2.変人の観察眼<9月8日>

「はあ……憂鬱……」

 美術室に一人しかいないのをいいことにため息をつけば独り言も出てくる。

 それもこれも昨日の出来事のせいだ。布団に入ってもあれこれと考えてしまうから眠れないし、授業中だってぼんやりしてしまう。

 兎ヶ丘高校では終礼が終わると掃除の時間になる。いつもは教室の掃除だけれど今日は先生に頼まれて美術室担当。その掃除もまもなく終わりというところで、他の子たちは部活があるからと去ってしまった。残されたのは帰宅部の私一人だけ。

 廊下に出した木椅子を取りにいこうと美術室を出る。廊下には木椅子と男子制服。男子制服がどうして。みんな部活に行ったはずでは。

 上靴から靴下、スラックスと順々に視線をあげていくと、その人物と目が合った。

 いたのはプラスチックのゴミ箱を抱えた鷺山だった。猫背のおかげでゴミ箱を持つといよりは抱えているというのが正しい。彼もまた陰鬱そうな顔をしていたけれど、そもそも表情変化の乏しい男だから、最初から最後まで陰鬱でしかない。

「こんにちは」

 昨日の気まずさから、ぎこちなく「どうも」と返事をした。鷺山は淡々としていたし、私もあまりよい態度ではないと思う。だというのに鷺山は、夢を見ているかのようにうっとりして呟いた。

「僕、香澄さんに挨拶するのが夢でした」

「そりゃ随分と小さい夢だね……」

「『おはよう』とか『ごきげんよう』と挨拶をするの、青春だと思うんです」

 どう答えたらいいのだろう。別に青春だけが挨拶を許されるわけじゃないし、ごきげんようは言わない。ズレた発言に脱力しそうになる。

 唐突に謎の夢を語って満足したのか、再び鷺山は歩き出す。青春だの夢だの語ったくせにこれで去るのはどうなのか。呆れながらも鷺山を呼び止めた。

「待ってよ」

 すると鷺山はあっさり振り返る。

「はい」

「昨日のこと。どっちが死ぬとかそういうの、ちゃんと話し合いたい」

「僕が死ぬって決めましたよ。だから話し合う必要はありません」

 イライラするのは、昨日から鷺山がこの調子で向き合ってくれないからだ。死ぬと決めた理由だって納得できない。なのに掴みどころなく逃げてしまう。

 このまま立ち去られても困るからと鷺山が抱えたゴミ箱を掴む。知らない人が見ればゴミ箱の奪い合いをする高校生たちだ。

「……話し合いたいって、私は思ってる」

「話し合っても結論は変わりません」

「この状態であんたが死んで私が生きても、納得できない」

 鷺山は引かない。自分が死ぬと結論が出ているのであまりこの話をしたくないようだ。

 そこで気づいた。私も彼も、予知通りになる前提で話している。だけど本当に実現するのだろうか。あれは二人して同じ夢を見ただけ、本当はあの未来にならず二人とも生きているかもしれない。

 浮かんだ疑問をさっそく鷺山にぶつけることにする。話し合う合わないの言い争いよりはマシだと思った。

「あの夢みたいなやつ、本当に起こることだと思う? 二人とも生きてましたってなるかもしれないよ」

 後半はそうであってほしいという願望がこもっていた。でも鷺山は違う。間を置かず即答で切り捨てる。

「起こると思います」

「なんで断言できるの?」

「あの通りになると信じているから、僕は自分が死ぬ未来を選びました」

 どうやら鷺山は、あの予知が本物だと信じているらしい。そうなればますます、話し合いもせずに鷺山の死を選んだことを後悔してしまう。

「僕はゴミ捨てに行くので。手を離してください」

 話は終わりだと告げるような寂しい物言いだ。私はゴミ箱を離さず、じっと睨む。

「……納得できないとだめですか?」

「そうでしょ。話し合いもせず、あんたが死にますって言われても理解できない」

「じゃあこうしましょう。僕が死ぬまで付き合ってください」

 これまた流れるように、どえらいものを言ってくる。この男は脈絡ってやつを知らないのか。

 昨日の告白を聞いた時と同じく頭が回らない。開いた口が塞がらない私の反応を、うまく聞き取れなかったと解釈したらしい彼が繰り返し言う。

「僕と付き合ってください。そうしたら、あなたを生かすために僕は死にます」

「……は?」

 なんだそりゃ。話し合いをしようと言っているのに斜め上。予想をすぽーんと飛び越えて大気圏まで飛び出してしまったような。それは恋愛としての付き合いか、ちょっとそこまでの付き合いなのか。返答に悩むうちに鷺山はふいと顔を背けた。

「冗談です」

 しれっとした横顔に、かからかって笑うだの顔を赤らめるだのといった様子はない。ぼんやりとした無の顔つき。冗談がわかりにくい男だ。ムードーメーカーになることはできないだろう究極マイペース。

