第82話 月明かりの下で

 深夜の静寂が広がる庭園で、月明かりに照らされた花々が揺れている。

 そんな庭園の一角に開けた場所があった。


 のんびりティータイムを楽しんだり、ちょっと一休みするために作られた、ベンチとテーブルのみのシンプルなスペース。

 

 そこは、夜になると星空を眺めることができる特別な場所に変貌する。

 今宵、ローガンはベンチに腰掛けぼんやりと夜闇を眺めていた。


 いつもと同じく口元は固く閉じられているものの、端正な顔立ちはどこか浮かない様子。

 夕食を済ませた後、ローガンはかれこれ三十分もの間こうしていた。


 そんな一人の時間は不意に終わりを告げる。


「ローガン様」


 振り向くと、寝巻きにストールを巻いた少女が一人。


「……アメリアか」

「シルフィから、こちらにいらっしゃるとお聞きしまして」


 トコトコとローガンのそばにやってきて、アメリアは尋ねる。


「お隣、よろしいでしょうか?」

「ああ」


 ぺこりとアメリアは頭を下げて、ローガンの隣に腰を下ろした。

 それから夜空を見上げて、「わあ……」と感嘆の声を漏らす。


「夜だと、こんなに綺麗な星空が見えるんですね」

「ちょうど今日は晴れているからな。いつもよりよく見える」

「ふふっ、幸運でしたね」


 笑みを溢し、ローガンの方を見るアメリア。


「でも、珍しいですね」

「何がだ?」

「ローガン様、屋敷ではずっとお仕事をしている印象だったので、こうしてぼんやり空を眺めているお姿は、なかなかに貴重だなと」

「考えをまとめたい時や……少し、心を落ち着かせたい時には、空を眺めていたくなる」

「……なるほど」


 アメリアが何かを察したような顔をする。

 ローガンが感傷に浸っているのは、きっと兄との会合が原因だろう予想はついていた。

 

 しかしそれ以上は深掘りせず、アメリアは再び夜空を見上げる。

 ほどなくして、ローガンが口を開く。


「何も、聞かないんだな」

「無理に聞くような事ではないので。ただ、落ち込んでいるかもしれないと思い、そばにいたいと思いました」

「……そうか」

 

 アメリアから顔を背け、ローガンは溢す。


「優しいな、アメリアは」

「ローガン様ほどではないですよ」

 

 ふふっと、アメリアは柔らかく微笑んだ。

 それからしばらくの間、二人はぼんやりと星空を眺める。

 

 冬の近い夜空は空気が澄んでいて、じっと見ていると眩しいほどの星々が広がっている。


「アメリア」

「はい」

「俺は、お前を守れているか?」

 

 何の前触れもなく、ローガンが言葉を落とした。

 アメリアはきょとんとした後、ふふっと口元を緩ませて言う。


「これ以上、どこを守っていただきたいと言うのですか?」

 

 それは、本心から湧き出した言葉だった。


「私は、もう充分、ローガン様に守っていただいています。むしろ、私が何も返せていないのが申し訳ないくらい……」

「……そうか」


 ほんの少しだけ、ローガンは瞳に安堵を浮かばせる。


「それなら、いい」


 言うと、ローガンの手の甲に、そっと温もりが触れる。

 アメリアが、小さな手を重ねていた。


「何があったのかは存じませんが、私は、ローガン様の味方ですので……落ち込んでいる時や、思い悩んでいるときは、遠慮なく私を頼ってくださいね」


 慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、アメリアは言う。

 ローガンの瞳が、微かに見開かれる。


「と言っても、私が頼りになるかはわかりませんが……ひゃっ……」


 ちょっぴり自嘲めいた言葉を、ローガンがアメリアの手を握り返した事で塞いだ。

 自分の手よりも大きな感触に、アメリアの心臓がどきんと跳ねる。


 頬の温度がぶわっと上昇する。


「充分、頼りになっている」


 ぎゅ……とローガンの手に力が籠る。

 それがローガンからの信頼のように感じられて、アメリアは照れ混じりの笑みを溢した。


 二人手を繋いでほどなくして、アメリアの背筋がぶるっと震える。

 冬が近い夜ということもあって、単純に気温が低い。


 加えて、ローガンに握られている手が温かい分、それ以外の寒さが際立ってしまった。


(ストールを着てきたけど、流石に夜は冷えるわね……)


