冷たい戦争の終わりに
狛犬えるす
第1話
あの頃は、明日が来るのが当たり前だと思っていた。
目覚まし時計に文句を言いながら朝日に目を細め、急いで朝食を食べて学校へ向かう。
学校ではおなじみの顔と挨拶を交わし、いつ役にたつかもわからないことを学ぶ。
他愛のないことで笑ったり、しょうもないことで怒ったり、小さなルール違反にロマンを感じていた。
雪まみれになって遊びまわることもあったし、スキー板とストックを持って雪化粧をした山に出かけることもあった。
それがすべて、レツィア共和国の侵略から始まった戦争で、変わってしまった。
我々は銃を取り、震える肩を寄せ合いながら戦い、戦争の終わりを知ることなく死んでいく。
これから記すのは英雄譚でも、偉大な人物の回顧録でもない。
これは未熟な我々が、いかにして戦争と言う異常事態を生きたかと言う記録でしかないのだ。
――――――
西暦1985年2月2日 14時
北欧 ラップランド地域北東 スコルト王国国境北端
第1137訓練施設 第1137訓練部隊 第2歩兵分隊
筆記 ユーリ・ヘルレヴィ《17》上等兵(戦時任官)
対レツィア共和国戦開始から、98時間経過―――。
――――――
酷く凍てついた夜だ。
気温はマイナス二十度を下回り、辺り一面が雪で埋もれ、樹齢数百年だかの針葉樹林が靄で見えなくなる距離までずうっと続いている。
吐息が白くなるのを防ぐのに雪を口に含んだせいもあって、口の中の感覚はほとんどない。防寒着と厚い手袋で覆われた身体も、あまりの寒さに震えだしそうだ。
でも、僕は身体を震わせたらどうなるかなんて分かり切ってる。
夜は視覚で得られる情報が少ないから、聴覚が自然と鋭敏化される。敵の斥候が僕の震える音を聞きつけたら、僕の喉元を掻っ切ろうと忍び寄ってくる。
だから震えだしそうな身体を強張らせて、石のように固まることで、音もなにもかもを出さないようにする。僕はまだ死にたくないから、敵の斥候がまぬけに音をたててくれるのを、じぃっと息を潜めて待っている。
『いいかい坊や。ライフルはそれを持つ人以上に、善良になることも、害悪になることもできないんだよ』
思い出すのは、僕を育ててくれた祖父の記憶。
あったかい暖炉の傍でロッキングチェアを揺らしながら、白い口髭に埋もれた口をもごもごと動かして、遠い戦争の記憶をぽつぽつと零す、枯れた巨木のようなお爺ちゃん。
祖父はその時、古めかしいモシン・ナガンライフルをじっと見つめながら僕に語りかけてきた。かつてあった戦争で、祖父がその銃で戦ったことを僕は知っている。
結局のところライフルは、使う人間がいて初めてライフルとなることができる。
そして、そのライフルを使う人間の手で、ライフルは悪名を持つのか、伝説を残すのかが決まる。
祖父はいつもそう言っていた。
けれど、遠い戦争で英雄だった僕の祖父は、人殺しの感覚については一度も口を開かなかった。
あのあったかい暖炉にあたって温まりたいな、と僕は思う。
蒼白い光の下、世界が死んでしまったかのような静寂の中、どうして僕は、四キロ半もするガリル突撃銃を抱えて、真っ白いシートで蓋をされた穴倉に寝そべっているんだろうとは、思わないようにする。
おおよそ100時間前まで、僕らは学校の〝国防実習〟で、スコルト王国国境部に位置する針葉樹林にやって来て、ちょっと銃を撃って軍隊の真似事をすればいつもの学校生活に戻れるものだと信じていた。
それがちょっとした手違いで、本物の軍隊になってしまったってだけの事なのかもしれない。
運悪くレツィア共和国の油田が事故で損失して、運悪くスコルトの資源を目当てにレツィア連合王国陸軍が責めてきたってだけの事。
―――ただ、それだけのことなのかもしれない。
僕の持っている突撃銃に装填されているのが模擬弾じゃなくて、実弾だってことも。
この針葉樹林に展開している友軍が一小隊もいなくて、当分増援は望めそうにないってことも。
敵陸軍の戦車四両がこの針葉樹林にやって来て、僕らが拠点にしている第一一三七教育施設から15キロメートル圏内にいるってことも。
全部が全部、ちょっとした手違いってやつで、運悪く僕らがここにきて戦争ごっこなんてものに講じていたから、そうなってしまっただけのことなんだ。
なんだ、僕らはちっとも悪くないんじゃないかと、僕は僕を騙す。
そうしていないと僕は、弱音に飲み込まれて死んでしまうだろうから。
「………Запад? что Запад?」
「нет,нет, Восток」
ふと、凍えきった体に意識が戻る。
凍りついて感覚のない耳が深雪を踏み足音と、訛りのきいたロシア語を同時に捉えた。
彼らが来てくれなかったら、僕はきっとあのまま考えふけって凍死していただろうなと思いながら、僕は両手でガリルのセーフティーを解除する。マガジンのバネがへたらないように装填された二八発の五.五六ミリNATO弾が、ついに出番が来たかとばかりにガチャついた気がした。
小さな金属音が鳴ったのが聞こえたらしい。ロシア語と足音がふっと止んだ。
「……Сержант?」
「Стой!」
やっぱり、セーフティーを外した金属音に気づいたのだろうか?
