第94話 リード

 トルーア王国の知の集合体と称され、たくさんの学生たちでごった返すカイド大学のキャンパスも、深夜になれば閑散とする。


 まだ校舎に光を灯しているのは、外飲みと銘打って校舎で晩酌をする遊び人の生徒か、日夜研究に明け暮れる教授くらいだろう。


「ダメですね……」


 校舎のとある一室。

 日夜研究に明け暮れる教授の一人、ウィリアムの独り言が落ちる。


 ウィリアムは、へルンベルク家を訪問した際に着用していた他所行き用の服ではなく、ところどころ土汚れのついた白衣を纏っていた。


「イグリミの花びらとだと、代替としては効果が薄すぎる……他に何か……」


 そう言って、ウィリアムはペラペラと分厚い本を捲った。

 研究室は、植物を愛するウィリアムによって創造された混沌とした空間だった。

 

 壁一面には様々な乾燥植物が美しく展示され、木製の棚には重厚な書類の山や多種多様な薬草、粉末にされた薬が整然と並べられている。


 ウィリアムが座る大きなテーブルの上には、手書きのメモや研究ノート、何冊もの本が乱雑に散らばり、その間からは色とりどりの薬瓶が見え隠れしていた。


 長きにわたる研究によって床は草木の葉や茎で散らかり薬草の香りが充満している。

 しかしそれは言い換えると、新たな可能性を追求するウィリアムの情熱ともいえる香りであった。


「ようウィリアム。今日も朝まで研究か?」


 今日も今日とて研究に励むウィリアムに声がかけられる。

 自分の世界に入り込んでいたウィリアムは、その声に反応するのに少しの間を要した。 


「ノックくらいしたらどうですか、リード」

 

 ため息をつき、椅子ごと声の主に身体を向ける。

 ウィリアムの視線の先には、自分より一回りほど年上の男性が腕を組んで立っていた。


 男性──リードは、日頃引きこもって線の細いウィリアムとは違いたくましい体躯をしていて、盛り上がった筋肉のラインが白衣からも伺える。


 青みがかかった髪は短く髭を濃く生やし、目元は笑いを帯びていた。

 研究者にありがちな陰気さは皆無で、むしろ明るい太陽のような雰囲気を持っている。


「したさ、前に言われた通りきっかり三回な」


 リードが言うと、ウィリアムはバツの悪そうな顔をして言った。


「次からは斧でノックをすることを推奨します」

「しねーよ! ただでさえ研究費を削減されてるんだ、これ以上部屋をボロボロにするわけにはいかんだろう」

「お気になさらず。雨風さえ凌ぐことができれば、研究は行えるので」

「お前は良いかもしれんけどよ……」


 苦笑を漏らすリードは言う。


「まあとにかく、のめり込むのは自由だが、無理はしないようにな。優しい同僚からのありがたい忠告だ」

「こんな時間まで校舎に残っている貴方も、人のことは言えないでしょう」


 二人の声色に気遣いや緊張といったものはない。

 軽口を叩き合う二人の間にはそれなりに付き合いが長いのとは別に、同じ学問の道を歩むもの同士、ある種の信頼関係が窺えた。


「それで、用件はなんですか?」


 その辺に転がっていた椅子をギギギッと持ってきて座るリードに、ウィリアムが尋ねる。


「用が無いのに来ちゃいけないのか?」

「私は忙しいので、これで」

「待て待て待て待て冗談だ! 昼間のことが気になって聞きに来たんだよ。ほら、学長伝で貴族から家庭教師を頼まれて出向くと言ってただろう?」

「ああ、その件ですか」


 リードの言葉でウィリアムは察しをつけたようだった。


「へルンベルク家への訪問の件ですね」

「へルンベルク家だって!?」


 ウィリアムの言葉に、リードがギョッと声を上げた。


「そんなに驚くことですか?」

「だってお前、へルンベルク家って……あの暴虐公爵の……」

「暴虐公爵?」


 リードの言葉にウィリアムは眉を顰める。


「なんですか、その物騒な呼び名は」

「いや、へルンベルク家の当主ローガンは傍若無人で気が短く、すぐに令嬢に手を上げる暴君だそうだぞ」

「…………? 誰のことを言ってるんですか?」


 ますます、訳のわからないと言った表情を浮かべるウィリアム。


「私が今日接した限り、ローガン様はとても丁寧で物腰の柔らかい方でしたが……」

「いや、俺も実際に会ったことはなくて、他の貴族から噂で聞いただけだが……ウィリアムの話を聞く感じ、出鱈目な噂だったかもしれないな」

「別人では無い限りは、そうですね」

「それで、ローガン公爵はどうだった? 優秀だったか?」

「あ、いや……私が家庭教師をするのは、ローガン様ではなく、婚約者のアメリア様の方ですね」

「アメリア様だって……!?」


 ギョギョギョッと、リードが再び顔を驚愕に染めた。


「なんでまた、そんなに驚いてるんですか?」

「だってお前、アメリア様って、あの醜穢令嬢だろう……?」

「しゅうわ……なんと言いました?」

「醜い、穢らわしい、と繋げて醜穢だ」

「なんですか、その不名誉な呼び名は」


 リードの言葉に、ウィリアムは再び眉を顰める。


「これも知らないのか?」

「貴族社会には興味が無さ過ぎて。相変わらず、貴族事情に詳しいですね」

「こう見えても一応、子爵持ちだからな」


 腰に手を当て胸を張り、リードは得意げに鼻を鳴らした。

 一口に教授と言っても出自は様々だ。


 ウィリアムは平民の出から実績で学位を勝ち取ったが、リードは代々子爵貴族の出で幼稚舎からエリート街道をひた走ってきている。


 それなりに社交界に顔も出しているため、その辺りの事情に詳しいのだろう。


「って、そんなことはどうでもいい。へルンベルク家の婚約者のアメリア様は確か、ハグル家の長女だ。『醜穢令嬢』『傍若無人の人でなし』『ハグル家の疫病神』と……散々な言われようだぞ。彼女も社交界にはデビュタント以降、ほとんど顔を出してないようで、俺も会ったことないんだがな」

