1.好きだから僕が死にます<9月7日>

 九月になったから秋だと言わんばかりにクーラーは止まっている。熱気と湿度に満ちた校舎にいるのと、まだ夏を思わせる太陽が暴れている外に出るのはどちらがマシだろう。私なら、屋根のある校舎を選ぶ。

 午後は課外授業と聞いた時点で嫌な予感がしていた。この暑い中外にでるなんてどうかしている。全員ジャージに着替えて教室に集まれば、先生は全員分の軍手とごみ袋を配布してにっこりと叫んでいた。

「今日は地域貢献のため、ゴミ拾いをする!」

 高校生にもなってゴミ拾いボランティア。うんざりとしているのは私だけでないらしく、先生は慌てたように「単位に影響がある」だの「地域にできることを考えよう」だのと付け足していた。それを素直に受け止めている生徒がどれくらいいるのかわからない。少なくとも私は面倒なものに参加などしたくない。

 数人のグループを作って兎ヶ丘の様々な場所を掃除するらしく、一番人気は商店街だった。アーケード商店街だから日差しが遮られると思ったのだろう。つまりみんな屋根があるところを好む。

鬼塚おにづかは?」

 いくつかのグループが場所を決めたところで、先生の指名がかかった。黒板にはまだ私の名を書いていない。返答えずにいると、先生は教卓を離れてこちらまでやってきた。

「一緒に回るやつ決まったのか?」

「……別に」

 自由にグループを作れと命じたものだから生徒たちは好き勝手に移動して、仲の良い子たちの席に集まっている。私のところだけぽつんと空いていた。

「お前なあ。自分から積極的に行かないとだめだぞ」

 ゴミ拾いの場所を選んでいないことより、グループを作っていない私に呆れての発言だろう。

 私は無視をした。友達なんて必要ない。さっさと卒業して、さっさと東京に出る。私は一人でいたい。四月の個人調査票は、友達の欄に『必要ありません』、将来の夢は『東京で一人暮らし』と書いたから、私が望んで一人でいることは先生も承知しているだろう。

「じゃあ鬼塚には、人手の足りない場所をお願いしてもいいか?」

 無視に屈したらしい先生は態度を軟化させ、黒板の下らへんを指で示す。それは今回のゴミ拾いポイントで最も不人気な場所。近くの月鳴つきなき神社だ。

「ここ、毎年人が足りないんだよ。他の学年やクラスからも月鳴神社担当がでると思うから」

「はあ」

「このクラスでだめなら、他のクラスって手もあるからな」

 このクラスで友達が作れないなら他のクラスでという先生なりの優しさだろう。運動部の顧問もやるような典型的熱血先生だから、高校生活に友達は必須と信じているかもしれない。実際、友達はいなくても困らない。高校二年の九月まで生きてきたけれど、困ったことはなかったから。

 先生は黒板の方へと戻り、月鳴神社の担当欄に『鬼塚おにづか 香澄かすみ』と名前を書いた。生徒のフルネームを迷うことなく書けるような先生だ。私なら、出席簿を枕にして寝たって覚えられない。

「全員場所は決まったな。ゴミ袋はおかわり自由だ! 気合い入れて拾ってくれよ」

 先生が声を張り上げる。

「特に、商店街と神社、旧道の担当は気合い入れてくれよ。今月は例大祭があるから、町に恩返しをするつもりでゴミを探すんだ!」

 面倒でしかない。重たくため息をついて立ち上がる。滑り止めゴムのついた軍手はごわごわとして不快でしかなく、さっさと高校を卒業したいと強く思わせた。


 そうして神社にやってくれば、暑い。蝉まで鳴いているから鬱陶しくてたまらない。

 額に浮かんだ汗を拭ったところで軍手をつけたままだと思い出した。汚れそのまま額に塗りつけた気がして不快だ。九月だというのに蝉がまだ鳴いている。温度だけでなく聴覚まで、まだ夏だった。

