兎の爪

 我が家に代々受け継がれる爪切りは、銀製で全長一メートルにもなる。刃の幅は三十センチメートルあり、大人が体重をかけなければ噛み合わせることすら出来なかった。

 もちろん人の爪を切る物ではない。もし、手を挟もうものなら、指はおろか手首ごと泣き分かれることになるだろう。

 その爪切りは普段納屋に仕舞われており、月に一度庭に出される。それを庭に出すのは我が家の当主たる私の役目だった。

 そして今日。満月の煌々とした白い明かりが草原のシルエットを際立たせる夜。

 私は長いロープで銀製の爪切りを括り、玉汗を吹き出しながら引きずっていた。奥歯を食いしばって、納屋から庭までの道を踏み込んでいく。庭の中央では白く巨大な毛むくじゃらが鎮座していた。


「おお、来たか」


 鼻を鳴らして長い耳を動かし、その毛むくじゃらの大兎は後ろ足で立ち上がる。

 赤い瞳にじっと私は見つめられる。ルビーを思わせるその瞳に、実に小さな私の姿が映し出された。私がニコリと微笑むと、兎は全く素直に、前足を差し出した。


「お前も慣れたものだな」


 兎はフスフスと鼻を鳴らす。満足気な彼の姿に、私の胸は撫で下ろされた。私と彼との関係はもう十年後以上にもなる。何故我が家が彼の爪を切る仕事を代々受け継いでいるのかは知らないが、父も祖父も長い間この仕事に誇りを持って従事していた。私も彼に認められるような仕事が出来ているのなら嬉しい。


「ところでお前。随分やつれたようだが、冬の蓄えが足りなかったのか」


 頬の痩けた私を瞳に映し、彼は尋ねた。私は一瞬口ごもり、しかし白状する。

 冬の蓄えは充分にたりていた。私も妻も病気一つせずに春を迎えることができたほどだ。しかし、訪れた春はいつもと様子が違っていた。春は命を運んで来なかったのだ。朗らかな陽気が枯れた岩肌を温めるばかりで、山々が芽吹くことはなかった。

 そうすれば動物たちも私達もやつれてしまった。遂には倒れ、妻に至っては腹の子を失った。

 私はどうすることも出来ない無力感を兎に吐露した。彼は、私を慰めることはせず、後ろ足をドシンと地面に叩きつけた。


「それは困ったな。お前が倒れたら誰がオレの爪を切るんだ。子供も生まれなくては困るぞ」


 そう言って彼は耳を垂れる。しばらく鼻を鳴らして考え込み、思いついたように飛び跳ねた。私は彼が飛び跳ねた衝撃で地面を転げる。


「オレの爪を持って帰るといい。そして煎じて山に蒔け、嫁にも飲ますといい」


 私は兔の突拍子もない発言をにわかに信じることは出来なかったが、もう藁にもすがる思いで急ぎ帰った。言われた通りに爪を煎じて山に蒔く。しかし、恐ろしさから妻に飲ませることはしなかった。

 兎はその様子を見て鼻を鳴らす。


「明日にでも良くなるさ。じゃあまた、次の満月の日に」


 そう言って白い毛むくじゃらが遠ざかっていく。私は半信半疑のまま眠りについた。


 私の意識を揺り起こしたのは、妻の大きな足音だった。いつになく騒がしい足取りで寝室に飛び込んでくる。


「あなた!外を見て、外を!」


 窓から山を見る。すると目に飛び込んで来たのは青々と茂る緑とほころぶ花々だった。昨晩までの枯れ果てた灰色の大地は見る影もなく。正に春がそこにあった。

 私は昨晩の兎の話が本当であったと飛び上がった。喜びのあまり妻を抱きしめ、昨晩の出来事を妻に話した。

 その話に感激した妻はためらわずに爪を飲んだ。それから私達は一層兎に感謝し、畑の一角に人参を植えることにした。妻にも爪の効果があり、翌年の春には一息に三人の子宝に恵まれた。

 そして青々とした山裾には、人参を齧りながら、彼らを見守る毛むくじゃらの姿があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る