第11話 胸の感触

「風吹さん、お疲れ様でした」


 時刻は二二時。

 寮生たちの消灯時間になり、長い拘束時間が終了する時間だ。


「うん。早く帰ってあげてね。それと明日からは――」

「わかってます。新学期まではあの子たちのために休みますよ」


 入り口前で風吹さんに見送られ、オレは外に出ると玄関を施錠する。

 風吹さんの指摘を受け、オレは改めて明日から休むことにした。

 期間は新学期が始まるまで。その間は寮監と部活の仕事を休む。部活は一応練習メニューだけは伝えてあるので、今まで通りやってくれれば何も問題ない。

 一応学園の教師にも陸上部の顧問はいるので、その人にいない間は監督するようにはお願いしておいた。


「さて、早く帰って明日からのことを――」


 みんなと相談して色々と決めていかないと――と思いながら、寮の敷地に停めてある車に向かっている最中。


「コーチ……」


 後ろから女子生徒の声が聞こえてきた。


「西野か?」


 振り返らずとも、その声で誰がそこにいるのかはわかるが、オレは足を止めて振り返った。

 外灯に照らされた西野は困ったような、申し訳なさそうなような、情けない表情を浮かべている。


「もう消灯の時間だぞ。こんなところで何してる?」


 玄関の鍵を閉めたばっかりなのに、どうして外にいるんだ、こいつは。

 ジャージ姿だからもしかして自主練でもしていた? いや、それはないか。汗一つかいてない。


「あたしがいたら悪いの?」

「悪い。規則違反だ」

「……そっか。確かに」


 いつもなら「あたしの勝手じゃん!」と噛みついてきそうなところだが、意外にも素直に頷く。


「悪いってわかったなら寮に戻れ。鍵あけて開けてやるから。あ、それとも締め出されたから呼びに来たのか?」

「違うし……その……今日のこと謝っといた方がいいと思って」


 ポリポリと頬をかきながら、西野は顔を逸らしながらも横目でこちらを確りと見て、気まずげにそう言った。


「謝る?」


 オレは何か謝られるようなことをされたのだろうか? もしかしてオレが気づいてないだけで、何か悪さをしたのか?


「一体何をやらかした? 自分から謝りにきたんだ、怒らないから白状しろ」

「何をって……朝〝死ね〟って言っちゃったじゃん」

「うん? ああぁー、確かに言われたな」


 ゴミと洗濯物を回収した時のことか。

 でも、お前は普段から言ってるだろ。なのに今更なんでそんなことで謝りにくるんだ?


「親戚が亡くなったばっかりなのに……不謹慎だったって、思ってる」


 なるほど。

 オレが兄さんと義姉さんを亡くしたから、少しは気遣ってくれたわけだ。

 でもな、西野。謝るなら、その前に〝殺す〟って言ったことを謝るべきじゃないか? 忘れてるのか?


