第93話 お母さん
「アメ……様……リア様……」
声が聞こえる。
「アメリア様!」
強く自分を呼ぶ声で、闇底に落ちていた意識が覚醒する。
「お母さん……!!」
喉から声が飛び出した。
がばっと起き上がって辺りを見回す。不明瞭だった視界が開けてくる。
広く、清潔感もある、明るい部屋。
へルンベルク家に嫁いでから毎日のようにお世話になっている自室だ。
隣を見ると、驚いたように目を丸めるシルフィの姿。
「シルフィ……」
「えっと……お母さんじゃなくて申し訳ございません」
「あっ、いやっ、ちがっ……えっと、これは……」
「お気になさらず。私は何も聞いてませんので」
妙な気遣いと共に淡々と言葉を返すシルフィ。
そのいつも通りさに、アメリアの胸がほっと安堵の音を立てた。
窓を見ると、もうすっかり暗くなっている。
(うう……何やってるのよ私っ……)
一方のアメリアは、顔を真っ赤にしていた。
夜まで眠りこけていた理由はありありと思い出すことができる。
昼下がり、ウィリアムとの顔合わせを終えた後、ローガンに抱き締められて、頭を撫でられた。
その結果、見事にアメリアは眠りの世界に落ちてしまった。
そこから寝室までどう移動したのかはわからない。
(……ローガン様がここまで運んでくれたとしたらどうしよう……顔向けできない……)
寝不足も相まっていたとはいえ、なんという体たらく。
それに加え、寝起きからソフィをお母さん呼ばわりするという失態。
自分のポンコツっぷりに、今すぐ床に穴を掘って入りたい気持ちに……。
(……お母さん?)
頭の中できらりと、何かが光る。
「そんなことよりもアメリア様、大丈夫ですか?」
心配げに、シルフィが顔を覗き込んでくる。
「なにやら、随分とうなされていたようですが……」
「うなされ……」
ここでようやく、アメリアは自分が汗ぐっしょりで、呼吸も浅いことに気づいた。
同時に、寝ている間に見た夢の内容が頭の中に流れ込んでくる。
夕暮れ、離れの庭。
膝を怪我した自分。
怪我を治してくれた母。
雪が降る寒い日。
ベッドの上に横たわる母。
泣き叫ぶ幼い自分の姿。
痩せこけた肌、生気のない母の顔、涙、薬、力無く落ちていく骨のような手。
思い出すには重すぎる記憶の数々がフラッシュバックして、ずきんと頭に痛みが走る。
「アメリア様!?」
頭を抑えたアメリアにシルフィは声を上げる。
「ごめん、心配かけて……でも大丈夫……」
一度大きく深呼吸して、バクバクとうるさい鼓動を落ち着かせる。
表情に影を落とすアメリアにシルフィが尋ねる。
「怖い夢でも、見たのですか?」
「怖い夢……じゃないわね」
大抵、夢はすぐに忘れるものの、今回見た夢は鮮明に思い起こすことができた。
それだけ、アメリアの記憶に深く刻まれた光景だったということは間違いない。
「どちらかというと、かなし……いえ……」
首を振り、目を優しく細めて、アメリアは言葉を落とす。
「懐かしい夢を、見ていたわ」
もう十年も前、母ソフィが病に倒れた。
ソフィが罹った病は、治療薬を飲まない限り死に至ってしまう恐ろしいもの。
元々身体が丈夫な方ではなかった母は、みるみるうちに衰弱していった。
──お願い! お母さんを助けて……!!
アメリアは必死に、父や義母に治療を訴えたが。
──フン! くだらん、そんなことに我が家の大事な金を使うわけないだろう!
──治療にも薬も馬鹿にならないお金がかかるの! 穀潰しのお前たちに買い与えるなんて、本気で思っているの!?