 このやりとりで気が抜けてしまってゴミ箱から手を離していた。その隙を逃さず、くるりと身を翻して鷺山が歩き出す。逃がすものか。私はすぐ追いかけた。

「冗談でもそういうこと言うのはどうかと思う」

「場を和ませようと思って」

「まったく和んでない」

 あの場で和んだ空気になるものか。なっても困る。

「ちょっと! まだ話は終わってない!」

 つかつかと追いかけながら話す。この男は歩幅が大きいので、できれば配慮してほしい。このまま追いかけていると息があがってしまいそうだ。その思いが届いたのか、鷺山が急に足を止めた。

「そうだ。香澄さんにお願いしたいことがあります」

「なに? 言っとくけどさっきみたいな冗談は勘弁してよ」

「大丈夫です」

 ゴミ箱を持ったままこちらを向く。相変わらず感情は読めない。

「放課後、僕の家に来てください」

 感情どころじゃなかった。こいつが考えていることぜんぶ、読めない。


 友達の家に行くなんて小学校低学年以来だし、男の子の家に行くのは小学生と高校生じゃ空気が違う。彼の家に向かうまでの道のりは悶々とした。コンビニの前を通り過ぎるたび手土産の購入が頭をよぎる。

 道中、鷺山は無言だった。たまに私がついてきているか振り返りながらも言葉を発さない。それもまた気まずい。こういう時こそ冗談の出番だ。場を和ませるなら今。

 着いたのは兎ヶ丘高校から離れたマンションだった。外観は綺麗だけどエントランスは陰鬱としていて古い作りを思わせる。外観だけ最近綺麗にしたのだろうと察した。

 鷺山は慣れた手つきでポストを開ける。その隣のポストは手紙や新聞がぎっちりと詰まっていた。

 階段をのぼって二階。ドアの前に立つと鍵を取り出した。

「家の人、いないの?」

 聞くと鷺山はこちらも見ずに答える。

「はい。僕、一人なので」

「は? 一人暮らし……」

「はい」

 家の人がいれば気まずいと想像していたので、ほっとする。それなら手土産の心配もいらなかった――なんて安心しかけたところで気づく。一人暮らし。つまり鷺山だけ。家に入れば二人きりになる。それはどうなのか。しかもこいつは昨日告白してきたばかり。

「あ、あの……ちょ、ちょっと急用が」

 まずい。逃げ出した方がいい。後ずさりするも、扉はもう開錠済。クリーム色の重たそうな玄関扉を開けた鷺山がこちらを見ていた。

「どうぞ。あがってください」

 つまり逃げ遅れた。こうなれば覚悟を決めていくしかない。

 玄関は狭くて靴は男物のスニーカーだけ。今はローファーを履いているからこれは休日に履く靴かもしれない。

「……おじゃましまーす」

 おそるおそる部屋に入る。こじんまりとしたワンルームで、ベッドとキッチンが同じ部屋にある。そういう部屋があるとは知っていたけれど、実家から出たことのない私にとっては新鮮だった。小さめのキッチンに食器類は見当たらず、冷蔵庫はとても小さい。

 家具はシンプルなパイプベットとサイドボード、ガラステーブル。あとベッドの横に不思議な金網と板が置いてあった。テレビはないのがいかにも鷺山って感じがする。

 教科書だの本だのはベッドの下に積み上げられているので、綺麗な部屋とも言いづらいし、汚い部屋と呼ぶほど物もない。本棚などの収納家具があれば印象は変わりそうだけど。

 何よりも驚いたのはクーラーがつけっぱなしということだった。家に入った時から涼しかったのだが見ればクーラーの電源ランプが点いている。

「クーラーつけっぱなしだよ」

「はい」

「電気代かかるよ」

「大丈夫です。そうしないとちょっとまずいので」

 何がまずいのか。これが私の家ならば、二,三日は文句を言われ続ける重罪だ。

 しかし鷺山はクーラーを止めることもせず、部屋の隅に向かう。そこはベッドの隣。金網の上に木の板を置いている。自作のテーブルと思いきや、早々に板を手に取ったので、テーブルではないらしい。

「お願いしたいのは、これです」

 身を屈めてすぐに、カチャンと軽い金属の音がした。どうやら金網に扉があるらしく、それを開けたらしい。上に載せた木製の板を外して取り付ければスロープのようになる。作業が終わると金網の中に隠れていたものがスロープを通って出てきた。

 勢いよく飛び出てきたので、何なのかわからなかった。部屋を駆けて、もふもふのクッションに止まったところで、ようやく判明する。長い耳とクッションに負けずもふもふの体。

「……うさぎだ」

 私が呟くと鷺山は頷いた。相当懐いているらしく人が近寄っても逃げ出さず、撫でてくれとばかり手のひらに頭をつっこんでいる。彼は表情を緩めず、ぼんやりとした顔のまま言った。

