第9話

 なけなしのTu-16爆撃機が敵の攻撃を恐れて爆弾をばら撒いていったせいで、地雷原の一掃は果たせなかった。それでも突撃路を清掃してくれたと考えれば、成果は十分と言えた。我らの道は開かれた。

 もう時間は残されていない。ここで前に出なければ、なんの意味もなくこの雪と針葉樹の森で軍のリソースを消耗させていただけだと責任を追及されるに決まっている。それはソ連と共産主義、社会主義の歴史が証明している。始まった時からこのイデオロギーは真っ赤に染まっている。それが返り血なのか、殉教の血なのか、あるいは粛清の血の赤の色なのかは誰もが口を閉ざす。これはそういうイデオロギーであり、そのイデオロギーが骨子となる国において、それは法よりも宗教よりも上位でなくてはならない。

 死か、とローライト・マクドゥーガルはホルスターから拳銃と呼ぶにはあまりにも大柄で図々しいスチェッキンを取り出し、スライドを引いて薬室に銃弾を送り込み、安全装置をかけた。

 いつだって、死は隣にいる。見えない赤い手がその首筋を鎌で切り裂く時にしか、死は囁かない。死とは己の存在の終わりであると同時に、死そのものとの一瞬の対話の時間でもある。一秒にも満たないその瞬間に、人は神や主義の真実を理解する。生きている間に、それを感じることは不可能だからだ。大祖国戦争で死んだ祖父や、粛清で収容所に送られ人の心を失った両親も、それを理解するにはあまりにも疲れ切っていた。あまりにもイデオロギーに染まりすぎていた。



「汚れた雪は、もう雪には戻れない」


 

 祖父がよく一人で呟いていた言葉を自らも口にしながら、マクドゥーガルはスチェッキンをホルスターに仕舞い、ガスマスク姿になった歩兵たちを見回した。

 今ある装備品と兵器と弾薬で最善と思う方法をやるしかない。どうせ当て馬の捨て駒なのだとは思わない。駒にも、意地と意思がある。どれだけ抑圧されようとも、ロシア人ではないということであざけられようとも、屈辱感を抱きながらもロシア語を喋り、ロシアの文字を書き綴るとしても、屈しないのがマクドゥーガルの生き方だった。この男は、不屈の精神は斃れぬからこそ不屈なのだと信じてきたのだ。赤いイデオロギーがそうであるように、自身もまたそのように不屈であればこそ対等になれるのだと信じてきたのだ。

 見渡せば、ここにいるのはサーミ人だけではない。ロシア人だと言われようとも、彼らはサーミであり、コサックであり、ヴェプスであり、カレリアでもある。そもそも、我らはロシア人などではなかった。どれだけロシア人になろうとしても、血と民族からは逃れられない。ロシア人がロシア人ではないと言えば、それはロシア人ではなく、ロシア人にとって都合のいい誰かでしかない。ロシアとはそういう土地だ。真実はいつも雪と氷の下、あの豊かで肥沃な黒い土の中に埋まっている。そして都合の悪い記憶のすべては、ヴォルガ川の流れと共に忘れ去られていく。それがロシアの生き方なのだ。だが、それでもマクドゥーガルは落胆しなかった。してはならなかったのだ。落胆してしまえば、彼は屈してしまう。それは彼にとって、許されざる自分自身への背信行為だった。



「お空のお友達の爆撃は終わった。ここからは地に足の着いた我ら陸軍の仕事だ」



 静かに彼は言った。セミョーノフが右手に年代物のPPS短機関銃を担ぎ、左手でサーベルを抜き放つ。コサックらしく、正しく、戦争の光景だった。

 T-55Lのエンジンが唸りを上げて履帯が回り出す。後戻りはできない。戻るべき場所へ還るためには、まず前に進まなければならない。



各員タヴァーリシチ前進せよフピリョート! ―――我に続けザムノイ!!」

 

 それに、背中を撃たれて死ぬくらいならば、勇ましく進み、前のめりに倒れ込む方が遥かに良い。



―――――――――


 

 あれだけ苦労して敷設した地雷たちが、どうやらなんの成果も得られずにことごとく壊滅したのだと僕らは思い知らされた。

 白い帳を破ってマスクをつけた白い男たちが、AKMを抱えてやってくるのが針葉樹の森の狭間に見えた。その背後からはディーゼルエンジンと履帯の音が聞こえ、明確な敵意と強大な火力の存在を僕らの身体は察知する。座学で重機関銃や火砲についての威力はだいたい知っているし、なんなら課外実習で僕らはバスに詰め込まれて演習場に行き、陸軍のM48パットンの九十ミリ戦車砲の射撃で、標的とその近くに置いた鹿肉がどのような状態になるのかを見学したことがある。全身を音と衝撃波が突き抜けて鼓膜が張り詰めたかのようにその轟音はよく響いた。鹿肉は無残な姿となり標的になった車は廃車となったのだ。僕らはこれから、そんなのを相手にしていかなければならないのだ。

