第139話 同じベッドの中

(ローガン様の寝室……入るのは初めてね……)


 大きくてふかふかなベッドの上で、アメリアは自分の寝室から持ってきた枕を抱き締めていた。


(お、落ち着きなさい、私……)


 明らかに緊張しているのがわかる。

 精神の乱れを整えるべく、アメリアはローガンの寝室をきょろきょろ見回す。


 ローガンの寝室は、アメリアがこれまでに見たどの部屋よりも広く、内装にも豪華さが際立っていた。

 壁には精緻な装飾が施され、天井からは大きなシャンデリアが輝いている。


 アメリアが座っているベッドも、自分の寝室にあるものよりも三回りほど大きく、ふかふかとしたマットレスが身体を優しく受け止めている。

 しかし一方で調度品や個人の私物といった物は少なく、無駄な物は揃えないというローガンの性格を如実に表しているように見えた。 


「急にすまないな」


 寝巻き姿のローガンが就寝の準備を終え、ベッドに上がってきて言う。


「いえ! 大丈夫です! 今晩はどうぞよろしくお願いいたします」


 正座でピンッと背筋を伸ばし、これから荘厳な儀式でも行われるのかとばかりにアメリアは言う。


「そんな畏まることでもないだろう」


 苦笑を浮かべてから、ローガンは言った。


「じゃあ……寝るか」

「は、はい……お邪魔させていただきます……」

「俺は明かりを落とす。先に入っててくれ」

「わ、わかりました……」


 ぎこちない所作で、ローガンの布団に身を滑り込ませる。

 

 普段、自分が使っているベッドとは違うシーツの肌触り、クッションの弾力。

 枕は自分のものだから感触は同じのはずなのに、それすらも違うように感じる。


 しかし何よりも……。


(ローガン様の、匂いが……!!)


 それが一番、アメリアの心臓をバクバクと高鳴らせていた。

 ローガンがいつも身に纏う甘いシトラス系の匂いが濃く漂っていて、息をするだけで頭がクラクラしてしまう。

 じきに明かりが落とされて、部屋が暗闇に満たされる。

 それからローガンはアメリアの横に身を滑らせた。


「寝心地は大丈夫か?」

「は、はい……とても良い寝加減だと存じます……」

「風呂みたいな表現だな」


 ふっと、小さく笑う気配。


 そのやりとりを最後に、言葉が途切れる。


 自分以外の吐息、時々、衣擦れの音が聞こえてくる。

 肩と肩が触れ合う距離にローガンがいる。


 その事実が、アメリアの目をバチッと冴えさせていた。


(ね、寝れるわけがない……)


 氷に触れているように固まった身体、ドキドキと高鳴る心臓。


 誰かと一緒に寝るなんて、遠い昔に亡くなった母以来のこと。

 それも自分の愛する人となれば 緊張どころの話じゃなかった。


「すまなかった」


 静寂に、ローガンの声が落ちる。


「お互いに想いあっているとわかってからも、寝室を別にしていたことを申し訳なく思っている。本当はもっと早く切り出すべきだったが、タイミングを見失っていた。」

「い、いえ……」


 アメリアは頭を振る。


 気にすることはない。

 このタイミングでも、寝室を一緒にする提案をしてくれて嬉しい。

 

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

 しかし、口に出たのは全く別の言葉だった。


「ローガン様は、やっぱりずるいです……」

「む?」

「先ほどから……私はずっと緊張しているのに、いつも通り余裕があって……」

「そう思うか?」

「えっ?」


 大きな衣擦れの音。

 夜目に慣れてきた目が、こちらを向いたローガンを捉える。


「俺が少しも緊張していないと、本当にそう思うか?」


 どくんっと、ひときわ大きく心臓が跳ねる。


 カーテンの隙間から差し込む月明かりが、ローガンの顔の輪郭をぼんやりと照らしている。

 表情は見えないが、なんとなく、余裕を失っているように感じた。


 唐突に、身体を引き寄せられた。


 自分よりも高い体温が包み込んでくる。

 顔にローガンの寝巻きが触れ、頭の奥まで甘い匂いに満たされて目が回りそうになる。


「苦しくないか?」


 こくこく。

 アメリアは頷く。


「嫌だったら、言ってくれ」


 その声はどこか余裕が無さげで、息遣いも浅い。

 