 ゴミ袋を空にして戻れば怒られそうだから、目に付いたゴミはとりあえず拾う。拾えばゴミではなく落ち葉だったものもあるけれど、かさ増しになりそうだからゴミ袋に入れた。

 月鳴神社は高校から少し離れて、兎ヶ丘うさぎがおか小学校の近く。こじんまりとした住宅街にぽつんとある。例大祭の時は神社や旧道といった道に屋台が並ぶ。旧道のあたりは昭和とか平成を思わせる、古くさい道だ。歩道も狭いし家々も古い。旧という字がぴったりの道だ。

 神社の境内、拝殿のあたりまで行くと、他の子たちが集まっていた。神社境内はそこまでゴミがないから暇を持て余しているのかもしれない。

「月鳴神社担当って怖いんだけど」

 集まっていた子の一人が言った。女子ジャージに入ったラインから見るに一年生だ。

「え。ここって怖い話あるの?」

「地元じゃ有名な話だよ」

「知らない知らない! あたし、地元が兎ヶ丘じゃないから」

 女子たちはきゃいきゃいと騒いでいる。察するに一人はここらへんの住人ではないらしく、話を持ち出した子は兎ヶ丘うさぎがおかに住んでいるのだろう。

 私も兎ヶ丘に住んでいて、兎ヶ丘小学校、兎ヶ丘中学校を卒業したけれど、神社に変な噂があるなんて聞いたことはない。

 興味をそそられ、ゴミを拾うふりをしながら耳を傾ける。

「この神社ね、新月の夜に鳴き声が聞こえるんだって」

 出だしはどこにでもありそうな、よくある噂話だ。吹き出しそうになったけれど堪える。

「昔、空に白い月と赤い月があったんだって。でも空にいられるのはどちらか一つだけだから、月鳴神社にいるうさぎ様が選んだの」

 赤い月なんてあるわけない。そんなの作り話だ。

「選んだのは白い月。赤い月に会えなくなってしまったから、新月の夜は寂しくなってうさぎ様が鳴くの。だから新月の夜になるとどこかからうさぎの鳴き声が聞こえるんだってさ」

「えー。怖いけど切なーい」

 一年生たちは盛り上がっているけれど、私は呆れていた。

 この話には致命的な欠点がある。それは『うさぎは声帯を持たない』ということ。小学生の頃に飼育委員の先生が教えてくれた。うさぎは声帯を持たないから鳴かない。たまにブゥブゥと聞こえるのは鼻を鳴らしたり食道を鳴らしているもので、仮にそれを鳴き声と呼んだとしても小さな音だから、よほど近くにいなければ聞こえない。

 だからこれは嘘だ。誰かが作った話。

 今も「こわーい」と騒いでいる一年生を睨みつける。誰かが作った嘘の話で盛り上がるなんてくだらない。真実を確かめようとせず、嘘を信じて、それを伝えてまわる。こういうのは嫌いだ。

「そういえば、怖い話っていえば。肝試しやるのかなあ?」

 一人が言った。まだ怖い話は続くらしい。

「兎ヶ丘小学校の肝試しでしょ? 今年やるとかなんとか」

「あの学校、女の子の幽霊がいるって聞いたけど。ほんと?」

 先ほど月鳴神社の話を得意げに語っていた子は「うん」と力強く頷いていた。

「いるらしいよ。飼育小屋に女の子の幽霊」

「えー。ほんとなの?」

「まっしろな肌をした、黒髪おさげの女の子だって。子供を飼育小屋に引きずり込むらしいよ」

 兎ヶ丘小学校の幽霊なんてくだらない。なんでそんな話を信じる。誰かから聞いた話を、どうして得意げに語れるのだろう。

 一年生たちに聞こえるように舌打ちをしたけれど、くだらない噂話に夢中な彼女たちは気にしないのだろう。それを視界にとどめておくのも嫌で、苛立って歩き出す。

 日の当たらない、草木が鬱蒼と茂る境内の奥は土手になっていた。砂利道は途切れて土に変わり、奥に行くにつれ雑草が増えていく。

 立ち入り禁止のロープやカラーコーンが置いてある向こうは斜面となっていた。手入れされず伸び放題の草木、太い木の根元には茸や苔が生えている。もしも足を滑らせれば、真下にあるフェンスまで転がり落ちてしまいそうだ。

