第102話 これで、良かったよね?

 薬が完成するや否や、アメリアとローガン、そしてウィリアムとライラは馬車に乗り込み急いで出発した。


(お願い、どうか間に合って……)


 馬車に揺られながら、アメリアは祈るように手を合わせる。

 胸の中にはぞわぞわと、嵐前の湿り気のようなものが広がっていた。


 虫の知らせとも言うべきか。そこはかとなく、嫌な予感がしていた。


「……心配するな」


 アメリアの手を、大きくて温かい手が包み込む。


「きっと、大丈夫だ」


 ローガンの励ましに、アメリアの胸がほんの少しだけ軽くなる。


「ありがとうございます……きっと、間に合いますよね……」


 言い聞かせるように言ったものの、胸に広がるぞわぞわは収まらない。

 ライラの家に着く頃には陽はどっぷりと落ちていた。


「パパ!」

「ライラ!」


 玄関でライラの父ルカイドが出迎えてくれる。

 ルカイドの顔は青ざめ、汗ばんでいた。


「ああ良かった! ライラ、ママが……」


 ライラの後ろに控える3人を見て、ルカイドが言葉を切る。


「ライラ、そちらの方達は……?」

「説明は後でするわ! それよりもパパ! ママがどうしたの!?」


 父の様子がおかしいことに、ライラはすぐに気づいたようだった。


「あ、ああっ、大変なんだ……!! ママがついさっき、血を吐いてしまって」

「なんですって……!?」


 急いで皆は二階へと駆け上がり、セラスのいる部屋に足を踏み入れる。


「ごほっ……ごほっ……!!」


 咳き込む声が響く。

 そこには、ベッドの上で苦悶の表情を浮かべるセラスの姿があった。


 口から血がこぼれ、枕が赤に染まっていく

 痣は広がりすぎて、もはや身体中が赤くなっていた。


「ママ……!!」


 ライラはすぐにベッドの隣に駆け寄り、必死に呼びかける。


「ママ!? 大丈夫!? しっかりして……!!」


 目に涙が浮かぶのを必死にこらえ、震える手でセラスの背中をさする。

 一方、ウィリアムはセラスの症状を一目見てハッと息を呑む。


「まずい! 紅死病の末期症状が出ています……!!」


 その言葉に部屋が一瞬で凍りついた。


「ライラ! 早くこれをお母様に飲ませて!」


 アメリアはすぐに薬が入った小瓶を取り出しライラに手渡す。


「わ、わかりました!」


 ライラは受け取った小瓶をセラスに見せながら言う。


「ママ! ほら、薬を持ってきたわ! これを飲んだらすぐに良くなるから……」


 ライラが呼びかけるも、セラスは咳こみ血をこぼし続けていた。


 枕、シーツ、床へと赤が広がっていく。

 それでも最後の力を振り絞るかのように、セラスはしっかりとライラを見た。


「ラ……イラ……」


 苦悶の表情を、優しい母の笑顔に変えて、ライラの手を力強く握る。


「なに、ママ……!?」


 ライラがセラスの耳元に顔を近づける。

 セラスはライラを抱き締めるように身体を寄せ、振り絞るように言葉を紡いだ。


「あい……してる……」


 にこりと、セラスは笑った。

 そして愛情の満ちた言葉を最後に、セラスの全てから、ふっと力が抜けた。


 静かに、あっけなく、小さな身体がベッドに横たわる。

 瞳は閉じられ、薄紅色をした彼女の唇はもう、何も語らない。


 ハッとしたライラが、セラスの胸に耳を当てる。


「心臓の音が……」


 細い声で呟かれた声に、部屋にいる面々は表情を強ばらせた。


「やだっ!! ママ……!! 起きて! 息をして! お願い!」


 ライラは必死にセラスを揺さぶり、声をかけ続けた。

 しかしその呼びかけにセラスが応えることなく、静かなまま。


 静かな微笑みを浮かべ、安らかな眠りについたようだった。


「ああ、そんな……セラス……」


 ルカイドが呆然とした顔で力無く足を折る。

 長年寄り添ってきた妻の最期を受け入れられない、そんな顔をしていた。


 ウィリアムは悲痛そうに眉を顰め、ローガンは唇を噛み締め目を逸らした。


 ──間に合わなかった。


 誰もが最悪の事態を想像した。

 そんな中、アメリアは動けないでいた。


 残酷すぎる結末に絶望し、打ちひしがれているわけではなかった。

 今まさに、命の灯火が消えようとしている母に縋り付くライラ。


 その光景が、10年前、目の前で息を引き取った母ソフィの姿と重なって──。

 

 ──やだ……お母さんっ……起きて……目を覚まして……!


