第29話 ただいまです
今日から寮監へ復帰することになっているオレは、数日ぶりに寮に帰って来た。
この数日は引き取った三人の姪っ子の生活環境を整えるのに尽力したつもりだ。
その結果として新学期である今日から、三人は中学校と小学校に通う手続きが間に合った。
麗羅の制服は用意できなかったが、そればっかりはすぐに用意できるものじゃないので仕方がない。
寮に着いたオレは車を止め、昇降口へ向かう。
「コーチ、おはようございます~」
「うをっ……夜乃」
昇降口のドアに手を伸ばし、解錠しようとした時、脇から人の気配を感じたと瞬間に、聞きなれた少女の声がオレを驚かせた。
甘いクリームのような色の髪が肩まで伸びている。初対面だとちょっと遊んでいるような印象を抱くだろうが、初等部からこの学園で育っているので生粋の箱入り娘。異性と付き合った経験は皆無だと本人は言っている。
男と付き合ったことが有るのか、無いのか、オレは興味がないからどっちでもいいが、記録会や大会で、こいつが多くの男に言い寄られているのは知っている。
「20日ぶりですね。もぉ~合宿から帰って来たら、休んでるって聞いて驚きましたよ~。コーチって仕事一筋の人だと思ってたのに、長々と休んで――そんなに姪っ子ちゃんたちと暮らすのがいいんですかぁ?」
文句を言いながら一歩一歩近づいて、最後はグッと顔を寄せてくると、耳元内緒話でもするように囁く。
「……そのことを聞いて、思ったのがそれか? 普通に姪っ子たちが新しい環境に慣れるまでサポートしてたとは思わないのか?」
オレは近すぎる少女――
年頃の子の身体に気安く触るのは躊躇するが、こんな近くに迫られているのを見られる方が問題だ。それに――こいつだしな。
「ですねぇ~。いやぁー私もないなって思ったんですよ? でも、ほら、あの子たちがすっごく気にしてるじゃないですかぁ。それで万が一ってこともあるのかなぁ~? て思ったら夜も眠れなくて、こうしてコーチが来るのを持ってたんですよぉ」
簡単な否定だったが、それで夜乃は納得したのか、満面の笑みを浮かべた。
目が笑ってないように見えるのは、オレの気のせいだろう。
女の子は大抵こんな笑い方――するか? しないかもな。よし、気付かなかったことにしよう。
下手に藪を突く必要はない。
「そんな理由でこんな時間から寮の外をうろつくな」
「そんな理由ってなんですかぁ。乙女としては見過ごせない理由ですよ」
「だとしても不要に寮の外に出るな。変な奴がいたらどうするんだ」
もし寮生に何かあれば責任を追及されるのは、この寮を管理している者だ。
前日まで休んでいたオレではなく、風吹さんに迷惑がかかるのは間違いない。
「心配してくれるんですかぁ?」
「当たり前だ」
理不尽な責任を取らされる。それが社会だ。
そんな不要な責任は取りたくないし、他の人にだって取らせたくない。
オレを待っていたって理由で問題が起こり、風吹さんの迷惑になるなんて許せない。
「そうですか、なら今後はしないようにします」
「そうしてくれ。ほら、中に入れ」
夜乃が外に居るってことは、既に鍵は既に開いているのだろう。
オレはドアを開いて、中に入るように促した。
「コーチが先に入ってくださいよぉ」
「何でだ? さっさと入ればいいだろ」
「それ、そのままお返しするので、まずはコーチから」
「……何か変なこと考えてないだろうな?」
どうしてそんなにオレを先に入ってほしいのかわからず、何か企んでいるのではないかと疑いの目を向ける。
「やだなぁ、背中を向けた瞬間にカンチョーなんてしないから安心してくださいよぉ」
「それを聞いて警戒心がマックスになったぞ、おいっ」
思わず尻を隠すように手を当てた。
「ホントにしませんって! もういいから入ってくださいよっ。めんどくさい」
「いや、お前が先に――ああぁ、押すな、転ぶ、危ないだろ」
夜乃はオレの胸に手を当てると、鞄に荷物を押し込めるように、寮の中に入れようとしてきた。
強引な手段にオレは焦り、転びそうになったので抵抗をやめて素直に中に入った。
その瞬間にカンチョー――をされることはなかった。
「……何がしたいんだ、お前は」
オレが寮の中に居て、夜乃が外に居て、向かい合っているこの状況の意味が理解できず、オレは怪訝に思う。
「こほん。それではコーチ――ただいまです」
「…………あっ」
愚かにも言われた意味を考えた。
そしてすぐに思い至る。
そうだ、夜乃は2週間陸上の強化合宿に参加していたんだ。
兄さんと義姉さんが死に、三人の姪っ子を引き取ることになって、色んなことをしている間に夜乃は、オレよりも先に寮に帰って来てしまった。
オレは夜乃を出迎えなきゃいけないんだ。
「ああぁ、お帰り。合宿はどうだった?」
「もぉ~聞いてくださいよぉ! なんかぁ、しつこい男子が居て、帰り際に連絡先聞いてこようとしてくるんですよぉ。こっちは遠まわしに断ってるのに、伝わらなくてぇ――」
夜乃はオレの側まで寄ってくると、溜め込んでいた不満らしき物を吐き出すように一気に言ってくる。
「待て待て、オレが聞きたいのは合宿のことであって」
「これだって合宿のことですよ。めっちゃストレスだったんだから聞いてくださいっ」
頬を膨らませて「怒ってるんですから」っとアピールしてくるが、それはオレのせいか? 八つ当たりじゃないのか? オレが参加するようにお願いしたのが原因だから、オレのせいってことなのか?