「……涼しい」

 周りには誰もいないから独り言ぐらい許されると思って呟く。じめじめとした場所だけど、日が当たらないので涼やかだ。

「……香澄さん?」

 草の揺れる音が近づいてきたと思えば名前を呼ばれた。現れたのは同じ高校のジャージを着た男子生徒。

「誰?」

 名前で呼び合うのは親しい仲だけだと思う。けれど私は、彼のことを知らない。同じ高校なのはわかるし、ラインの色から二年生なこともわかる。だけど彼の顔を見ても名前どころか名字さえピンとこない。誰だ、この人。

 彼は茂みから抜け出て立ち入り禁止のロープを超えて戻ってきた。服についた草を手で払ってようやくこちらを見る。

「そこ、立ち入り禁止でしょ」

「ゴミがあったので」

 彼が持つ袋にはゴミがたくさん入っていた。拾うのも躊躇ってしまいそうな薄汚れた日本人形まである。この先にそんなものが落ちていたのか。

「なんで私の名前を知ってんの?」

「名前を知っていたらいけませんか?」

「私、あんたのこと知らないけど」

 不審な人物に疑いのまなざしを向けるも、彼は素知らぬ顔をして黒縁の眼鏡を指でずらす。

「隣のクラスの、鷺山さぎやま悠人ゆうとです」

 と聞いても。鷺山という名前にピンとくるものはない。

 彼の顔をまじまじと見る。背は高いのにすごく猫背。髪はぼさぼさで、前髪は長め。黒縁の分厚いめがねをかけているけれど、長い前髪が眼鏡にかかっているから煩わしそうだ。

 ぱっと見て、おしゃれに無頓着な、流行と別路線を歩む男だと思った。言葉を交わしていれば覚えたかもしれないけれど、残念ながらこの外見や名前に覚えがない。

「悪いけど、あんたとは初対面だと思う。だから『香澄』なんて馴れ馴れしく呼ばれる筋合いはない」

「そうですね。香澄さんからすれば初対面です。僕は香澄さんのこと知っていましたけど」

 どういうことだ。なんで鷺山は私のことを知っている。

「もしかして。あんたも兎ヶ丘小学校の卒業生?」

「違います」

「じゃあ兎ヶ丘中学校の卒業生とか」

「それも違います」

 友達は作らない主義の私であっても、同じ学校だった子の名前ぐらいは嫌でも覚えている。特に兎ヶ丘の人は、小学校から高校まで兎ヶ丘にいることが多い。わざわざ遠い高校に行くのは特段頭がいいとか悪いとか、制服が可愛い高校がいい等の理由がある人だけ。よほどのことがないかぎりは近くにある兎ヶ丘高校を選ぶ。私だってその一人だ。だから小学校や中学校で同じクラスだった子の名前は覚えている。