 ばくんっと、アメリアの心臓が跳ねた。


「ライラ、貸して!」


 気がつくと身体が動いていた。

 ライラから小瓶を奪い取り、栓を開ける。


 それからもう一つ、懐から琥珀色の液体が入った小瓶を取り出した。


 ──以前、剣の訓練をこなしたローガンとリオに飲ませた薬だった。


「アメリア様、何を……」

 

 ウィリアムの声も構わず、アメリアは二つの薬を口に含ませ、セラスの口に直接流し込んだ。

 ようは、口移しをした。


「「「!?」」」


 アメリアの行動に、部屋にいた全員が呆気に取られる。

 こく、こく……と、セラスの小さな喉が波打つ。


 しっかりと、二つの薬がセラスの身体に染み渡っていった。

 変化は、すぐに現れた。


「────っ」


 セラスが、びくんと身体を震わせた。


 それから高鳴る心臓を宥めるように胸を抑える。


「けほっ、けほっ……!!」

「ママ!」


 咳の反動で上半身を起こしたセラスを、ライラが抱き留めた。


 完全に生気を失っていた命に、再び光が宿ったようだった。

 変化はそれだけではなかった。


「痣が……」


 驚愕に満ちたウィリアムの声が溢れる。

 まるで潮が沖に引いていくように、セラスの身体からみるみるうちに、痣が消えていった。

 

