第52話 逆らえない人

 アメリアの中で、メリサという人物は“自分に危害を加えてくる、逆らうことのできない侍女”だった。


 今はもう見る影もないが、物心ついた頃にはメリサもまだ二十代もそこらでシュッとしていて、女好きのセドリックが選んだ侍女ということもあり、幼心ながらに『綺麗な人だなあ』なんて思っていた記憶がある。


 しかし程なくして、メリサに対する前向きな気持ちは無くなった。


 今もまだ強烈に残っている記憶。

 多分、まだ三歳とかの時だろうか。


 母ソフィが目を離した隙に、私はメリサに太もも思い切りつねられた。

 

 未だ与えられたことのない痛みに、私は泣き声をあげる。

 思えば、人間が最も避けたい感覚である“痛み”を人生で初めて植え付けてきたのはメリサだったかもしれない。

 

『ちょっとソフィ、なんとかしてよ。いきなりこの子、泣き出しちゃったんだけど』


 メリサが悪びれなく迷惑そうに言うと、心配した様子のソフィが尋ねてくる。


『アメリア、どうしたの? 何かあった?』


 アメリアはメリサにされたことをそのままソフィに言おうとした。


 しかしソフィからは見えないよう、後ろからそっとアメリアのお尻を軽くつねるメリサ。


 ”本当のことを言ったらもっと酷い目に遭わせる”という、メッセージ。


『……なん、でもない……』

『本当に?』


 怯えた様子のアメリアを不審に思ったのか、ソフィが尋ねてくる。

 ぎゅうっと、メリサの指に力が籠る。


『……うん……ひっく……ごめんなさい……お母さん……』

『…………』


 それ以上、ソフィは尋ねてこなかった。

 いや、これなかったという方が正しいか。


 ニヤリと、メリサの口元が醜く歪むのをアメリアは見逃さなかった。


 痛みと、メリサになんら反抗できない悔しさと、お母さんに嘘をついてしまったという罪悪感。

 幼心に抱いた様々な感情がぐっちゃぐちゃになって、アメリアはしばらく泣き続けた。


 アメリアの中で、メリサが“逆らえない相手”として刷り込まれた瞬間でもあった。


 ソフィも何があったのかは気付いていたのだろうが、立場的に強く出られなかったと考えるのが普通だろう。


 その証拠に、メリサがいなくなった後、ソフィが「ごめんね……ごめんね……」と何度も頭を撫でてくれたことをアメリアは克明に覚えている。


 その後も、メリサのアメリアに対する嫌がらせは露骨になった。


 『目つきが生意気だ』『態度が気に食わない』と何かと理由をつけて叩かれて、つねられて、ご飯をぐしゃぐしゃに踏み潰された。


 ソフィは何度か止めには入ったが、最終的には父との不貞を話に出され強くは出れない。


 何度ソフィの『ごめんなさい』を耳にしたか、アメリアはもう覚えていない。


 いつの日だったか。

 一日一食しかない食事を、ソフィの頭からぶち撒けてメリサは高笑いしながら言った。


『ざまあないわね! 本当に良い気味!』


 後になって知ったことだが、メリサはソフィと同期の侍女だったらしく、自分とは違い優秀でセドリックに気に入られていた事を妬ましく思っていたらしい。


 ソフィが隔離された後の数々の嫌がらせは、その憂さ晴らしというものだろう。


 しかしそんなことを当時のアメリアが理解できるはずもなく、ただただ理不尽な暴力と意地悪に涙を流し、耐える日々を送っていた。


 とはいえまだ、痛みやご飯が食べられない事はまだよかった。

 まだ、耐えることができた。


 何よりも悲しかったのは、メリサがよくアメリアの大切なものを取ってしまうことだ。


 頑張って探して見つけてきた綺麗な石を。

 冬にごくわずかしか支給されない薪を。

 ソフィが少ない材料で作ってくれた手編みの手袋を。


 メリサは何かと理由をつけて奪っていった。

 自分が一生懸命見つけたり、作ったものを。

 お母さんが一生懸命、自分のために作ったものを。


 メリサは理不尽に、奪っていった。


 ソフィが亡くなってからも、メリサからの嫌がらせは続く。

 むしろ今までソフィに分散していた分、余計にひどくなったかもしれない。


 『この人には逆らえない』『言う通りにしないと、ひどい目にある』

 そう思うようになり、されるがまま言われるがままになる様は洗脳としか言いようのない有様だった。


 短気で、理不尽で、自分の思い通りにならなかったら、弱者を嬲る事を快感だと感じる侍女、メリサ。


 ……そんな人物がずっと身近にいたから。


 アメリアは段々と、『自己主張ができない』『人に言われるがまま』といった、他者に主導権を渡してしまう性質になってしまったのである。

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