「それこそ荒唐無稽な噂ですね」


 ウィリアムが断言する。

 その声は微かに怒りを含んでいた。


「少なくともアメリア様は、醜くも穢れてもいない、とても美しい令嬢でしたよ」

「別人か……それとも、誰かが意図的に虚偽の情報を流したか……」


 ローガンの件と言い、アメリアの件と言い、噂と実情のズレにリードは眉を顰めた。

 貴族社会でこの手の荒唐無稽な噂が出回るのは珍しくない。


一部の貴族たちが自分たちの地位や名声を守るため、または他の貴族を出し抜くために情報戦を繰り広げているからだ。


 噂やスキャンダルはその一部で、事実を脚色したり時には完全な虚偽を流布することで他の貴族の評判を落とし、自分たちの地位を確保しようとする。


 結果として真偽不明な情報が飛び交い、誤解や偏見が生まれることも多々あるのだ。


 ……まさかローガンの噂については、本人が結婚したく無い願望から自ら流した噂で、アメリアの噂についてはハグル家党首が己の汚名を払拭するかつ、妹エリンの名声を上げるために流したものだと、二人が知る由もない。


 なんにせよ学者らしく、自分の目で見たものを真として受け止めるウィリアムにとって、リードが口にしたアメリアの噂は気に留める価値もないものであった。


 ウィリアムが言葉を続ける。


「それに、疫病神という表現も不適切ですね。彼女は、とても優秀な令嬢ですよ。しっかり勉強を続けたら、業界に新しい風を吹き込むかもしれません」

「ほう……」


 リードが顎に手を添えて言う。


「珍しいな、ウィリアムが人を高く評価するなんて」

「事実ですので。正直な話、今回は学長きっての頼みだったので赴きましたが、今日の顔合わせで時間を費やすに値しないと判断したら、家庭教師の件は辞退する予定でした」

「まあお前も多忙だからな。最年少で学位を取った天才様よ」

「その呼び名は好きじゃないと何度も言ったはずですが」

「ああ、悪い悪い」


 ロードがぷらぷらと手を振る。

 全く反省していない様子だ。


「とにかく、お前が時間を費やすべきだと判断した……ということは、相当な逸材なんだろう」

「ええ、それは保証します。ただ……」

「ただ?」


 ウィリアムが眉を顰める

 頭に、昼間アメリアと顔合わせした時の記憶を映す。


 ──ゆくゆくはこういった薬の開発に関わりたい、という意志はアメリア様にございますか?

 ──植物を調合して薬を作るのは前々からやっていますし、好きなことなので……あと、やっぱり人の役に立ちたいという思いが強いので……。


 アメリアの、人の役に立ちたいという純粋な言葉。

 それに嘘は無いのだろうと思う一方、ある種の危うさのようなものも感じる。


「いや……なんでもないです」


 とはいえ、現段階では言語化にするほどもない違和感だとウィリアムは判断した。


「なんにせよ、アメリア様の能力や知識に関してはまだ完全に把握したわけではないので、今後どうなるか、というところですね」

「なるほどなあ」


 関心したようにリードが頷く。


「ひとまず、もう少し紅死の研究をしたあと、アメリア様専用のテスト問題集作りをする予定です。その結果次第でどのレベル感の教材で勉強するのか、それからどのようなカリキュラムで進めていくのか考えないとですね。ああ、そういえば報酬面いついても考えてくれと言われてました……まあこれはどうでもいいとして、やることが満載ですね……」


 顎に手を添え早口で言うウィリアムに、リードが小さく吹き出す。


「なんですか」

「いんや、楽しそうで何よりだと思っただけだ」

「楽しそう?」


 不思議そうにウィリアムは目を丸める。


「そんな顔、してました?」

「ああ。ここ最近、紅死病の新薬開発の件で煮詰まって、ずっと顰めっ面をしていただろう? だからある意味、今回の話は良いリフレッシュになるんじゃないか?」

「そうかも、しれませんね」


 言葉を落とし、ウィリアムは考える。


(とはいえ、アメリア様はまだ17歳……それに、学び方も独学でセオリーに沿っていないので、過度な期待は禁物ですね)


 それは、今までのアメリアの経緯を考慮すると当たり前の判断だった。


(まずは基礎的な部分で抜けている部分から、学んでもらうとしましょう)


 呑気に考えるウィリアムは知らなかった。

 アメリアという少女が持つ、植物に対する異常な愛情、積み重ねてきた知識の量。


 そして何よりも、天性の才としか思えない能力をアメリアが持っていることに。

 明日、ウィリアムのアメリアに対する印象は見事に覆されることになる。

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