「……僕は、香澄さんと喋ってみたかったんです」

 不快感をあらわにする私を厭わず、鷺山は陶酔しきったまなざしをこちらに向けていた。憧れのアイドルに会えた時のファンの反応みたいな。

 何にせよ気持ち悪い。なんだこの人。こういう時は逃げるに限る。

「話せてよかったね。じゃ、私行くから」

 これ以上関わってたまるか。隣のクラスの鷺山。名前と顔は覚えたから要注意だ。今後は近づかないようにする。

 ぼけっと突っ立っている猫背の鷺山を放置して歩く、というより走って逃げる。

 踏み込んで勢いをつけて三歩目――というところで、突然地面が影に覆われた。

「危ない!」

 鷺山が叫ぶと同時に、どんと何かにぶつかった。誰かがこちらに向かって来ていたらしい。前方も見ずに走り出した私はぶつかった弾みでよろけて、それから。

「う、わ……とと、」

 ぐらりと体が傾く。もつれた足では体勢を立て直すことはできなかった。ぶつかった勢いそのまま『危険立ち入り禁止』のロープの方へと倒れこむ。

 倒れたその場所が悪すぎた。三角コーンやロープをなぎ倒すようにして、草木茂る斜面を滑り落ちていく。

「香澄さん!」

 鷺山の声が聞こえる。地面を転がる恐怖できゅっと目を閉じれば、誰かが私の手を掴んだ。それが温かくて心地よいから――私は眠りについていた。



 聞こえる。遠くの方が騒がしい。たくさんの話し声。足音。太鼓、笛。どこかで音楽を流しているかもしれない。

「香澄さん。起きてください」

 近くで誰かの声がした。この声は、誰だろう。

 確かめようと目を開ければ、視界いっぱいに飛びこむのは鷺山の顔だった。

「さ、さぎや……って近すぎ……え?」

 どうして彼がいるのか。逃げるように身を起こして距離を開く。鷺山の姿が遠くなって視界が開けていく。

 鷺山の後ろにある空は、午後の明るさと一変して夜の暗さ。まんまるのお月様が浮かんでいた。

 息を呑んだ。神社裏の斜面を落ちたはずなのに、ここは月鳴神社と旧道を繋ぐ階段の前。石畳の固さと冷たさが背中に残っていた。

「よかった。目が覚めたんですね」

「目は覚めた、けど。これって何?」

 すると鷺山は、階段の先に続く道が見えるように身をずらした。そのおかげで階段下が一望できる。その景色にまた、私は言葉を失った。

 騒ぎ声は旧道を行き交う人々のもの。人混みには浴衣や甚平を着た人たちも紛れている。旧道を通る車はなく歩行者天国となっていて、歩道には屋台が並ぶ。焼きそば、たこ焼き、ポテトに金魚すくい。屋台の上には『月鳴神社例大祭』と書いた赤と白の提灯もぶらさがっている。

「なんで、これ……ってか夜? みんなは? 学校は?」

 混乱して叫ぶも誰もこちらを見ることはない。参拝を終えてこれからお祭りに行くだろう家族連れも、階段前に座りこむ私と鷺山を無視して通り過ぎていった。

「たぶん、お祭りだと思います」

「お祭りなのは見ればわかるけど! でも、これ……」

 その時、人混みをかき分けて走ってくる人がいた。

「すみません! 通ります! 急いでいます!」

 女の声。髪を揺らして一心不乱に走るその人物を視界に捉え、瞬間さあっと血の気が引いた。

 だってそこにいるのは『私』だ。見覚えのある服、一番好きな組み合わせのシャツとスカート。トートバッグの次に気に入っているショルダーバッグ。そこにいるのは間違いなく『私』だった。

「……うそ、でしょ」

 ここに私が二人いる。どういうわけだ。戸惑う私の手を強く掴んだのは鷺山だった。

「追いかけましょう」

 有無を言わさず走りだす。呆然としながら、私もついていくしかなかった。

 人がたくさん集まる例大祭だけど誰も私たちを見ない。誰かにぶつかりそうになっても感触はなく、するりと体を通り抜ける。まるで透明人間になったように。不気味でたまらないけれど、それよりも私が二人いることの方が怖かった。

 私たちの前を走るのは、『私』だ。よほど急いでいるらしく屋台に見向きもせず、人波をかき分けてひた走る。

 旧道は半ばまできたところで、ようやく『私』が足を緩めた。そして誰かに声をかけている。ここまで走ってきた理由はその人物と言葉を交わすためらしい。その人物はというと、ひょろりと高い背だけれど猫背で、前髪は長めの。顔を確かめるより早く鷺山が言った。

