第10話 膝の上


 やや錆びついた鉄の引き戸を、オレと東条は二人で横に引いた。

 グランドの片隅に設けられた陸上部が使用している倉庫。

 まず目に入るのは高跳び用のマットだ。倉庫内のほとんどのスペースをこいつが占有している。


「相変わらず埃っぽいところですね」

「今は高跳び選手がいないからな。こんなところに連れてきてどうするんだ?」


 倉庫の床は、グランドに白い線を引く、ラインパウダーと埃が積もっていた。

 石灰と埃の混じった匂いは、昔から変わらない独特な匂いを発している。


「そんなに警戒しないでください。仮に私が襲ったところで逆に襲ってしまうでしょう?」

「襲わないからな。やめてくれ、冤罪だ」

「(意気地なし)」

「何か言ったか?」

「いえ、なんでもありません。よっと」


 東条はお尻をマットに向けると、ぴょんっと飛び跳ねて、その上に飛び座った。

 ぽふぅん――と東条の身体が跳ね、白いパウダーと埃が舞った。


「けふけふぉ……酷い所です」

「何がしたいんだ? お前」


 オレは舞い上がった埃を吸わないように、口元で手を振りながら、東条の意味不明な行動に首を傾げた。

 そんなのに座ったら、ジャージが汚れるぞ。


「先生も座ってください」


 東条は自分の隣をパシパシと叩いた。その度にチリ埃が舞う。


「……嫌なんだが」


 絶対に汚れるだろ。

 どうせ今着てる服は洗うが、だからってわざわざ汚そうとは思わない。


「むっ……あたたたっ、暦コーチに殴られた頭が急に」

「殴ってないがっ! ちょっと小突いただけだが、なにか!」


 わざとらしい演技だったが、オレを操るには十分な効果がだった。

 気づけばオレは東条の隣に腰かけていた。


「ふふ、素直じゃないですね」

「……そのネタで脅すのは今だけにしてくれ、ホント」


 間違っても他の子の前ではやめてくれ。何を言われるか、なんと思われるか。

 おっさんの立場では、変な誤解を与えるようなことはしたくない。


「わかりました。では、今だけは使わせてもらいますね」

「ああ、それでいい」


 今だけ我慢していいなりになればいいだけだ。

 倉庫の中って密室で、他の人に見られるわけでもないのだから、楽な条件のはずだ。

 

密室の倉庫で二人っきり――不穏なキーワードだ。


「それでは暦コーチ、ここに頭を乗せてください」

「……悪い、東条。どこに誰の頭を置くんだ?」

「ここには私たちしかいませんよ。私の膝に暦コーチの頭を乗せるんです」


 わかりきったことだったが、万が一勘違いの可能性もあると思い、念のため確認を取ると、東条は自分の膝をポンポンと叩いて〝ここ〟と主張した。


「意味がわからない」


 その目的はなんだ!

 実はカメラとか仕込まれてて、オレの弱みにするつもりかっ。

 慌てて辺りを見渡すが、それらしきものはない。もし隠してるなら見ただけでわかるはずもないが。


「わからない……んですか?」

「ああ、わからない」

「そうですか」

「そうですよ」

「でも、寝てください」

「寝るって言っちゃった!」

「早くしないと明日は全国ニュースで一躍有名人かもしれませんよ?」


 人差し指を立てて、上唇に当てながら、小首を傾げて可愛らしく脅迫された。

 本気には全く感じられないが……オレは東条から距離をとってから、ゆっくりと身体を倒した。

 もちろん、頭が東条の膝に乗るように。


「これでよろしいでしょうか?」

「はいっ。ふふっ、これが私のファースト膝枕です」

「コメントに困るから、変に言うのやめてくれ」

「照れちゃったんですか? 中学生相手に」


 指摘された通り照れている。照れてると言うより恥ずかしいが正しいかもしれない。

 ジャージ越しだと言うのに、東条の温かい体温が後頭部に伝わってきて、花のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 いい匂いだな――なんて口にしたらセクハラだから、口が裂けても言わない。


「今日は記念日になりますね」

「なんのだよ」

「暦コーチ、ファースト膝枕記念」

「やめてくれないか、その命名。具体的でわかりやすい」


 誰かが聞いても誤魔化せねぇ!