「そんなことでいちいち思い詰めたような顔してまで謝罪にくるな。一体何事かと思ったわ」

「怒って……ない?」


 西野はオレに顔を向け直すと、上目遣いで確認してくる。


「アホ、そんな言葉一つで目くじらを立てる大人なんていねぇよ」


 子供の暴言に本気で怒るのは、見た目が大人になっても中身はガキのままの奴だけだ。

 正直に言えば怒りはしなかったものの、多少傷ついたと言うか、思い詰めたといか、胸に引っかかりはしたが、それはその場限りのことだ。

 いつまでもネチネチ引きずれるほど、オレは暇じゃない。

 ――義姉さんのことは別だ。あの人はオレの中の全てにおいて別格の存在だ。


「の割りに今日はずっと浮かない顔で、心ここにあらずって感じだったじゃん」


 それは転職やら結婚、やはり義姉さんのことで色々と考えていただけのことだ。

 断じて西野の言葉に心を揺さぶられていたわけではない。

 だが、こいつは自分の言葉でオレが傷ついたと思って、心配してくれてたわけだ。


「大人にはな、色々あるんだよ。色々」

「色々……ねぇ、もしかしてあの日亡くなった親族ってコーチにとって特別な人?」

「……親族なんだから、少なからず特別だろ」

「そうじゃなくて。好きとか、大切な人とか、そういう感情が有った人なの?」

「…………」


 まさか、西野に悟られるとは思ってなかった。

 東条も薄々何かは感じ取っていたが、それでも〝悩み事〟止まりだったのに、西野は更に一歩踏み込んできた。

 正直、想定外だ。

 気づくなら十中八九、東条だと思っていた。


「やっぱり、そうなんだ」


 驚きのあまり黙ってしまったことが、西野に確信を与えてしまった。

 今更否定したところで、仕方ないか……。


「お前の言う通りだよ。今回死んだのは、オレの兄夫婦で、義姉さんは……初恋の人だ」


 オレがこんなに素直に答えると思っていなかったのか、西野は目を見開いた。


「…………今も好きなの?」

「あの人以上に誰かを好きになることは……ないと思う」


 これからのことはわからないが、オレはもう三〇歳になる。今更身を焦がすような情熱な恋愛はしないだろう。

 恐らくしたとしても事務的で義務的な恋だ。


「……聞いていい? その人のこと」

「どうして聞きたがる?」


 西野には面識も関係もない、赤の他人以上に他人だ。

 そんな人の話しを聞いてどうなる?


「いいじゃん、聞かせてくれたって」

「理由も無く聞きたいのか?」

「…………コーチがどんな人好きになったのか知りたい……じゃ、ダメなわけ?」

「三〇歳のおっさんの恋愛話なんて聞いて、面白いとは思わないがな……」


 知りたいなら話すくらいは構わないか。

 

 ◇


 中学生になったオレは陸上に入部した。

 理由は単純に足が速いと思っていたからだ。

 小学校の頃は六年間、運動会のリレーの選手に選ばれる程度には足が速かった。

 実際、部活の記録会や大会では市内で八位以内に入るのは当たり前で、表彰台に上ったことだって一度や二度じゃない。


 オレが義姉さん――ノンナさんに出会ったのは、中学一年生の夏休みだった。

 兄さんが大学で初めて彼女を作り、そして家族に紹介してくれた日のことだ。


「初めまして暦くん。話しは明智さんに聞いてるわ。足が速いんだってね?」


 初めて顔を合わせたのに、既に知り合いのように、気さくな感じで優しく微笑みかけてくれたことは今でも忘れられない、大切な思い出だ。

 印象的だったのは、どこまで光り輝くようなシルバーブロンドの美しい髪だった。

 顔よりもまずはその日本人ではあり得ない髪に見惚れて――一目惚れをした。

 もちろん、顔もとびっきりの美女で、何もかもがオレを虜にした。


「あはは、そんなに気を使わなくていいのよ」

「ありがとう。暦くんは優しいのね」


 隔週で兄さんはノンナさんを家に招くようになった。

 オレはノンナさんが来る日は部活を休み、甲斐甲斐しく接待をした。

 兄さんの彼女であることはわかっていたけど、もしかしたらいつか別れるかもしれない。その時、恋人の弟というだけの認識よりも、優しい歳の離れた男の子という認識をしてほしかった。