「嫌なわけ……ないじゃないですか……」


 きゅ……と、アメリアはローガンの寝巻きに触れ、掴んだ。


 すると、ローガンがアメリアの髪を撫でてくれる。

 優しい手つきながらも、いつもと比べて心なしかぎこちないように感じた。


 流石のアメリアでも、わかる。


 自分の存在が、ローガンの心を乱している。

 自覚した途端、なんとも言えない嬉しさが胸に沸き起こった。


 ごそごそと、ローガンの胸にアメリアは身を寄せた。

 まるで、子猫が親に擦り寄るように。


「あったかいです……」


 呟き、目を閉じる。

 とく、とくと、自分のものではない心音が聞こえてきた。


 まるでこのベッドだけしか、世界に存在しないかのような感覚。


 今日、馬車の時に抱いた激情とは全く別の、穏やかな感情が胸を満たす。


(あ……だめ……かも……)


 不意に眠気が到来した。


 今日はお茶会の事もあり大分疲労が溜まっていた。

 それに加え愛する人に抱き締められ、頭を撫でられるという多幸感で、アメリアの意識は急速に遠のいていった。


 気がつくと、アメリアはローガンの胸に抱かれて、規則正しい寝息を立て始めるのだった。


◇◇◇


「……アメリア?」


 月明かりだけが照らすベッド。

 胸の中にいる愛しの人に声をかけるも、返ってくるのは気持ちよさそうな寝息のみ。


(……寝てしまったか)


 そっと、ローガンは息をついた。


(無理もない……)


 今日一日の茶会を思い返す。

 アメリアは一生懸命、ローガンの婚約者として振る舞っていた。


 社交の場の経験がほとんどない中、コリンヌによる数日の指導によってあれほどのクオリティに仕上げたのは、ひとえにアメリアの頑張りの賜物だろう。


 アメリアの活躍はそれだけではない。

 茶葉の読み解きにおいて妹エリンと対峙し、見事勝利を掴み取った。

 加えて、急遽体調を崩したミレーユに適切な処置も行った。


 此度の茶会において、ローガンが期待した以上の動きをアメリアは見せた。

 今日のたった一日だけで、アメリアへの評価はもちろんのこと、へルンベルク家の評判も上昇したことだろう。


 思い返せば思い返すほど、胸の中で寝息を立てるアメリアへの愛しさが溢れ出て……。


 ──私、最近おかしいんです。


 帰りの馬車の中の記憶が呼び起こされる。

 頬を赤く染めたアメリアが、上擦った声で言う。


 ──ローガン様を見ていたり、声を聞いたり、お身体に触れたりしていると……胸のあたりがざわざわして、熱くなって、落ち着かなくなると言いますか……」


「…………っ」


 思わず、ローガンは固く目を閉じた。

 それから、ゆっくりと深呼吸をする。

 自身の奥底から顔を出した感情を、理性で押し留めた。


「これの、どこが余裕だ……」


 小さく、自嘲気味にローガンは呟く。

 きっと部屋が明るければ、余裕を失ったローガンの面持ちが露わになっていただろう。


 添い寝の提案には、ローガンなりの思惑もあった。

 愛し合うもの同士、寝床を共有して何も起こらないなどと思っていない。


 ここ数日、アメリアが抱いていた激情と同じものをローガン自身も自覚していた。


 今まで接吻以上の事をお互いしなかったのは、現状の距離感、触れ合いでも充分幸せで満足だったからという側面が大きい。


 しかし、ローガンだって立派な男性だ。

 性欲がないわけではない。


 今日、馬車の中でローガンははっきりと自覚した。


 ──アメリアが欲しい、と。

 

 そろそろ関係を進めるべきと、ローガンは決めた。

 アメリアとは契約結婚ではなく、お互いに心から愛し合っている。

 

 むしろ手を出さないほうが、アメリアを不安にさせてしまうだろう。

 そんな諸々の思惑を踏まえての、提案だった。


 とはいえ、今晩はアメリアが疲労により先に寝入ってしまったので、何も起こることはなさそうだが。


(焦ることはない、か……)


 この手の事は、自然な流れで起こるべくして起こるものだとローガンは思っている。

 アメリアの心の準備もあるだろうから、こちらから強引にする必要もない。

 

 時が来れば、その際に考えれば良いのだ。

 

 赤く、艶やな髪にそっと指を沿わす。

 へルンベルク家に来た当初はガザガザだった髪も、今や絹糸のように艶やかだ。


 確実に良い方向へ変化している実感を得て、ローガン穏やかな笑みを浮かべた。


 愛し人の額に、ローガンはそっと口付けをする。


 いよいよ自分も本格的に寝る体勢に入ってから、言葉を空気に溶かした。


「おやすみ、アメリア」


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