「あれは『僕』……ですね」

「なんで鷺山もここにいるの……」

 あたりを見渡すも祭り会場の真ん中。横に町内会のおじさんたちが集まるテントが設置されていた。その後ろにある掲示板には『お祭りで飲み過ぎ注意』のポスターが貼ってある。しかしおじさんたちは気にせずお酒を飲んでいるらしく、みんな顔が赤い。机に突っ伏している人もいた。

 『私』と『鷺山』はというと。歩行者天国となった車道の真ん中で何やら言い争っている。その内容までは聞こえてこない。

「……これは」

 その様子を眺めていた鷺山が呟いた。思い当たるものがあるのか聞こうとした時、『私』と『鷺山』が同時に顔をあげた。その視線は民家に向けられている。

 直後、割れる音が聞こえた。ガシャンと盛大な音と女性の悲鳴。

「な、なに……!?」

 この音はどこから。あたりを見渡していると鷺山が「あっちです」と指をさした。通行人たちも一斉に同じ方向へ視線を向けている。

 割れたのはガラスだろうか。その家は敷地をブロック塀で囲んでいるからあまりよく見えない。

 次いで聞こえたのは、どたどたと暴れるような音だった。再びガラスの割れる音、男のうめき声。

 それから玄関扉が開いた。

「くそ……いってえな……凶暴女め……」

 転がり出てきたのは九月だというのにニット帽を深くかぶって黒いジャンパーを着た、明らかに不審者という格好の男。黒い服装をしているくせに手だけ赤いペンキのようなものが付いていて、そこだけ浮いている。旧道へ飛び出した男を避けるように人波がさっと引いた。

 もしかして赤いペンキのように見えたあれは、血なのだろうか。気づいた瞬間、ぞっと体が竦み上がった。

「逃げなきゃ……鷺山、私たちも!」

「大丈夫です。僕たちは誰にも見えていません。落ち着きましょう」

 彼は不審な男をじっと睨みつけたまま動こうとしない。その横顔はひどく真剣だ。

 ふらふらと不審な男が歩き始めると、今度は先ほどの家から女の子が飛び出してきた。顔や服には赤いペンキのようなものが付いていて、特に右肩のあたりがひどい。血だ、と頭の中の、どこか奥深くではわかっている。でも飲み込めない。あんなにも血まみれになっているのを初めて見たから、理解することさえ怖かった。

 女の子は顔をしかめながら右肩を押さえ、大きく息を吸いこんだ。

「泥棒! 捕まえて! だれか!」

 旧道にいた人たちがざわついた。飛び出してきたニット帽の男に視線が集う。

「ひ、ひひ……ど、どうせ捕まるなら……一人ぐらいやってやる……」

 男の手は大きなナイフを握っていた。なんていうんだっけ、サバイバルナイフ、だったような。物騒な刃物は赤い血で汚れていて、それを振りかざすと同時に旧道はパニックに陥った。

 逃げる人々。悲鳴をあげる女の人。逃げようとして転び泣いている子供。混雑していた祭り会場は地獄絵図に変わっていく。

「……なにこれ」

 私だって逃げたい。怖い。けれど鷺山は立ち尽くしたままで動かない。逃げ惑う人たちが何人もぶつかりかけて体をすり抜けていく。ここにいる誰も、私と鷺山に気づいていなかった。

 逃げなかったのは私と鷺山だけじゃない。私たちの正面には『私』と『鷺山』がいる。こちらの『鷺山』も呆然としていてその場に立ち尽くし、『私』はというと不審な男から逃げようと身を翻していた。

 けれど。

 逃げるため走り出した『私』は、そこに転んだ女性がいることに気づいていなかったらしい。咄嗟に避けようとし、けれどうまく行かずに女性とぶつかった。

「あ……」

 咄嗟に声をあげていた。手を伸ばそうとしたけれど、できなかった。

 女性とぶつかった『私』は転んで、車道の真ん中で尻餅をつく。その場所がよくなかった。そこは不審な男の正面、転んでいる『私』は格好の獲物だろう。男は『私』を見つけるなり、駆け出した。