 兄さんには「オレの彼女を寝取る気かっ」と言われたこともあったけど、気にせずノンナさんにアプローチした。


「惜しかったわね、暦くん! でも、タイム的には県大会に出場できるんでしょ? 県大会で負かせばいいのよ!」


 ノンナさんの中で、オレの認識が〝恋人の弟〟なのか、それとも他の何かなのかはわからなかったけど、偶に大会には応援に来てくれるようになった。

 オレは陸上にのめり込んだ。

 ノンナさんが応援してくれるから、見に来てくれるから、カッコいいところを見せたいから、これまで以上に努力してタイムを伸ばしていった。


「私、明智さんと結婚することにしたの。もうお腹に赤ちゃんもいてね……これからは暦くんのお義姉さんよ。何か困ったことがあったら、相談してね」


 オレが中学二年生の夏頃に、兄さんと義姉さんは結婚の挨拶にきた。

 その時には既に兄さんの赤ちゃんを身ごもっていて、恥ずかしそうで幸せそうな微笑みは、彼女がオレに見せてくれたどの笑顔よりも美しかった。

 まさにノンナさんの中で一番幸せな瞬間だったんだろう。

 まだ二十歳になったばかりの学生なのに、将来への不安なんて微塵も感じさせない、幸福な笑み。

 それをさせたのは間違いなく兄さんによるものだ。


「恥ずかしがらずに触ってみて。暦くんはこの子の叔父さんになるのよ」


 会う度に膨らんでいくお腹を、オレは何度か触らせてもらった。

 偶に驚いたようにお腹の中の赤ちゃんが動いて、逆にオレが驚かされた。

 そんなオレの様子をノンナさんは面白そうに笑って――


「明智さんにそっくり。やっぱり兄弟なのね」


――と言った。

 

 悔しかった。兄さんと似ていると言われたのに、選ばれたのはオレじゃないことが。

 オレは兄さんになんか似ていない。

 何もかも兄さんに劣っている劣化コピーの弟でしかない。


「抱いてみて暦くん。娘のレイラよ。ロシアで女の子に人気の名前ね。漢字では〝麗羅〟って書くの」


 生まれたばかりの初めての姪っ子は、肌が赤くて、クチャクチャであまり可愛いとは思わなかった。でも、ノンナさん――義姉さん譲りのシルバーブロンドが既に生えていた。

 きっとこの子も義姉さんと同じように美人になる――そう思った。


 もうわかりきっていたけど、兄さんの赤ちゃんを産んだことで、オレはようやく義姉さんが自分のものにならないことを自覚した。

 それからはより陸上にのめり込み、三年の頃には全国大会に出場できるほどのタイムを叩き出した。

 全国大会には麗羅を含めて、家族三人で応援に来てくれた。

 子供が生まれても、オレのことを気遣ってくれる義姉さんのことを、忘れることはできなかった。

 高校でも陸上は続け、一年の頃からインターハイに出場することができた。

 二年生の頃には次女の有紗が生まれ、オレは更に走った。

 別に将来陸上選手とかになりたかったわけじゃないが、結果的にテレビに取り上げられるようになって、将来を期待される選手になっていた。


「すごいわ暦くん! スポーツニュースに出てたわよ! 義弟が将来の陸上選手なんて、私も鼻が高いわ!」


 違うんだよ、義姉さん。

 オレは全部を置き去りにしたいんだ。

 あなたのこと、兄のこと、そして姪のこと――全てを置き去りにして、どこか遠くに行ってしまいたい。

 だからオレは走り続けた。


「その……なんて言っていいかわからないけど……元気出してね? 人生これで終わったわけじゃないんだから」


 高校三年の頃、オレは膝を故障した。

 無理なトレーニングを続けたせいで、靭帯を損傷してしまったらしい。

 義姉さんはとてもオレを心配してくれた。そのことは嬉しかったけど、結局オレは義姉さんのことを振り払うことができなかった。

 陸上はそこでやめた。

 元々将来でも続けるつもりはなかったから、未練はない。


「成人おめでとう暦くん。これで大人へ一歩仲間入りね! 暦くんが将来どんな大人になるのか、楽しみだわ!」


 まるで自分の子供が成人したみたいに喜んでくれた。

 やめてほしい。もっともっとあなたがオレの中に刻まれる。

 その微笑みが、優しさが、抜けない棘になって胸に突き刺さる。


 ◇


「って、ちょっと話し過ぎたか? こんなこと聞いても面白く……なんだその膨れっ面は」

「別に(すっごい大好きだったてことは嫌ってほど伝わって来た……何これ? あたしの入る隙間なんてあるのっ)」


 なんだ自分で聞いてきたくせに?

