第95話 ライラの影

 ウィリアムが大学でリードと話している頃。

 屋敷からほど近い町にある実家にライラは帰宅した。


 へルンベルク家の使用人は住み込みで働く者も多いが、家が近い者は帰宅が許されている。


「……ただいま」

 

 ライラもその一人だ。

 ここは彼女の実家であると同時に、家族で営んでいる小さな花屋でもある。


 おかえりと返す者はいない。

 玄関は薄暗く、どこか冷たい空気を纏っていた。


「おお、帰ったか……」


 リビングへと進むと、机にうつ伏せの男がライラを迎えた。

 焦燥した顔、曇った目、疲労によって色褪せた頬。


「ただいま、パパ。って……またこんなに飲んで……」


 父親ルカイドに、ライラは憂慮を含んだ声で言ってから、空になった酒瓶を一つ一つ丁寧に片付ける。

 ここ最近、毎晩のように繰り返される光景。


 そのたびにライラの心は少しずつ痛んでいた。


「すまんな、ライラ」

「気にしないで。でも毎日は身体に悪いから、控えないと……」

 

 ライラの心配する言葉に、ルカイドは何も答えない。

 娘の心配をすんなりと聞き入れる気はないようだった。


 前までは明るく、元気だった父がなぜこうなったのか。

 その理由を痛いほどわかっているライラは、それ以上何も口には出来ない。


「ママの調子は?」

「あまり、よくない……」

「そっか……様子、見てくるね」


 こくりと、ルカイドが頷くのを見てから、ライラは準備に取り掛かる。

 水や濡れタオル、簡単に食べられそうなものを用意してライラは二階に向かう。 


 手元に持った灯火が僅かに揺らぎ、ライラの影がゆらゆらと壁に映る。


「ママ、入るよ」


 ドアのノブをゆっくりと回し扉を開ける。

 部屋の主に対する配慮か、中はぼんやりと灯りに照らされていた。


 部屋の隅にあるベッドには、まだ目を覚ましている女性の姿があった。


「おかえり、ライラ」


 病床に横たわっているのは、ライラの母セラス。

 かつて「お店で一番綺麗な花」と評判だったセラスの姿は、もはや見る影もなかった。


 やせ細った体躯、生気の薄い顔。

 頬は痩せこけ、目の下にはくっきりと浮かび上がる隈があった。


 セラスの顔や露出した肌からは、赤い痣が覗いている。

 それが、セラスの抱える病の証だった。


「ごほっ……ごほっ……」


 娘の帰宅を喜んだセラスが起きあがろうとするも、すぐに苦しそうに咳き込む。


「ママ!」


 ライラはその場にお盆を置いて、慌ててセラスの元へ駆け寄る。


 セラスの傍に身を寄せ、小さな背中を撫でる。

 掌から頼りない感触が伝わってきて、思わずライラの表情が強張った。


「ママ、大丈夫? ほら、お水持ってきたから、ゆっくり飲んで……」


 ライラは水を取ってきて、水を優しくセラスの口元に運んだ。

 すっかり弱ってしまった母を見ると、前までの楽しかった日々が、まるで長い昔のように思えてくる。


「ありがとう、ライラ……」


 呟き声が静かすぎて、まるで風に飛ばされそうなほどだった。

 セラスの手が探るようにそっと伸び、ライラの手を取る


 握られた手は、今にも消えてしまいそうなほど弱々しい。

 つい一ヶ月前まで、ライラの家は貧しいながらも幸せな家庭を築いていた。


 両親が営む花屋はこの辺りではそこそこ繁盛していて、地元民を中心にお客さんも多かった。

 しかし、王都で流行っていた病がこの町にも広がり始め、つい二週間前にセラスが倒れた。


 すぐに医者にかかったものの、現状だと有効な薬がなく、自然治癒に任せるしかないと家に帰された。

 こうして、セラスは病床での生活を余儀なくされる。


 最初はルカイドが前に立ってなんとかお店を切り盛りしていた。


 しかし、最愛の妻が日に日に衰弱していくにつれてルカイドも精神的に弱ってしまい、酒に頼らざるを得ない状況になった。


 最近はお店も閉め続けてしまっていて、ライラの少ない給金でやりくりしているのが現状であった。


「ごめんね、ライラ……苦労かけて」

「大丈夫よ、ママ。気にしないで」


 安心させるように、ライラが笑顔を浮かべる。

 どんなに辛くても、母親を心配させまいと笑顔を忘れない。


 それが今のライラにできる支えだった。

 逆に言うと、そのくらいしか出来ることがなかった。


 回復を信じてただただ看病をすることしか出来ない口惜しさが、ライラの身に裂くような痛みを生み出している。


「ライラ……」

「なあに、ママ」


 セラスの声は今にも消えそうなほど小さい。

 それでも、彼女の視線はライラに向けられていた。


 光の薄い瞳は焦燥が混ざっていたが、何よりも愛情が溢れている。


「もし私が……いなくなっても……お願いだから、自分の幸せを探しなさいね……」


 その言葉が耳に響いた瞬間、ライラの心が激しく揺さぶられた。

 母の胸中を否応なく感じ取ったライラは、全身から力が抜け落ちそうになる。


「そんな、弱気にならないで!」


 受け入れ難い現実を否定するようにライラが声を上げる。

 思わず、ライラはセラスの両肩に手を添え、言った。


「きっと、大丈夫。大丈夫だから、私が……」


 ライラの唇が、きゅっと結ばれる。


「私が、なんとかするから……」


 その言葉は、確かな力を伴って部屋に響いた。

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