「わかった! このあと聞いてやるから、とりあえず落ち着け、な?」
「……ちゃんと聞いてくださいよ?」
下から上目遣いで見つめてくる。
「ああ、聞く、聞くから。オレの聞きたいことも聞かせてくれ」
「なんですか? スリーですか? それなら知ってますよね? 下着洗ってるのコーチですし」
「ガキのスリーサイズなんて興味ねぇよ。やめろ、オレを変態にするな。昼のニュースに出演させる気か」
「一躍時の人ですね。サイン貰っといていいですか?」
ニヤニヤといい意地悪な笑みをしてやがる。
「そんなの貰ってどうすんだ――じゃなくて、お前のためにはなりそうだったか?」
学生の貴重な長期休みを犠牲にさせてまで参加してくれたんだ。有意義な経験だったと思ってくれれば、勧めたオレとしては安心できる。
「そうですね……いい経験にはなったと思いますよ」
「そうか、それは良かった」
その言葉が聞けて、オレは胸を撫でおろした。
「でも――」
「うん?」
「厳し過ぎです。滅茶苦茶疲れました」
夜乃は強化合宿の内容を思い出したのが、苦い表情を浮かべると、肩を下げて項垂れた。
「そりゃ強化合宿だからな」
「コーチより激しいなんて聞いてないですよぉ」
「…………」
何か他人に聞かれると、勘違いされそうな言い方だな。
一応言っておくが、指導が厳しいって意味だからな。
「だから、頑張った私を褒めてください」
夜乃は更に一歩オレに近づいて、また上目遣いで使ってくる。
ただいまの挨拶も、さっきのも、今も、いちいちあざといんだよな、こいつは。
そんな風にしてるから、次々に男が引っかかるって、自覚がねぇのか。
そう思いながら、オレは夜乃の頭に手を乗せて、姪っ子たちにしていたように、優しく撫でた。
「あっ……」
「なんだ? 呆けた顔して」
自分で要求したよな?
なのに、何をそんな驚いてんだ?
「いえ……その、今日はサービスがいいなぁって思って、普段はこんなことしてくれないのに」
「…………」
しまった!
何か、最近姪っ子たちのことを甘やかしていたから、つい無意識に頭を撫でてしまった。
「あぁーその、悪いな」
「やめないでくださいっ」
オレは手を下ろそうとしたが、夜乃が手首を両手でがっちり押さえてきた。
「2週間、頑張った分、撫でてください」
「……それは因みにどれくらいだ?」
「2週間」
「それは……無理だな」
あと2週間有給を取らなきゃ不可能だ。
今日から学園の新学期が始まり、7月の終わりには三年生の最後の大会、総体があり、どの部活もそこに向けて猛特訓を始める。
そんな中、2週間も無駄にできない。
「2分、とりあえずそれで納得しろ」
「サービス悪いなぁ。ちょっと店長呼んでもらえますぅ?」
「私が店長ですが、当店のサービスにご不満でも? いやならすぐにやめますが?」
「いいです。2分でいいです! いいので、このまま続けてくださいっ」
必死に続けてほしいと懇願する様子が面白くて、オレは思わず笑ってしまった。
「……なんですかぁ、もぉー」
不満気に頬を膨らませて抗議する姿が、何だかかわ――オレは教え子相手に何を考えて……。
一瞬脳裏に浮かんだ〝可愛い〟の文字を首を振って振り払う。
血の繋がった姪っ子たちならいざ知れず、教え子はさすがにダメだろ。
「なんですか、そんなに首を強く振って。なでなでに感情がこもってないです。この数秒はノーカンですか、ノー・カ・ン」
「はいはい、確り感情こめますよ」
「わかれば……って、それ感情じゃなくて、力がこもってます! いたっ、今ぶちって、ぶちって音がっ! 乙女の髪が抜けてませんか! 罰として1分追加ですよ!」
「ついでに頭皮のマッサージもしてやる」
「違う! 求めてた甘い感じのなでなでから遠のいてますから! こんなんなら、もういいです」
「遠慮するな。ほれ、なでなで」
「ぎゃあぁぁ! 髪が! セットした髪がくしゃくしゃにっ」
となんやかんや言いつつも、夜乃は握っているオレの手首から手を離そうとしないし、力尽くで引き剥がそうともしなかった。
大体3分、オレは夜乃の頭を撫でまわし、手を離すと髪はボサボサになっていた。
恨めしそうに睨んでくるものの、その口元はにやけていて、楽しそうだった。
※あとがき※
27話の最後と時系列が前後しております。
勘違いされた方がいましたら、ごめんなさい。
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