気楽

北巻

黒い男

「私のカズ君を取らないでよ」

 目の前で、憤慨している化粧の濃い女のヒステリックな声は、以前テレビで見た敵を威嚇するチンパンジーの叫び声にとても似ていた。彼女が口を開く度に、唾が飛び、そのいくらかが私の顔や服に飛び散った。そんなに大きな声で騒いだら、いくら大学構内の人気のないトイレの中とはいえ、さすがに誰かに気付かれるのではないか、そうなった場合、駆け付けた人にどう説明をすればいいのだろう。はぁ、とため息が出た。かれこれ5分は経とうとしている。まあ、なんとなくだが、このトイレの中で私がケガをすることはない気がする。この女、臆病そうだし、殴ってなんか来ないだろう。それよりも、どうでもいいから早くこの状況から解放されたいという思いで心の中は埋め尽くされ、私は、壁の薄いピンクのタイルをじっと見つめているしかなかった。

「ねえ、なんで人の彼氏にちょっかい出すの。それって最低なことだよね」

「だから、何度も言ってるけど、向こうが一方的に話しかけてきたんだって。あなたの彼氏を奪ってやろうなんて一ミリも思ってないよ」

「だからさぁ、そんなことを言っているんじゃないの」

「ごめん、もう時間だから」

「逃げないでよ」

 彼女は、トイレから出ようとする私の服をつかんで、金属同士が擦れたような、甲高い声を出した。耳が痛くて、思わず顔をしかめる。もうこいつを殴ってしまおうか。段々、イライラしてきた。このまま、あと何分も同じことが続くくらいなら、殴った方がいい気がする。気絶とまではいかなくても、殴られたらある程度はひるんで動揺するだろうし、その隙に無理やり逃げることだってできるはずだ。次、顔に近づいた時に、エルボー食らわせてやる。右腕の筋肉が女子大学生なりに隆起し、力を蓄え、臨戦態勢を整えた。さあ、いつでもこい。


 黒い男が女子トイレに入ってきた。何を言っているのか分からないかもしれないが、そのままの意味だ。黒い男が女子トイレに入ってきた。黒のフルフェイスヘルメットをかぶり、上下黒の服を着ている。背丈や体つきから性別が男であることがなんとなく分かる。あまりの異常な事態に、頭の中が真っ白になった。今まで、キャンバスに描いていた絵が、瞬きをした瞬間に消えてしまったかのような気持ちだ。今、私はどこにいて、何をしているんだ。

「ねえ、あんた調子に乗るのもいい加減にして。どこ見てんの。私は、あんたと話をしてるんだけど」

 黒い男が近づいてくる。

「ねえってば、なんでそっぽ向いてんのよ」

 化粧の濃い女が振り返ろうとした瞬間に、男が素早く腕を動かし、後ろから女の首を絞め、床に女と一緒になって倒れ込んだ。うぐぅ、といった声を出して、初めの内は、女はもがいていた。どうにか、巻き付く腕を離したい、絡みついて、下半身を拘束する足をどかしたい。男は、一言も声を出さずに、ただ黙って女を締め上げている。その様子は、まるで生きていくのに仕方なくといった感じで、億劫そうに獲物をしとめる大蛇の様だ。次第に、女の抵抗は弱くなっていき、最後に一瞬強く暴れた後、全く動かなくなった。

 男は、するりと立ち上がって、操作から解放されたマリオネットのように、だらりとしている女を見つめ、次に私の方に顔を向けた。ヘルメットのせいで、男の顔を見ることはできなかったが、それでも自分を凝視されていることがはっきり分かる。私も締め上げられるのだろうか。そんな思いがよぎった。ゾッとして、全身が粟立ち、これ以上距離を取ることはできないのに、トイレの隅に体を寄せる。しかし、予想に反して、男は気絶した女を担いで、女子トイレから出ていった。


 男が出ていった後には虫の声ひとつ聴こえない。完璧な沈黙が重い霧のようにトイレの床に淀んでいた。私は、緊張の鎖から解放され、ようやくまともに呼吸をすることができた。早く逃げよう。まだ震えている足を無理やり動かして、私は、トイレから離れ、大学を出て、家に帰った。親や大学に、連絡をしようかと思ったがやめた。家に帰ると大分落ち着いたし、どう説明していいのかわからないし、嫌な女がひどい目に遭ってスカッとしたから。それに、あの女は無事で、このようなことは、今後一切ないような気がする。なんとなく。女の勘ってやつだ。私の勘は、信用できる。人生、そうやって切り抜いてきたのだ。だから、今回も大丈夫だろう。彼女は、自宅のソファでアイスを食べながら能天気にそう思った。

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気楽 北巻 @kitamaki

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