後からわかったが、この病気を治療するには決して少なくないお金が必要だった。
とはいえ、貴族からするとさほど痛手ではなく、自分の大切な家族を治すとなると躊躇なく出していただろう。
しかしソフィは、ハグル家の当主セドリックからしても、その妻リーチェからしても厄介者の平民でしかない。
結果として、ソフィに十分な治療が行われることはなかった。
アメリアは必死で色々な薬をソフィに飲ませたが、徒労に終わる。
結局、アメリアに見守られながらソフィは息を引き取った。
これも後からわかったが、その病を治す薬は、離れの庭で採取できる植物では再現のできないものだった。
あの時の悔しさが、無力感が、アメリアを突き動かし、今の膨大な知識を修得するに至ったのはまた別の話である。
「…………」
どこか寂寥めいた表情をするアメリアに、シルフィは気遣うように言葉を口にする。
「かなり遅めにはなってしまいましたが、お夕食はどうされますか? 食欲がないようでしたら、無理に食べなくても……」
「ねえ、シルフィ」
アメリアが、尋ねた。
「お母さんって、どんな人?」
文脈とはなんら関係のない急な質問に、シルフィは目を瞬かせる。
「母親ですか、そうですね……」
顎に人差し指を添えて、天井を見上げてからシルフィは答える。
「とりあえず、何を考えているのかわからない人ですね。表情があまり変わらない、感情の起伏が少なめで、淡々としているといいますか」
「そ、それは……シルフィのお母さんらしいわね」
母親の特性をしっかりと、シルフィは受け継いでいるようだ。
「でも……母はとても、優しい人です」
口元をほんのり緩めて、シルフィは言う。
「私の家は母子家庭で姉妹が多く、それほど裕福な家庭ではなかったのですが、家に食べ物が少ない時でも、母は工夫して料理をしてくれました。パンくずと野菜だけでも、母の手にかかれば美味しいスープに変わるんです」
普段は言葉少ななシルフィが、すらすらと母親について語っている。
その声には、春のひだまりのように温かな感情が込められていた。
「あと寒い冬の日には、遠くまで薪を取りにいってくれたり、自分の身体を私たちに寄せて温めてくれました。それから学校に行けない私たちに、毎晩、字の書き方や計算なども教えてくれて……そのお陰で、今の仕事に就くことができました」
母のことを楽しげに話すシルフィを見ていると、アメリアも微笑ましい気持ちになってくる。
「お母さんのこと、好きなのね」
「ええ、もちろん」
淀みない表情で、シルフィは言葉を紡ぐ。
「大好きですよ」
声が、蘇る。
──愛してるわ、アメリア……。
病床に臥しながらも、ソフィが最期に見せた優しい笑顔が蘇る。
「…………そっ、か」
気のせいだろうか。
自分の声が、どこか湿り気を帯びているのは……。
「ア、アメリア様っ!? どうしたのですか?」
「えっ……」
シルフィのギョッとした声で、気づいた。
頬に指を添えると、湿った感触。
目尻から、涙が溢れ出ていた。
「あっ、えっと、これは……」
取り繕うように言うと余計に涙が溢れてくる。
動揺した顔でシルフィが尋ねてきた。
「本当に大丈夫なんですか、アメリア様? 様子が変ですよ、私のことをお母さんと呼んだり、私の母について尋ねたり……」
「ううん、なんでもない、なんでもないの……」
ぐしぐしと、頬を伝う涙を腕で拭う。
なぜ、このタイミングであの日の夢を見たのか。
なんとなく、わかった気がした。
──将来、アメリアのことを大事にしてくれる人が現れたら……その時は、たくさん魔法を使ってあげて。
いつかの日に、母が自分に託した言葉。
──母が病気を患って、なんとか治せないものかとたくさん勉強して、色々試したんですけど、ダメで……それが悔しくて……もう二度とあんな思いをしたくない、そう思って、もっとたくさんの知識を、って勉強したんですよね……。
つい先ほど、ウィリアムとの顔合わせを終えてローガンに話したこと。
きっとそれらが、過去の自分の思いと繋がり夢となって現れたのだろう。
(あの日の私のように……大切な人を失って悲しむ人を、少しでも……)
それが、アメリアの決意だったのだ。
いつの間にか、涙は引いていた。
「シルフィ」
珍しく動揺した様子のシルフィに、アメリアは迷いのない語気で言う。
「私、頑張るから」
その表情は、嵐が過ぎ去った後の空のように晴れやかだった。
一方、何が何やら釈然としない様子のシルフィだったが。
「アメリア様は十分、頑張っておられますよ……」
それだけは間違いないとばかりに、力強く頷いた。
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