「なら、〝初体験〟とか?」

「もっとダメなやつっ!」


 誤魔化せるけどな! でも勘繰られること間違いなしだ!


「ふふ、冗談です(それはいつか別の機会に)」


 おっそろしいことを言いやがる。

 寿命が縮む思いだぞ。

 事実無根で逮捕されるわ。


「因みに先生の初体験はどうだったんですか?」

「こら、そんなこと聞いてどうする」

「気になるじゃないですか。いつか私だって経験するんです。経験者の体験は大事な情報じゃないですか」

「…………」


 経験者……ねぇ……。

 オレは寝返りを打つようにして、自然な感じで東条から顔を背ける。

 そりゃ経験者なら語れるかもしれないが……いや、中学生にそんなセクハラじみたこと言えるはずもないか――。


「えっ……暦コーチ、もしかしてまだ――」

「……何をおっしゃる」

「まだ、なんですね?」


 東条をオレの両頬を手でサンドすると、ゴキっと音が鳴りそうな感じで、首の向きを強引に変えてきた。

 そしてオレの顔をまじまじと覗き込むように顔を近づけている。


「黙秘権を行使する」

「言わないってある意味肯定ですよ?」

「…………」


 黙秘中ですから答えません。

 そんなオレを見て、東条を可笑しそうに――いや、嬉しそうに笑った。


「そうですか。ふふふ、そうなんですか。暦コーチはまだ童貞さん」


 中学生が童貞とか言わないでくれないか?

 仕方がないだろ! 

 義姉さんに出会ってから、他の子に魅力を感じなくなったんだから。

 それまではそこそこいい感じの子がいて、告白すれば付き合えるくらい親しくなったけど、オレは義姉さんに夢中になってしまった。

 兄さんと結婚した後は、諦めて他の誰かを好きになろうとしたけど、何かあれば義姉さんの頭が浮かんで、結局無理だったんだ。


「……悪いか? この歳で経験がなくて……」


 30歳まで童貞なら魔法が使えるようになるんだろ?

 だったらなってやろうじゃねぇかっ! 魔法使い!

 一度だけの人生、性行為よりも魔法使いをオレは選ぶ!

 断じて強がりではない!


「悪くないですよ。身持ちが固いなんて素敵だと思います」

「……さいですか」

「拗ねないでください。本当にそう思っているんですから」


 そう言いながら、東条はオレの頭を撫で始めた。

 まるで母親が我が子を慈しむような愛撫だ。


「東条……何をしているんだ?」

「頭を撫でているですよ。わかりませんか?」

「いや、それはわかってる。オレが言いたいのはどうしてそんなことをしてるんだ?」


 どうしてオレは一回り以上も歳の離れた中学生に頭を撫でられているんだ?


「それはもちろん、私がこうしたいからです」


 そうしたければ撫でるのか? 30手前のおっさんの頭を中学生が?


「――――」

「暦コーチ、疲れてますよね?」

「そりゃ生きてれば疲れもするだろう」

「そうじゃなくて、精神的に……子育てのための転職やけっ――以外にも何か悩んでいるんじゃないですか?」

「……別にそんなことはないぞ」

「ホントですか?」


 本当だ。悩んでいることは他にない。

 ただ、義姉さんが死んでしまったことが辛いだけだ。

 それを悩みと勘違いしているのだろう。


「子供の私には相談できませんか?」

「相談するようなことじゃない」


 子供相手に未練がましく語って、泣きつけってか? そんなの無理だ。

 オレにだって大人としてのプライドがある。


「そうですか……なら、寝てください」

「もう寝てるが?」


 東条の膝の上で。

 未だによくわからん状況で。

 悩みって言ったら、今この状況の方が悩みかもしれない。


「そうではなく、目を閉じて睡眠をとってください」

「どうして?」

「頭が疲れているなら、寝るのが一番です。みんながロードから帰ってくるまで一時間と少しあります。余裕をもって一時間後には起こしますから、それまで寝てください」


 確かに寝れば少しは頭もスッキリするだろうが、問題は――。


「このまま東条の膝の上でか?」

「はい。私の膝の上で」

「それは絶対条件か?」

「はい。絶対条件です」

「そうか……なら、仕方ないな……」


 この一時間半は東条にやると約束だった。

 それは常識の範囲内で言うことを聞くという意味で、この程度のこと――はて? これは常識の範囲内か?