 最初に始まったのは訓練施設からの六〇ミリ迫撃砲の砲撃だった。鉄筋コンクリート製の退避壕から小気味よく発射されるちっぽけな榴弾は、針葉樹の枝に当たったり、当たらなかったりしてあちこちで炸裂する。枝や木に当たった榴弾が疑似的に空中炸裂――曳火となって歩兵たちを殺傷する。白い男たちが一斉にざっと散らばって地面に伏せて見えなくなった。そしてその代わりに、お椀の乗った潰れた箱のようなシルエットが浮かび上がってくる。



「敵の戦車だ!! 叩き殺せハッカ・ペーレ!!」



 ハッセ一等軍曹が叫び、彼の指揮する機関銃分隊が戦車目掛けて牽制射撃を始めた。タタタタンッ、という射撃音が響くと同時に、緑色の曳光弾の軌跡が森の向こう側へ消え、戦車のシルエットに当たってははじけ飛んで行く。それと同時に塹壕の両端に位置取る軽機関銃班がベルトリンク式に改造されたDPM軽機関銃で制圧射撃に入り、敵の歩兵の頭を抑えた。機関銃分隊と二つの軽機関銃班が短連射を繰り返す中、僕の隣のレオンは土嚢の一つにカール・グスタフの砲口を委託し、その照準器を覗き込む。

 ターヴィが死んで射手は減ったが、ここにはカール・グスタフが三門ある。レオン・アンティカイネン、アラン・メイフィールド、そして名前も覚えきっていない予備役の男が、それぞれカール・グスタフを構えている。照準器は単純そのものだ。ほとんど倍率の無い照準眼鏡にカール・グスタフ用のメモリが振ってあるだけ。装填されているのも、施設にあった多目的榴弾だ。貫徹力は百五十ミリがいいところ。そんな代物だというのに、レオンはやる気だった。

 シルエットが機関銃の弾雨をものともせず近づいてきて、僕らはそれがT-55だと知った。そして今まで受けた銃弾の返礼とばかりに、同軸機関銃を横薙ぎに撃ちながら、そいつは一〇〇ミリ戦車砲をぶっぱなす。発砲炎がぱっと煌めき、轟音と衝撃が身体を震わせ、ひゅぃっというなにかが通り過ぎる音がしたと思った瞬間に、僕らの背後で爆発が起きた。粉々になったコンクリートと針葉樹に積もった雪がバラバラと降り注ぎ、バカになった鼓膜がなにも音を拾わなくなる。鼓膜の上に綿でも詰まったかのような違和感があったが、僕は不思議なことにレオンの呟きを聞き逃さなかった。



「オレにしかできないことをオレがやる。男なら一度は夢見るシチュエーションだろうが」



 そういうものか、と僕はレオンが言うことにいつもそう思うように、そう思った。微かな日常の残り香が僕の心を揺さぶったが、僕の身体は訓練されたようにきっちりと動いてくれた。カール・グスタフの後方に誰もいないことや、なにかの障害物がないことを確認し、僕はレオンの背中を二度強く叩いた。カール・グスタフのような無反動砲は、その強烈な反動を相殺するために後方に反動軽減用の燃焼ガスを勢いよく噴き出す。これはたとえ十メートルほど離れていても危険なほど勢いと熱と衝撃を持っているため、人間であれなにか物体であれ無反動砲の後方にあってはならないのだ。特に塹壕の壁などが被っていた場合、燃焼ガスは凄まじい勢いで壁に向かって吹きつけられ、壁を伝って僕らに襲い掛かってくる。そんなふざけた理由で戦闘不能にはなりたくない。まだ、僕らは一匹だって敵を仕留めてはいないのだ。


「後方良し! 撃てる!」


了解セルヴェ!」


 僕が叫び、レオンが返す。僕はガリルを片手にしながら、カール・グスタフの八十四ミリ砲弾のケースを開けておく。大口径の火力は、どれだけあっても困ることはない。それが手持ちのものならば、重量が許す限り持っていたいものだし、すぐに使いたいものだ。再装填までの手間を出来る限り短く、すぐに次発を装填してやるのが今の僕の役目だった。