 それは、アメリアが作った新薬が有効だったことを示す何よりの証拠だった。

 今まで閉じられていた目が、静かに開く。


「ライ、ラ……?」


 もう二度と聞くことのないと思われた声が、響く。

 死者のようだった顔立ちには血色が戻っていた。


 瞳にも、声にも、確かな生命力が宿っている


「ママ……」


 ライラの表情に、安堵が広がっていく。

 それは溢れんばかりの喜びとなってライラを動かした。


「よかっだ……!! ママ……!! 本当に良かった!」


 セラスに抱き着き、ライラは人目も憚らずわあっと泣き始めた。

 セラス自身、一体何が起こったのか理解ができていないようで、目をぱちぱちと瞬かせている。


 しかしすぐ、母の本能を思い起こしたかのように、咽び泣く娘の背中を優しく撫でた。

 瞬間、セラスの目尻に一粒の涙が浮かぶ。


 娘の体温を、匂いを確かに感じ取って、自分は助かったのだと、これからも娘と一緒にいられるのだと自覚したようで。


 ゆっくりと、ライラの肩に顔を埋め、堪えきれないように目を瞑る。

 瞼の間から、幾重もの雫が弾けて光った。


 そんな二人のそばに、ルカイドがやってくる。


 目を赤くしたセラスが、ルカイドを見上げた。


「セラス……」

「あなた……」


 二人の間に、言葉は必要なかった。

 ルカイドもベッドに腰掛け、セラスの身体に腕を回す。


 まるで、セラスの存在を確かめるように。

 抱き合い、家族の生還を喜び合う3人を邪魔しないよう距離をとって、アメリアはほっと胸を撫で下ろす。


 その途端、頭にぽんと温かい感触。


「よく、やったな……」


 その表情には喜びや安堵といったものとは他に、アメリアに対する尊敬の念も浮かんでいた。


「間一髪、でした……」


 あとほんの少し調合が遅かったら、手遅れだったかもしれない。

 そう思うと、手放しで喜ぶ気持ちにはなれなかった。


 しかし結果的に、ライラの母は助かった。

 今はその事実を噛み締めようと、アメリアは思……。


「むぐっ……」


 思考が、突如として口に当てられたハンカチによって遮られる。


「ロ、ローガン様!?」

「血がついていた」


 そう言って、ローガンがハンカチをアメリアに見せる。

 先程、セラスに口移しで薬を飲ませた際についたものだろう。


「あ、ありがとうございます……ふふっ……」

「どうした?」

「いえ……そう言えば、初めてローガン様にお会いした時も、同じようなことがあったなって、思い出してしまいました」


 へルンベルク家にやってきて、ローガンと初顔合わせをした際のこと。

 アメリアが手を滑らせて紅茶を溢した時、ローガンは躊躇なく自分のハンカチで拭いてくれた。


 こういった、ローガンの細やかな心遣いを見るたびに、この方と婚約出来て良かったという思いが湧いてくる。

 しかし一方で、ローガンはどこか微妙そうに顔を顰め小さく呟く。


「……初めてでは、無いんだがな」

「え?」

「なんでもない」


 ローガンが何を呟いたのか聞き取れず、アメリアは首を傾げるのであった。

 二人がそんなやりとりをしている中。


「信じられません……神の奇跡を見ているようですよ……」


 一連の流れを見ていたウィリアムが、もはや笑いしか出ないとばかりに呟く。


「アメリア様、先ほどの薬は……?」


 ウィリアムが尋ねる。

 先ほどアメリアが口に含んだ、琥珀色の薬を指しているのだろう。


「あれは、気付け薬のようなものです。疲労回復、滋養強壮、血の巡りを良くする効能……そして……求心作用。ようは心臓に直接作用して、機能を覚醒させる効能を持っています。お母様の心臓が弱りきり、一刻を争う事態だったので、一か八かで混ぜ合わせました」

「以前、俺に飲ませてくれた薬か。確かにあれを飲んだ日は一日、異様に調子が良かったな……」


 アメリアの説明と、ローガンの補足に、ウィリアムは頷く。


「なるほど。それで……」


 おそらく、その薬が心臓に直接作用し、一度は止まったセラスの心臓を再び動かしたのだろう。

 加えて身体全体の血行が良くなり、アメリアの作った紅死病の薬も迅速に行き渡った。


 それがセラスの奇跡の生還を可能にしたのだと、ウィリアムは考えた。


「妻を救ってくださって、ありがとうございました」


 ルカイドがアメリアのそばにやってきて、深々と頭を下げた。

 これ以上、下げることが出来ないほど深く、深く。


 限りなく尽きせぬ感謝の意がひしひしと感じられる。


「本当に、どれだけの礼をしたらいいか……」

「い、いえ……礼なんて、そんな……」

「アメリア様!」


 涙で目を腫らしたライラがそばにやってきて、同じように勢いよく頭を下げる。


「ママの命を救ってくれて、ありがとうございました!」


 心の底からの、感謝の籠った言葉。


「本当に、本当に……ありがとうっ……ございました……!!」


 溢れんばかりのライラの笑顔を見て。

 かつて、ソフィがアメリアに託した想いが蘇る。


 ──将来、アメリアのことを大事にしてくれる人が現れたら……その時は、たくさん魔法を使ってあげて。


 じん、と頭の奥が痺れるような感覚。

 自分の手で作った薬で、見事生還を果たしたセラス。


 その生還を心から喜ぶライラ。

 

 言葉に出来ないさまざまな感情が、溢れてくる。


「お母さん……」


 掠れた声。


「これで、良かったよね……?」


 その声は、涙に濡れていた。


「アメリア様……?」


 困惑するライラの顔が滲む。


「あ、れ……?」


 目尻に手を当てると、湿った感触が返ってくる。

 じんわりと、瞼の奥が熱を帯びる。


 止めることの出来ない激情が心の芯から湧き上がってきた。

 両手で顔を覆い、アメリアは崩れ落ちた。


「アメリア様……!?」

 

 ライラの悲鳴が弾ける。

 ローガンは慌ててアメリアのそばに屈み込み、尋ねた。


「アメリア、どうした? 大丈夫か?」

「わかりません……わからないんです……!!」


 指の隙間から涙を滲ませながらアメリアは頭を振る。


 自分が何故泣いているのか、アメリア自身よくわかっていなかった。


 ライラのお母さんが助かって良かった、それは紛れもない本心だ。


 一方で、ライラの母親を助けられたことによって、10年前、ソフィを助けられなかったあの絶望が、悔しさが報われたような気がした。


 幼く、無力で、母が冷たくなるのをただ見ることしか出来なかったあの日の自分が救われたような気がして、それが、何よりも嬉しかった。


 自覚した途端、感情の奔流は勢いを増した。


「本当にごめんなさい……ごめんなさい……う……うあ……うううううああ……あうああああああああっ…………!!」


 不意に、身体を温かく、力強い感触が包み込む。


 ただ泣きじゃくるばかりのアメリアを、ローガンはが何も言わずそっと抱き締めた。


 その優しさがアメリアの涙腺をさらに緩ませる。ぽたぽたぽたぽたと床に雫が落ちていく。


 ローガンに抱き締められたまま、アメリアは声をあげて泣き続けた。

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