 まぁ、いいか。

 東条の膝の上はこれまで使ったどんな枕よりも寝心地がいい。

 それに東条から香ってくる匂いが、まるでアロマの効果でもあるように気持ちがリラックスしている。アロマなんて使ったことないがな。


「ふふ、そのまま寝てください。私がずっと側にいますから」


 まるで看病してくれる母さんのようだ。

 この優しさが傷ついた心にじんわりと染み渡っていくようだ。


「………………」


 オレは目を瞑る。

 部活の教え子の膝の上で。

 義姉さんの死を少しでも紛らわすために、今はこの子の優しさを利用して、微睡んでいく。


 ◇


「30分は経ちましたね……」


 思いの外、暦コーチはあっさりと私の言うことを聞いてくれました。

 普段のコーチならまずあり得ないことだと思います。それだけ彼が抱えている問題は、複雑なものなのかもしれません。

 子育てのために転職か結婚――残念なことに私は今年で一四歳なので、まだ結婚には4年以上時間が必要です。少し前までなら16歳だったのですが……政府め、余計なことをしてくれました。

 色々理由をつけていましたが、要は選挙のために成人の年齢を引き下げて、結婚の年齢をそれに合わせて引き上げただけですよね?

 自分たちの利権のためか知りませんが、迷惑なことです。

 少子化が進む日本で女性の結婚できる年齢を上げるのは愚策だと思います。


「はぁ……この4年の間に暦コーチが別の女性と結婚しちゃったらどうするんですか?」


 30歳手前でまだ童貞さんらしいので、特定の相手がいないのは間違いないでしょうが、暦コーチは素敵な方です。相手を本気で探せばすぐに見つけてしまうでしょう。

 仮に見つけなかったとして、私の二つ年上の先輩にはあの人がいます。

 とてもじゃないですけど、あの人が何もせずに暦コーチから離れるとは思えません。


「……既成事実を作ってしまった方がいいかもしれませんね」


 幸い今この場にいるのは私とコーチの二人だけ。

 寝ているコーチを襲ってしまえば……いえいえ、それは乙女的にダメです!

 暦コーチから襲ってくれるなら別として、私からなんて……。

 私は首を振って邪念を振り払います。そして静かな寝息を立てるコーチの顔を見下ろすのです。


「でも……何もしないのはもったいないですよね……」


 こんなチャンス次いつくるのかわかりません。

 このままあと30分、何もせずに過ぎてしまうのは、非常にもったいないです。


「何か私だけの秘密でもほしいところです」


 そう呟くと、自然とコーチの唇に視線が集中した。


「……それはさすがに……でも、今なら誰も、見てないですし」


 私の中で一つの葛藤が生まれます。

 それは倫理的にどうなの? と悩みつつの私の身体は勝手に動き始めてしまいました。

 上半身を傾け、前のめりになり、垂れ下がった髪を指ですくって肩に引っかけながら、徐々に暦コーチの顔との距離を詰める。

 まだ覚悟も決めてないのに!

 私、初めてなのに!

 身体が勝手に……!


 そして〝ちゅっ〟――。


 別にそんな音がしたわけではないですが、効果音はまさにそれでしょう。

 私は眠る暦コーチにキスをしてしまいました。

 しかし、それは唇にではありません。

 額です。

 私はなんとか理性を総動員して、寸前のところで軌道を変えることに成功したのです。

 さすがに初めてのキスが意識の無い状況なんて嫌です。

 それはそれでロマンチックかもしれませんけど、私は嫌なのです。


「……今日は何だか熱いですね。皆さん熱中症にならないといいですけど……」


 私は暦コーチから唇を離し、上半身を起こして熱くなった身体に手で扇いだ風を当てる。

 焼石に水ですね。ちっとも涼しくありません。

 ロードに行った皆さんが熱中症にならないことを祈りながら、私はあと30分、コーチに膝枕をしてあげました。

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