感のあるクロードを連れ、聖星の燈火を後にする。
その途中、アゲートの耳に飾られた鈴型のピアスがリン、と音を立てた。
自らの指で弾いてもう一度音を立ててから、アゲートは手を添えてしばし伺う気配を見せる。
ややあって、再びピアスを弾いて音を鳴らしてから、エルデュミオに声を掛けた。
「行き先は西門がいいらしい。スカーレットが待っている」
「そのピアス、スカーレットが同じ物をしている記憶があるな。通信機器の類なのか?」
見たことのない道具だが、アゲートの行いと後の言葉を考えればそうとしか思えない。
「そうだ。後でお前にも作っておこうか」
「好みじゃないが、貰っておく」
情報は力だ。趣味の問題ではない。
「デザイン画を寄こせば、その通りに作ってやるぞ」
少し面倒そうな、呆れたような口調でそんな融通の利くことを言ってくる。まるで以前にも似たことを言われたかのようだ。
疑問が顔に出ていたのだろう。アゲートは肩を竦めた。
「鈴型なのは、スカーレットからの要望だ。いきなり声がするのは嫌だと言ったから、事前に知らせる合図のために鈴にした」
「う……。それは、確かに」
唐突に声が耳元で聞こえてきたら驚く。心積もりぐらいはしたい。
(その点も、考慮する必要がありそうだ)
「ともかく、西門ですね」
まだ陽も昇り切らない時間帯。外を出歩いている人間は少ないが、だからこそ目立ちもする。
ツェリ・アデラの町に詳しいシャルミーナが最短の道を先導して、一行は西門へと辿り着く。
「お待ちしておりました。行きましょう」
「ご苦労」
隣に馬車を待機させたスカーレットを労い、エルデュミオは車内に入る。全員が乗り込むとさすがに窮屈さを感じるが、文句は言えない。
御者台に座るのは誰に見られても印象に残らないフュンフだ。エルデュミオが行き先を告げると、彼は滑らかに馬を走らせ始めた。
本来の務めを果たすことなくぼんやりと馬車を見送る門番たちの間を抜け、街道へと走り出す。
「ええっと、とりあえず、ストラフォードに帰るですね?」
「帰るは帰るが、まずはトルトーワに向かう」
「イルケーア公爵領の領都ですか。ご両親に会いに行くんです?」
「まあ、そうだな」
「理由、聞いてもいいです?」
公爵と会わねばならない理由が思いつかなかったのだろう。
エルデュミオが考えていることがリーゼの想定の範疇外なのは想像がついていたし、言えば逆方向の働きかけをするのは目に見えている。
だから少しだけ迷って、当たり障りのない答えを口にする。
「現金と、すぐに現金化して使える物を確保しに行くだけだ。僕が預かっている所領よりトルトーワの方が近い」
「ああ、お金……。でもディー様、あまり現金使わないですよね?」
請求書に印章だけ捺して済ませることがほとんどだ。実際の請求はエルデュミオの私邸に行き、そこで執事長が支払いを代行している。
後払いが可能なのは、エルデュミオの身分と財に信用があるからだ。保証するものがなくなれば通じなくなる。
「これから必要になるだろうからな」
「そんなものです?」
むしろ現金での即払いが基本の生活をしているリーゼだ。そちらでのやり取りの必要を説かれれば、納得もしやすいだろう。
ツェリ・アデラを出てストラフォードへ入り、トルトーワまでは最低限の休みで駆けた。と言っても、軍隊で行う強行軍ほどではないが。
それでもようやく馬車から解放されたときには、安堵の息が出るぐらいには体が凝り固まっていた。
「クロード殿にはうちから兵を付けよう。体調を整えてから出立するといい」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきましょう」
クロードが無理に浮かべた笑みは弱々しい。しかしここまで大した弱音も吐かずに来ているのだから、根性があることは間違いない。
伊達に聖席に着いていたわけではない、ということだ。
トルトーワの規模は、王都フラングロネーアと大差ない。町の作りもだ。
外周区、市民街を抜けて、貴族区画へ。その中央に、トルトーワ宮殿がそびえ立っている。
「最早お城と変わりませんよね……」
その威様に、リーゼは改めて息をつく。
「王宮よりは小さいぞ」
「目測では分からない規模で近そうですよ」
「割と歴然とした差があるんだがな」
力のあるイルケーア家だからこそ、気を遣う部分もある。
公爵である父ヴァノンは、公的区画の執務室で仕事をしているはずだ。門を抜けて宮殿内を進み、迷わず領主執務室へと向かう。
扉の前に立つ騎士は、エルデュミオを見て最敬礼をする。彼らにとってエルデュミオは、次の主となることがほぼ確定している人物だ。
当然誰何で止められることもなく、扉を叩いて中へと声を掛ける。
「父上、エルデュミオです」
「入りなさい」
「失礼します」
今回は事前の知らせも出していない。突然の訪問であるはずだが、ヴァノンの声に驚いた様子はなかった。
手前の控えの間で皆を待たせ、エルデュミオだけが執務室へと入る。
「近くに」
「はい」
扉をしっかりと閉め、傍聴を確保してから歩み寄る。
ヴァノンはやや細面の、鋭い印象のある男性だ。艶を失いつつある青紫の髪色こそエルデュミオに継承されているが、面立ちはあまり似ていない。かといって、母親似というわけでもない。
もっと言ってしまえば、エルデュミオに似ることのできる人間など存在しないだろう。人の器で持ち得る美の極みと言えるほど、エルデュミオの容姿は美しい。
「厄介なことをしているようだな」
「必要があってのことです。引き下がることもできません」
ストラフォードの貴族としても、世界に生きる人間としても、間違っていない確信がある。ヴァノンの視線にさらされても、エルデュミオが気後れを感じることはなかった。
「……成長していくにつれ、お前はいつか厄介事の中心に巻き込まれるのだろうという予感はしていた。神樹の神子であるのを差し引いても、あまりに初代皇帝に近すぎる」
ふ、と諦めた息をつき、ヴァノンは目を閉じる。そして再び開いたときには瞳に揺らぎのない強さを湛え、エルデュミオを見た。
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