 ブツブツ言ってないで感想の一言でも――いや、いい。からかわれるオチしか見えない。


「ほら、話しは終わったんだから、寮に戻って寝ろ」


 オレが話すために座った花壇から腰を浮かせようとした時――


「待って、まだ肝心なこと話してないじゃん!」


――西野は慌ててオレの腕を引っ張って強引にまた座らせた。

 はて? 話してないこと? そりゃ沢山あるが、全部を話そうとしたら一晩じゃとても語れない。


「はぁ、この際だ。なんでも話してやる」

「その言葉忘れないでよ」

「ああ、それで何が聞きたい? 早く帰りたいんだが—―」


 もう三人は寝てしまっただろうか?

 それならそれで明日でもいいが――。


「コーチはその人のことまだ好きなの?」

「…………」


 何を聞いてくるんだ、こいつは。


「好きなの?」

「…………」


 いや、そんなこと言えるはずがないだろ――いや、話す前に一度言ってたような気が……。


「なんでも話すって――」

「ああぁぁ、好きだよ! 好きですよ! 好きですともなにか! 〝一五年前の初恋を引きずるおっさんワロス〟とか言うつもりかっ!」


 なんでも話してやるなんて言うんじゃなかった。

 しらばっくれてもいいが、このことを後々持ち出されて噛みつかれる方が面倒なので早々に諦めて白状した。


「……そんなこと言うわけないじゃん! ずっと一人の女性のこと好きって、凄いことじゃん!(ムカつくほど羨ましいっ)」

「…………そうか……そう言ってくれるか……キモくないか? 女子中学生的に」

「誰かを好きになることをキモいなんて言ってたら、とっくに人類なんて絶滅してるよ」


 それはわからないが――〝粘着中年おっさんがキモい件〟とかSNSに投稿されたりはしないか。


「……なんか話したら、少しスッキリしたな」


 胸に刺さっていた棘が一つ取れたような気分だ。一体あと何本刺さってるかはわからないが。


「……コーチ……泣いてる」

「え? あっ……ホントだ」


 西野に指摘されて、オレは自分の目元に手を当てた。

 そこからはほんのりの暖かい液体が流れ出していた。


「……義姉さんが死んでから、泣いてなかったから」

「泣きたいほどなら泣きゃよかったじゃん」

「大人はそうもいかないんだよ。この歳になると簡単には泣けないんだ」


 逆に歳を取れば母さんのようにギャン泣きもできるようになる。

 でも、この中途半端な年齢だと、外面とかプライドが邪魔して泣きたくても泣けなくなるものだ。


「はぁ、めんどくさ」


 西野は立ち上がるとオレの前に回り込んだ。


「おい、何するつもりだ」

「コーチは黙ってて」

「お、おい」


 西野は両手を広げると何を思ったのか、オレの顔面に胸を押し当てて頭を抱え込むように腕を回してきた。


「誰も見てなきゃいいんじゃない? あたしが隠しておいてあげるから、泣きなよ」

「……お前、これは……」


 犯罪じゃないか?

 三〇歳になるおっさん、女子中学生の胸に顔を押し当てる――いいニュースになりそうだ。


「あたしだけしか知らない。あたしだけしか見てない……だから泣きなよ」

「…………」


 何だこいつ。こんなに優しくできる奴だったのか?

 頭まで撫でやがって、こんなの……こんなの……胸に沁みるだろ。


「……こんな胸でよければさ。好きに使いなって」

「好きに使え……か」


 何か生々しいというか……エロいな。

 そのオレの微妙な雰囲気を感じ取ったのか、西野がハッとした。


「ば、バカ! 別にエロい意味じゃないから! この変態エロコーチ」


 そう言うなら腕を解けばいいと思うが、逆に西野はギュッと抱きしめてきた。

 なんだか泣くまで離してくれそうにない。

 なら、仕方ないか。

 不可抗力だ。オレの意思じゃない。


「胸……借りるぞ」

「いちいち言わなくていいし……んっ」


 オレは西野の背中に腕を回し、まだ成長途中の身体を抱き寄せた。

 そして小さくとも、確かな柔らかさを持つ胸に顔を埋め、そこで義姉さんへの想いの分だけ泣いた。


「よしよし、存分に泣いていいから」


 西野の胸の中は、ほのかに淡いミルクのような香りがする。

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