第13話 おはよう


「あ、おはようございます。叔父さん」


 オレは自室のベッドの上で目を覚ました。

 本当ならもうこの部屋は麗羅に与えたものなのだが、昨夜はオレの寝床になったはずのソファーに先客がいたので、仕方がなくこちらで寝ることにした。

 まだ二度しか夜を超えていないはずなのに、部屋の中は既に若い女の子の匂いで満ち溢れていて、落ち着かなかったはずなのに、ぐっすり眠れた気がする。

 ベッドを降りて、リビングに出ると「んぅ~ん」と伸びをする麗羅の姿が目に入った。

 そしてオレが引き戸を開けたことに気づくと、振り返って当たり前のように挨拶をしてきた。


「ああ……おはよう」


 昨日帰ってきた時には、はだけていたピンク色のパジャマのボタンはちゃんと留められている。


「今日は遅いんですね? お仕事はいいんですか?」

「……しばやく休むことにした。みんなと相談したいことがあるから」

「相談ですか? 私たちと?」

「それは有紗と璃々夜が起きてから話すよ」

「あ、そうですね。二度手間になりますよね」


 麗羅は少し恥ずかしそうな素振りをしながら、納得と頷く。


「麗羅は朝シャワーとか浴びるタイプか?」

「な、なんですかいきなり、叔父さん!」


 前触れもなくオレは、いきなりそんなことを聞いてしまった。

 年頃の女の子である麗羅は警戒したのか、顔を赤くして怒るように声を荒立てた。


「あ、いや、他意はないんだ! 寝ると必ずシャワー浴びる人もいるから、どうなのかな? と思っただけで」

「ホントですか?」


 疑うような視線から逃れるために、オレは顔を逸らした。

 さすがにいきなり過ぎたか。

 どういう意図があってそんなことを言いだしたか、そりゃ麗羅は気になるだろう。疑う気持ちも理解できる。


「ホントだって。オレは……浴びたり浴びなかったりするから……もし風呂場でかち合ったら色々とマズイだろ?」

「あ、そういう(一緒に入ろうってお誘いかと思いました)」

「うん? 何か言ったか?」

「いえ、こちらの話しです」


 今、そちらの話しをするような場面だったか?


「えっとですね。私は別に朝は入りませんよ。夏場で寝汗が酷い時はさすがに浴びますけど」

「そうか……そうなのか」


 当たり前と言えば、当たり前か。

 オレが発言した、浴びたり浴びなかったりの理由もまさにそれだ。


「残念そうですよ、叔父さん」

「いや、そんなことはないぞ」


 残念――そりゃある意味残念ではある。

 シャワーに上手く誘導できなかったことが……。


「何かシャワーを浴びてほしい理由でもあるんですか?」

「……いや、浴びないならいいんだ」


 変に誘導して、何か疑われても困るのでオレは素直に諦めることにした。


「そうですか……あ、シャワーは浴びませんが、顔は洗います」

「そりゃオレももちろん」

「一緒にどうですか?」

「一緒に洗うもんじゃないだろ」

「それでも……どうですか? 一緒に」


 そんな恥ずかしそうに上目遣いをされたら――


「まぁ、いいが」


――断れないだろ。

 なんで顔を一緒に洗いたいのかわからないが、頑なに断るようなことではない。

 別に一緒にお風呂に入ろうと誘われているわけではないのだ。

 オレたちは二人で脱衣所にある洗面台へと向かい、何故か横並びで立った。

 マンションの脱衣所なのでそれほど広くないが、麗羅が小柄なので並んで立つことができた。


「こんな風に朝から洗面所で並んでいると……新婚夫婦みたいです」


 鏡には、頬を赤くした麗羅がオレのことを見上げている姿が映っている。

 なんてことを言ってくるんだ、この姪っ子は!


「そうか? 親子……だろ? どうみても」


 内心ハラハラしながら、オレは平常心を装ってそう返した。

 まだ親としての自覚は薄いが、徐々にそうなっていければと思う。

 なれるといいなぁ……無理か?