「香澄さん!」

 鷺山が叫んだ。もう一人の『鷺山』も叫んで、『私』の方へ駆け寄ろうとしている。

 けれど誰も、間に合わない。

 振り上げた凶器。それはたやすく『私』の左胸に吸いこまれていった。

「うそ……な、なんで私……」

 『私』の体から赤い血が滴る。ここにいる私に痛みはないけれど、同じ顔をした者が血を流している現場なんて吐き気がする。さあっと全身の血の気が引いて、気づけばその場に座りこんでいた。

 こんな場面。どうして。

 不安で、この状況が理解できなくて、呼吸が急く。頭がクラクラとして重たい。

「香澄さん。大丈夫です」

 そこへふわりと影が落ちる。鷺山が身を屈めてこちらを見つめていた。

「大丈夫じゃない! だってあれは私……」

「落ち着きましょう。あれは『香澄さん』ですが、今の香澄さんではありません」

「な、なんで――」

 そこまで言いかけた時、急にあたりが暗くなった。目をこらしても私たち以外の人影は見えない。旧道を飛び交う悲鳴も、人混みの湿度も、踏みしめていたアスファルトの感触さえない。照明が消えたのではなく、私と鷺山以外が暗く消えてしまったようだった。

 今度は何が起きたのか。さっきから頭が追いつかないことばかり起きている。取り乱す私と違って、鷺山は冷静だった。

「あれを見てください」

 落ち着いた声音に顔をあげれば、そこにはぼんやりと光るものが二つ。空に浮かぶ丸い光。

 月だと思った。これは記憶の中の満月と似ている。けれど、おかしなことに二つある。満月の隣に、ぼんやりと赤く光る満月があった。

「白い月と赤い月」

 鷺山の呟きで、一年生たちが話していた月鳴神社の噂を思い出した。あれも赤い月と白い月がでてくる。ここに来る前にいたのも月鳴神社。何か関係があるのだろうか。

 鷺山が満月を指さした。

「あの赤い月に、さっきの『香澄さん』が映っています」

 月は遠くにあるから見えるわけない、なんて疑っていたけれど。凝視すればなぜか見えてくる。近くで見ているかのように鮮明に、はっきりと。

 そこに映っていたのは先ほど見たお祭り会場の光景だった。男に左胸を刺されて倒れている私。鷺山が駆けつけている。

 じゃあもう一つは。今度は白い月を眺める。それもお祭り会場を映し出していたけれど、倒れているのは『私』じゃない。大きな体、ぼさぼさの髪。アスファルトに落ちる黒縁眼鏡。

「白い月では、刺されているのが『僕』ですね」

 淡々と鷺山が言った。自分が殺される瞬間だというのに恐ろしいほど冷静だ。

「ここにあるのは『香澄さん』が死ぬ未来を映した赤い月と、『僕』が死ぬ未来の白い月だと思います」

「あんた、冷静すぎじゃない? どうなってんの?」

「こう見えて混乱してますよ。手だって震えています」

 変わらぬ声音で返しながら、確かにその手は震えていた。でも相変わらず何考えているのかわからない、しゃきっとしていない寝起きみたいな顔をしている。

「これは、赤い月か白い月のどちらかを選ぶということでしょう」

「どうしてわかるの?」

「月鳴神社の話では、うさぎ様がどちらかの月を選んだそうです」

「あー……私も聞いたわ」

「僕たちが赤い月か白い月を選ぶ。つまり、僕か香澄さんのどちらが死ぬかを選択するということでしょう」

 どちらが死ぬか決めるなんて重大案件だというのに、彼は表情変えず冷めた物言いだった。

 まず頭に浮かんだのは、死にたくないということだった。あんな死に方をするのだと見せつけられたから怖くてたまらない。死が避けられないものだとしても平和なものがいい。あれは怖い。痛そうなのはいやだ。