息を殺し、心臓の音さえも煩わしくなるほどの静寂の中、僕は銃口を暗中に巡らせ、僕らの敵を必死になって探す。
傍から見れば、僕は精神異常者みたいだろう。血眼になって、全身を強張らせながら、射殺する人間を探しているのだから。
「……そこにいんのか?」
ああ、いる―――とは答えない。
巻き舌のかかった訛りは、レツィア国民が使うロシア語の名残だ。
まったく、スコルト国民が使う癖のあるフィンランド語まで学んでいるなんて、敵はどこまで用意周到なんだろうか。
「……いんだろ? 分かってる。出ろ」
ざく、ざくと、雪上を人間が歩く音が近づいてくる。
ふと、生と死の狭間に僕はいるんだなと、酸素不足で悲鳴をあげる肺の痛みを感じながら、そう思う。
そして同時にこれから僕は、人を撃ちます。神様、ごめんなさい。お爺ちゃん、ごめんなさいという、酷く今更な台詞が浮かぶ。
震えだしそうな身体を貧弱な筋肉で押し留めて、僕はじっと待つ。
トリガーに人差し指をあてて、いつでも撃てるように身構えながら、僕はじっと待つ。
「出ろ。俺、お前を助ける。出ろ」
ざく、ざく、ざく。
聖なる極北の静寂を冒涜するかのように、無遠慮なレツィア軍兵士の足音だけが、僕の鼓膜を震わせる。
忍び寄るような足音と、恐る恐る歩いているような足音の二つ。
恐らくは、上官とその部下なんだろうなと僕が推測すると同時に、足音の主が視界にひょっこり入ってきた。
丸いヘルメットと、防寒着で着ぶくれした人影が、二つ。
手にはあの特徴的なバナナ型の湾曲したマガジンが刺さっているAKM突撃銃を抱えて、ゆっくりと足を動かしながら、きょろきょろと当たりを見回している。
「お前、隠れてる。俺、分かってる。出ろ」
僕から二人までの距離は、二十メートルもないだろう。
音を立てないように、僕は身体を動かし、ストックを肩に当て、アイアンサイトを覗き込む。
静かに息を吐き出して、精神を集中させ、視界と指先に意識を向ける。
手袋越しに、人差し指がトリガーに触れる感触。
心臓が爆発しそうだ。呼吸が早くなって、吐息が白く濁る。
地面とシートの間。僕が銃口を突き出している、小さな隙間から、白濁した吐息が漏れ出す。
「С……Сержант!!」
部下と思わしき男が、僕の方を見て、叫ぶ。
上官と思わしき男が、部下の方を見て、首をかしげる。
その瞬間、僕はトリガーを引いた。
小さな金属音が胸元で響き、次に鼓膜を貫く炸裂音が上がる。
肩を小突かれたような反動を感じつつ、僕は銃口を人影に合わせ続けた。
トリガーから指を放すことすら忘れ、マガジンに装填されていた二十八発の五.五六ミリ弾を撃ち尽くす。跳ね上がろうとする銃身を教わった通りに押さえつけ、左右に一度ずつ薙ぐようにして撃った。撃って当たって死んでくれればいいと思った。
気づけば、二つの人影は消えていた。
あるのは、ガリルの銃身がジジジッと音を立てて空気を焼く音と、僕の荒い呼吸の音だけ。
行って、二人が死んでいることを確認しようかと、僕は立ち上がろうとした。
するとタイミング良く、トランシーバーからトントンと音が鳴る。
音は一度消えた後、流れだし、また消えた。
事前に決められていた暗号だと思い出し、僕は無意識のうちにシートを剥ぎ取り、トランシーバーをポケットに突っ込んで、木々の合間を駆け抜ける。
肺を貫く冷気は、身体を内側から凍結させていく。適度に休みながら、僕は表皮に三本の引っ掻き傷のある木を探す。
呼吸が辛い。
心臓は胸から飛び出しそうで、肺は凍りついたみたいだ。
足も手も感覚が無くて、目と耳だけが頼りになる。
しばらく針葉樹林を駆けずりまわった後、僕はようやく、傷のある木を見つけ、コンパスで東西南北を確認した。
この傷は目印だ。この傷のある木がない場所から、数十メートル進むと、地雷で足を吹き飛ばされることになる。
「……もうすぐ、だ」
ぜいぜいと肩で息をしながら、僕は自分を勇気づけるために、小さく呟く。
下着は汗でびっしょりと濡れて、暑いと感じているのに、手足の末端は寒さのあまりなにも感じない。
おかしなもんだと笑いながら、僕は僕らの砦へ向かって、ひたすら足を動かした。
僕らの戦争はそこからすべてが始まり、そしてきっと、すべてが終わりを迎える場所となる―――第一一三七訓練施設へ。
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