「むぅ……そうですか」


 麗羅は膨れっ面を浮かべると、機嫌を損ねたのか、水を流すとジャバジャバと顔を洗いだした。

 オレは棚からタオルを一枚取って、顔を洗い終えた麗羅に渡してやった。


「ほれ、タオル」

「あっ、ありがとうございます」

「寝ぐせついてるところ、直すか?」


 麗羅が流しに向かって顔を下げた時に、後頭部辺りにひょこんと跳ねている部分を見つけた。


「えっ、どこですか?」

「ここだ。ここ」


 麗羅が動く度にひょこひょこ揺れる髪を、オレはちょんちょんと指で弾く。


「見えません。どこですかっ」


 麗羅は鏡に背を向けて、自分の後頭部を見ようと振り返るが、そうすれば当然後頭部は鏡では映せないので、見つけることができないようだ。

 ウチの洗面台は三面鏡なので、左右の鏡を駆使すれば確認することできるはずだが、寝ぐせを指摘されてテンパっているのか、そんな単純なことにも気づかない。


「直してやる。前を向け」


 これでは永遠に見つけられないと思い、オレはそう提案して麗羅の方を掴んでクルッと反転させて、後頭部をこちらに向けささせた。


「あ……」

「ん? なんだ?」

「……肩……」

「悪い。馴れ馴れしかったな」


 しまった。いくら姪っ子相手だからって、年頃の子の身体に気安く触れてしまった。


「いえ、そんなつもりで言ったのではなく、その……いきなりだったので、少し驚いてしまいました」


 まるで借りてきた猫のように身を縮めて、照れたように顔を赤くする姿がなんと言うか……可愛い! 意外の言葉が思いつかん。

 さすが義姉さんの娘、ちょっとした仕草の破壊力が凄まじい。


「驚かせたなら悪かったな……よっと」


 軽く謝りながら、オレは鏡裏の収納スペースに置いている寝癖を直すためのスプレーを取り出し、跳ねている髪に三度吹きかけた。

 それからクシは使わずに手でそっと撫でるようにして、液体を髪馴染ませていく。


「なんだか、手慣れた手つきですね」

「そうか? こんなことする相手はいないから、慣れてるつもりはないんだが」


 義姉さんと同じ綺麗なシルバーブロンドだ。傷つけないように、丁寧に扱っているからそう勘違いされたのだろう。

 それにしてもやっぱりサラサラだ。

 昨日もこっそり弄ったが……よく手入れされている。


「そうなんですか(相手、いないんですね……)」


 何故だか鏡に映る麗羅は嬉しそうな顔をしている。

 髪を撫でられるのが好きなのだろうか?

 そう言えば義姉さんも兄さんに髪を触らせている時は嬉しそうな顔をしていた。

 その姿を見るのが辛くて、すぐに顔を逸らした覚えが何度もある。

 親子はやはり似るようだ。


「とりあえず直ったな。ドライヤーで乾かしておくか?」

「はい、お願いします」


 鏡越しで視線を交え、オレたちは軽く頷き合った。

 洗面台の下に設けられた小さな箪笥から、赤いドライヤーを取り出し、コンセントをさして熱風を送る。

 枝毛のない髪を傷つけないために、近づけ過ぎず、同じところを当て続けないように気を使いながら、濡れた場所をさっと乾かした。


「ほい、終わりだ」


 スイッチを切ってドライヤーを戻す。


「ありがとうございます。お礼に私が叔父さんの顔を洗いましょうか?」


 ニコニコした表情でそう提案してくるが、オレはその申し出を断る。


「いや、顔くらい自分で洗える。というか他人の洗うのって難しくないか?」


 髪や背中ならわかるが、顔って誰かに洗ってもらうような場所じゃない。

 洗うよりも水をぶっかけられるってなら、想像つくが。


「そうですか?……そうですね……例えばこーう、えいって感じで」


 麗羅は手で水を溜めて、それをオレに投げるような身振りをする。


「いやいや、それ洗えてないから、ただのびしょ濡れだから」

「あはは、バレました?」

「バレないと思うか?」

「いいアイディアだと思ってんですけど」

「全然よくない。ほら、退け」


 しっしっと犬でも追い払うように洗面台前から麗羅を退かし、オレは自分で顔を洗う。


「タオルどうぞ」

「おう、サンキュー」


 先程のお返しとばかりに麗羅がタオルを差し出してくれたので、礼を言って顔を拭く。


「それ私が使ったタオルです」

「うん? そうか、別に少ししか濡れてないから気にならないが」

「そうじゃなくて、同じ面で顔を拭いたので……間接キス……です」


 既に真っ赤になっていた顔で恥ずかしそうにいる麗羅を思わず、目を丸くして見てしまった。

 わざわざなんてこと言うんんだ! 