 となれば鷺山とたくさん話し合わなきゃいけないわけで。だって私が生きる未来を選んだら鷺山は――

「簡単です」

 様子を窺おうとした矢先、鷺山は力強く頷いて言った。

「僕が死にます」

 話し合いの余地なし。検討時間ゼロ。明日の夕飯を決めるぐらいの気軽さだ。

「ちょっと待って。そんな簡単に死ぬとか――」

「僕でいいです。『僕』が死ぬ白い月を選びます」

 私の話なんて聞いてやくれない。腕を掴んで揺らしてみたけれど、彼は白い月を見つめたまま。

 そして。

 赤い月が、消えた。

 鷺山の宣言が聞き遂げられたのかもしれない。浮かんでいるのは、鷺山の死を映す白い月だけ。それをぽかんと眺めていると、意識が遠のいていった。



「鬼塚さん! 大丈夫!?」

 ぼんやりとする頭に響く声。誰かが私の手を握っている。

 うつろな意識に、じわじわと冷たいものが染みてくる。背中に触れる湿度と冷たさが土を思わせた。私はどこで寝ていたんだっけ。まさか地面に寝ているのか。

 確かめるべく重たい瞼を開けば、眼前にいたのは同級生だった。

「気がついた?」

 同じクラスの古手川こてがわさんだ。小学校から高校まで一緒だったから名前ぐらいは覚えてる。あまり話したことないけれど。

 その古手川さんがどうしてここに。身を起こそうとして、ずきんと頭が痛んだ。

「痛っ……」

「無理しないで。いま先生呼んだから」

「先生ってどうして」

「鬼塚さん、ここから落ちちゃったの」

 あたりを見れば、そこは月鳴神社の奥。立ち入り禁止ロープの向こう側。斜面を転げ落ちてきた証拠のように持っていたゴミ袋が木に引っかかっていた。

 空だってまだ明るい。さっきは夜だった気がするけれど、お囃子の音もまったく聞こえない。

「さっきまでお祭りにいたはずじゃ……」

「お祭り? 今日はゴミ拾いボランティアだよ」

 ゴミ拾いは覚えてる。誰かとぶつかって転んだことも。だけどお祭りのことだけが理解できない。私が刺されたあのお祭りの――そこまで思い出して気づく。がばっと立ち上がって叫んだ。

「鷺山! 鷺山は!?」

 周りには古手川さんや同級生、土手をのぼったところでは一年生がこちらを覗きこんでいる。けれど鷺山の姿がなかった。

「安心して」

 古手川さんは、宥めるように私の肩を叩く。

「鷺山くんなら先に起きてるよ。上にのぼっていっちゃった」

 追いかけないと。さっき見たお祭りの出来事が夢だったらそれでいい。だけど鷺山もあれを見ていたのなら。急いで話さないと大変なことになるかもしれない。

「私、追いかけてくる」

「追いかけるって……鬼塚さん怪我してない? 痛いところあるなら無理しないで」

 ジャージは泥だらけで背中まで葉っぱがくっついていた。頭痛は消えていて、それよりも鷺山を追いかけなくちゃと気が急いていた。

「もう大丈夫。それより古手川さんも戻りなよ」

 そう言って斜面を登る。上から見た時よりも角度は急で、太い枝を掴まって一歩ずつ登る。私が寝ていた場所は低木のところだったけれど場所が悪ければもっと下まで落ちていた。ぞっとしながらも足元を確かめながら進む。