「僕が飼っているうさぎです。名前はゲンゴロウです」

「……ゲンゴロウ」

「ちなみにメスですよ」

「ゲンゴロウでメス……」

 ブルーグレーの可愛らしいうさぎなのに名前が残念すぎる。ゲンゴロウと聞いて浮かぶのはうさぎよりも昆虫だし、メスのうさぎにつける名前ではないだろう。こんな名前をつける人、初めて見た。

 哀れみの目を向けるも当のゲンゴロウはというと、額を撫でられ気持ちよさそうに目を細めている。手足丸めた座り方をしていたはずが、ぐでんと体を伸ばしてクッションから足がはみ出ていた。

「お願いしたいことってのは?」

「ゲンゴロウのことです。誰かにお願いしないと、僕が死んだ後に面倒を見る人がいなくなるので」

 ぐい、とゲンゴロウを持ち上げる。されるがまま抱きかかえられていた。

「香澄さん。僕が死んだ後、ゲンゴロウのことをよろしくお願いします」

 恭しく頭を下げているけれど。

「ごめん」

 私が言うと、鷺山は顔をあげた。

「小学生の時に飼育委員はしてたけど、家で飼うのとは違う。それにうさぎは……色々あったから苦手なんだ。私じゃ面倒を見られない」

 鷺山は少しだけ悲しそうに俯いた。抱き上げていたゲンゴロウを床に下ろす。どうやらクッションが定位置らしく、ぴょんぴょこ駆けてクッションに寝転んだ。

「私、鷺山のことが理解できない」

 初対面なのに『香澄さん』なんて名前で呼んできたり、話し合いせず『僕が死ぬ』と決めてみたり、かと思えば告白してくる。何一つ理解できないけど、特に腹立たしいものは――

「鷺山はゲンゴロウを飼っているんでしょ? なのにどうして、あの場ですぐ鷺山が死ぬ未来を選んだの?」

「……はい」

「大切なものがあるなら死にたくない、生きたいって思うでしょ。どうして簡単に決めたの?」

 鷺山は答えなかった。ゲンゴロウの額を撫でて語らない。

「私はあんな死に方は嫌だ。けど、一方的に決めるのはフェアじゃない。だから話し合って、お互い納得できる状態で未来を選びたかった。この状態だと、あんたに借りを作るみたいでしょ」

 借り、と言ったところでやっと鷺山が反応した。

「……借りではないと思います」

「あんたがそう言っても私が嫌なの。初対面から馴れ馴れしい変な男の死を背負って生きたくない。しかもその理由が『私を好きだから』なんて重たいのは嫌」

「じゃあ。香澄さんはどうしたいですか?」

 ここまで勢いよく回っていた舌も、鷺山の発言で動きが鈍くなる。

 私は、どうしたいんだろう。死にたくないけれど、でもこんなあっさりと彼の死が決まるのも嫌だ。じゃあ鷺山と喧嘩をしたいのかと問えばそれも違う。

 答えがない。私は、何がしたいのだろう。

 言葉に詰まって、逃げるようにテーブルへ視線を移す。そこには卓上カレンダーが置いてあった。

「……早く話し合わないと、明日にでも死んじゃうかもしれない」

 死の未来がいつ来るかわからないから、急がなければ。

 しかし鷺山は、卓上カレンダーを持ち上げてさらりと答えた。

「それは大丈夫です」

「なんで言い切れるの?」

「僕が死ぬのは、今月の二十日から二十二日のどこかです」

 カレンダーの下部。九月二十日から二十二日を見る。祝日と日曜が重なっているから学校はない。首を傾げる私に彼は続けた。

「あの予知は、月鳴神社例大祭での出来事でした。だからその日まで、僕は無事です」

 確かにあれはお祭りの最中に起きたことだった。

 普段の旧道は車が走っている。近くの国道に比べて旧道は近道になるらしく地元の人はよく使う。車を止めて歩行者天国にする日はわずか。年末と例大祭の時だけ。

「……来年の可能性は?」

「ありません。町内会テントの奥に、兎ヶ丘高校の有志が作ったポスターが貼ってありました。そこに書いてある西暦は今年のものです」

 日付が絞られたことはありがたいけれど、それよりも驚いたのは鷺山の観察眼だ。私も同じ場面を見ていたけれどそこまで細かく見ていない。突然の出来事に追いつくのでいっぱいいっぱいだった。

「香澄さん、聞いてますか?」

「ごめん。びっくりしちゃって」

「驚くことがありましたか?」

「鷺山は冷静に周りを見てたんだと思って。私は、怖くてそれどころじゃなかったから、ごめん」

「怖くないと言えば嘘になります。それに例大祭で起きる事件よりも怖いものがありますから」

「なにそれ」

 聞くと彼は珍しく返答に間を置いた。

 待っていると、まっすぐ私を見つめて口を開いた。

「僕が死ぬ予定なのに間違って香澄さんが死ぬ方が、怖いです」

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