 こんな些細なことで取り乱したりしたら、大人としての威厳が損なわれると思い踏ん張るが……わざわざ言わなくてもいいだろ、そんなことっ。


「そんなこと気にすると思うか?」


 何ともないように装いながら、オレはタオルを麗羅の頭に押し付けるようにして渡して、先に脱衣所から退散する。


「あっ、お兄さん、おはよぉー」

「おじちゃん、おはよー」


 廊下に出ると、ちょうど部屋から出てきた有紗と璃々夜と鉢合わせた。

 二人はシンクロして目元を擦りながら、小さく欠伸をする。

 二人ともまだまだ幼くて、天使のような可愛さだ。


「おはよう二人とも」

「……今日は仕事ないんですかぁ?」

「今日はお家にいるの?」

「ああ、しばらく休みをもらったから、色々と今後のことを決めていこう」

「そうですか……あ、お姉ちゃん、おはよぉーってどうしてお兄さんが出てきたばかりの洗面所から?」

「顔を洗ってただけよ。二人も洗っちゃいなさい」


 麗羅はオレと接する時と違い、大人びた雰囲気で二人にそう言った。

 姉としての見栄なのかもしれない。


「はぁ~い、ほら璃々夜行こ」

「うんっ」


 家の中だと言うのに有紗は璃々夜の手を握って、脱衣所まで一緒に移動しようとするのだが、入り口の前で麗羅とすれ違った瞬間、有紗は足を止めて振り返った。


「スンスン……お姉ちゃん、その……なんだか変な匂いするよ?」

「えっ……汗、臭い?」


 有紗は麗羅の胸の辺りに顔を近づけると、匂いを確かめるように鼻を動かし、気まずそうな苦笑いを浮かべる。


「うーん、汗じゃなくて……梅雨にイチョウ並木を通った時みたいな独特な臭いが……」

「えっ、そんな匂いしてるの? クンクン……自分だとわからないけど」


 指摘されて気になるのか、麗羅は自分の腕や肩、それからパジャマの胸元を引っ張って確認すると、小首を傾げる。

 あ、やばいか……。


「体臭って自分じゃわかりにくいからね。でも、今までそんな匂いしたことないのに、どうしてかな?」

「……臭いと思うなら、シャワーでも浴びればいいだろ」


 オレは裏返りそうな声を必死に抑えて、できる限り普段の調子で助言を与えた。


「く、臭いとか言わないでくださいっ……あの……叔父さんも臭ってると思ってたんですか?」

「……それほどじゃないが……少しは……」


 正直に言うと全くわからなかったが、ここは話しを合わせた方が不自然ではないと判断し、顔を背けて肯定した。

 すると――


「シャワー浴びますっ!」


――麗羅は逃げるようにして、脱衣所に飛び込み、引き戸をバタンと閉めた。


「あにゃ、顔が洗えない」


 ガチっと施錠までされてしまったドアを璃々夜が見上げた。


「とりあえず台所で洗うか?」

「そおですね。お姉ちゃんお風呂とかシャワー長いですから、待ってる間みっともない姿をお兄さんに見られてるの恥ずかしいですし」


 有紗は頬をほんのり赤くしてはにかむと、璃々夜の手を引いてキッチンへと続く廊下が駆けていった。


「……結果的にシャワーを浴びてくれたが、冷や冷やしたな」


 背筋の体温がいつの間にか無くなっている。

 昨夜、オレがしでかしたことをあの子たちに悟られないでよかった。

 心の中で安堵の溜め息をついて、オレは二人の後を追った。

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