 登り終えると見物していたのだろう生徒の視線を無視して境内を探す。すると神社の階段を降りていく鷺山の背を見つけた。

「鷺山!」

 声をかけると、寝ぼけているような顔が振り返ってこちらを見る。

「香澄さん。無事でしたか」

「なんとかね。それよりも聞きたいことがあって」

「何でしょうか」

「変な夢、見なかった? お祭りで……その……」

 夢の内容ははっきりと覚えている。だからこそ『私』が死ぬとか『鷺山』が自分の死を選んだなんて簡単に言えなくて。

 鷺山は足を止めて私の話を聞き入っていた後、何事もなかったかのように頷いた。

「見ましたよ。お祭りで僕か香澄さんのどちらかが死ぬという夢でしたね。最後は、僕が死ぬ未来を選びました」

 がん、と頭を殴られたような衝撃。鷺山も同じものを見て、内容も同じときたからには夢じゃないのかもしれない。もしもあれが未来だとするのなら、予知になるのか。

 そして、鷺山の態度が淡々としていることも引っかかる。だって自分から進んで死を選び、それに動じていない。あまりにも受け入れすぎている。

 鷺山は特に気にする様子もなく再び歩き始めていた。慌てて追いかける。

「どうして。自分が死ぬって言ったの?」

「あの場はどちらかを選べという意味だと解釈しました」

「死にたくないって思わないの? 話し合って決めればよかった。どうして勝手に決めたの?」

 質問攻めかもしれない。でも私は、あの場で『自分が死ぬ』と勝手に決めた鷺山のことが理解できなかった。

 彼はすたすたと歩いていく。このまま後ろをついていっても表情なんて見えない。早足で追い越して、進路を遮った。

「話聞いてる? 答えてほしいんだけど」

 私が立ち塞がったことで鷺山の歩みが止まる。じいと私を見つめた後、面倒だとばかりにわざとらしくため息をついて、黒縁眼鏡をずいと持ち上げた。

「理由が必要ですか?」

「当然でしょ。納得できない」

「……わかりました。では、」

 正面から私を見る。どんな理由が飛び出してくるのかと構えたけれど、開いた唇からこぼれたのは予想外なものだった。

「香澄さんのことが好きだからです」

 我が耳を疑いたくなるような言葉だった。予想外すぎて驚きも喜びも何もない。聞こえてきた単語と『自分が死ぬ』と告げた理由を結び合わせてもまったく繋がらない。

 恋愛方面の好きではなく、人間として好きという意味――だとしても納得できない。私は今日初めて彼と言葉を交わした。彼の名前を知った。初対面、出会って数分で好きだと言われても。理解が追いつかない。

「以上です」

 混乱している私を放って、鷺山は背を向ける。立ち去りそうな様子を見かねて、引き止める。

「待って。いまのが理由?」

「はい。僕は香澄さんのことが好きです」

「おかしいでしょ? 私、今日初めてあんたと話したんだけど」

「僕も、今日初めて香澄さんと話しました」

 どうなっているんだ。実は昔に話したことがある等の理由をつけてくれたら納得できるのに、鷺山も初対面だと認めてしまった。どこがどうして『好き』に繋がる。

「鷺山は全人類大好き博愛主義とか」

「それはありません。僕は香澄さんだけが好きです」

「一応聞くけど……人間としてって意味でしょ? 恋愛ではなく」

「恋愛として好きです。そういえばこれって告白になりますね」

 ああ、もう。なんだこの変な男。

 鷺山という人間がつくづく理解できない。青春だの恋愛は甘酸っぱいと喩える本を読んだことがあるけれど今こみ上げるのは、ストレスによる胃酸の酸っぱさ。

 初対面なのに私のことが好きだから死ぬと決めた、ってめちゃくちゃすぎる。会話をすればするほど迷路に落ちていく気さえする。

 呆然と立ち尽くす私と今にも帰りたそうにしている鷺山。私たちのにらみ合いを壊したのは、やってきた先生の声だった。

「おーい。鷺山、鬼塚! 大丈夫か?」

 そういえば先生に連絡したと古手川さんが言っていた。

 駆けつけてきた先生に怪我はないことを説明する鷺山をちらりと窺う。

 お祭りの光景が未来だとするなら、彼は死ぬ。そして彼は私のことが好きらしい。何もかも急すぎてついていけない。そんな中でも鷺山は変わらず無表情で、何を考えているのかわからない。

 鷺山悠人は変だ。この男を理解できない。

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