 徐々に背中が丸まってきた時、手からローガンの感触が離れた。

 それから、身体をふわっと温もりが包み込んだ。


 ローガンが自分のジャケットを脱いでアメリアの肩に被せたのだ。


「寒いだろう。これを着るといい」

「で、でも、ローガン様が……」

「俺は何枚か着ている。だから、大丈夫だ」

「あ、ありがとうございます……」


 温かい、さすが公爵貴族の身につける衣服とあってか、防寒機能はばっちりだ。

 それに先程までローガンが身につけていたのもあって、ほんのり温もりが残っている。


 その事実が妙に気恥ずかしくて、アメリアの脈をさらに速くした。

 ふと、星屑のキャンパスに一筋の光が横切る。


「あっ、流れ星」

「願い事を三回言わないとな」

「は、速すぎて難しいですよ。それに……」


 少しだけ照れ臭そうに、アメリアは言う。


「私の願いはもう、ほとんど叶っているので」


 そう、充分に叶っている。

 へルンベルク家空に来てからは、誰からも虐げられることもなくなった。


 三食ちゃんと食べられるようになった。

 たくさん眠ることも出来ているし、日々を生きる目的も与えられた。


(そして何よりも、大好きなローガン様と一緒にいられる……)

 

 それだけで、充分幸せだった。


(これ以上を望むなんて、神様からばちが当たっちゃう……)

 

 そう思っていたのに。


「本当か?」

「えっ?」

 

 甘くて、落ち着きのある香りがふわりと漂ってくる。

 不意に、ローガンの顔が近くに迫った。

 

 彫刻細工のように整った顔立ちが、月夜に照らされ一層引き立っている。

 

 まっすぐ通った鼻筋、深くて澄んだ双眸はまるで星空のように輝いている。

 くっきりと描かれた眉毛は、どこか真剣な眼差しを強調していた。


「もっとわがままを言っても、いいんだぞ?」


 ローガンの息遣いが、彼女の頬に触れる。

 それはサテンのように滑らかで、くすぐったくも心地良くもあった。


 耳元で囁かれる声に混じって、自分の鼓動がどくどくと聞こえる。


「わが、まま……」


 低い声で奏でられたその言葉は、悪魔のような甘い誘惑を孕んでいた。

 気を抜くと、欲求のままどこまでも身を委ねてしまいそうで……。


「私、は……ローガン様と……」


 理性ではなく感情が言葉を口にしようとした瞬間、すっとローガンの顔が離れた。

 ローガンは立ち上がって、ぽつりと言う。


「すまない急に、驚かせてしまったな」

「い、いえ……」


 今が夜でよかったと心から思う。

 明るいところだったら、茹蛸みたいになった顔を見られていただろうから。


「そろそろ屋敷に戻ろう。夜をふかし過ぎるのも、よくないからな」

「ひゃ、ひゃい……そうですね……」


 ローガンの言葉に従って、アメリアも立ち上がる。

 胸中に渦巻くのは名残惜しさと、安堵。


 その両方の気持ちが同居した不思議な気持ち。

 心臓のドキドキが、ローガンによって大きく感情を乱されたことの何よりも証拠であった。


「手を」


 差し出された手を、アメリアが無言で取る。

 すると、ローガンが僅かに目を見開いた。


「温かいな」

「そ、そうでしょうか? 多分……上着を貸していただいたおかげですね」


 誤魔化すような笑みを浮かべているのは、本当の理由は別にあるとわかっているからだ。

 ローガンの急接近に、ローガンの言葉に、身体中が熱くなったから。


 なんて、口が裂けても言えない。

 手を繋いで屋敷に戻っていく二人を、星空が静かに見下ろしている。

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