 百ミリ戦車砲が訓練施設の鉄筋コンクリート目掛けて撃ちまくり、それらを破壊していく一方で、同軸機関銃もまた横薙ぎに塹壕に制圧射撃をする。音速を越えた銃弾がペシンッと鞭が鳴るような音を出しては頭の上を飛び越していき、凍土にあたって跳弾した緑色の曳光弾がヒュルルンと間抜けな音を出しながらどこかに弾け飛んで行く。塹壕がなければ僕らはこの弾雨の中で、敵のレツィア人のように凍り付いた地面に身体を伏せていたはずだった。僕はやっと塹壕のありがたみを思い知る。つるはしとスコップで腕が棒になるほど地面と格闘したのは、無意味ではなかった。

 そして、ユリウス予備役少尉のホイッスルの音が銃声に交じって響き渡った。これの意味するところは簡単だ。



『対戦車班、撃てトゥータ!!』



 レオンは優秀な戦車猟兵だった。ホイッスルの音を聞くと、彼は引き金を引いた。

 ドンッ、という単純かつ強烈な破裂音が僕のすぐ隣と塹壕の左右で炸裂し、鼻から鼻水が噴き出した。圧力の変化のせいだ、と僕はすぐに手袋を外して鼻水を拭い、手袋をつけ直してカール・グスタフの後ろ側にあるレバーを押して、ラッパ型の砲尾を横にずらし、足元に転がっていたケースから八十四ミリ砲弾を持ち上げてカール・グスタフにねじ込み、今度は逆にレバーを手前側に引いて砲尾を閉鎖する。それと同時に同軸機関銃の弾雨が僕らの近くを掃射して、レオンがよろめいて後ろに倒れ込み、僕もそれに巻き込まれた。

 どさりと塹壕内で転んだ僕らはお互いに顔を見合わせて、そこにしっかりと友人の見知った顔があるのを確認し、笑った。空からコンクリート片と雪に土がまた降ってきたが、僕らはその程度では萎えたりしなかった。再び中腰に立ち上がって、僕とレオンはカール・グスタフという魔法使いの杖から、破滅の八十四ミリ砲弾を撃ち出す作業に戻る。後方を確認すれば、穴だらけであちこち壊れた訓練施設が見えた。ソ連の赤い津波に対するために建造され、今は僻地の訓練施設となっていた要塞がその真価を思い出したかのように、壊れながらもこの要塞は持ちこたえていた。


「後方良し!」


 僕は叫ぶ。レオンと一緒に日常へと戻るため、あの家に、学校に帰るために戦う。まだ僕らは子供で、この先数十年もの人生が、未来が残されている。こんなところで理不尽に死んではいられない。やりたいこともやってみたいことも、まだやっていないことなんて山ほどある。大人たちが自慢したり面白がったりすることのほとんどを、僕らはまだ指先でさえ触れてもいないのに、雪と氷の中で歴史に刻まれた数字として終わってしまうのだけは、絶対に嫌だ。まだ僕らは子供で、死ぬにはあまりにも早すぎるのだ。死神がそのことを考慮しないであろうことは、ターヴィを見て思い知らされていたというのに。


撃つぞトゥータ!!」


了解セルヴェ!」 


 ドンッ、とまだ無反動砲の発砲音と圧力が僕の鼓膜と鼻を襲う。一発目で鼻水のほとんどが噴き出していたから、そこまでではなかった。レオンに続くようにドンッ、ドンッと無反動砲の発砲音が機関銃の銃声の合間に轟くのを聞きながら、僕は三発目の砲弾を掴み上げて、同じようにカール・グスタフに装填する。



「一両やったぞ、ユーリ!! ははは、ざまあみやがれ!!」



 喜びで唾を飛ばしながら叫ぶレオンにサムズアップをし、僕は後方を確認してレオンの背中を叩いた。

 叩いた背中がびくんと跳ね、レオンの両手がだらりと垂れ下がってカール・グスタフが塹壕にどさりと叩きつけられる。糸の切れた人形のように後ろにレオンが倒れた。

 僕は後方を確認する。左目の下あたりに血の吹き出す穴のあいたレオンがいた。その後ろの塹壕の淵と壁には、レオンの脳味噌だとか肉片が血と一緒にべったりと付着していた。

 銃声が鳴りやまない。怒号が響き渡る。今さっきレオンの声を聴いたはずなのに、僕はあの偉丈夫の友人の自信にあふれた声がどんなものであったのか、すぐには思い出せなくなっていた。

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