第30話 泣いちゃだめ

 子供の頃の私は、泣いてばっかりだったと思う。


 ろくなご飯が与えられなくて、お腹が空いて泣いた。


 冬の寒い日にカビ臭くて薄い布団しか与えられなくて、寒くて泣いた。


 いじわる侍女のメリサに、太ももをつねられて泣いた。


 頑張って探して採ってきたお気に入りの花を、エリンにぐちゃぐちゃに引き裂かれて泣いた。

 

 たくさん泣いた。

 たくさん、たくさん泣いた。


 でもその度に、お母さんが来てくれた。


 私が泣けばお母さんはいつも、大丈夫だよって、もう怖くないよって、優しい声をかけてくれた。


 頭を撫でてくれた。

 抱き締めてくれた。


 だから私は、泣く事ができた。


 一人じゃなかったから。

 味方がいたから。


 でも、お母さんが死んじゃって。

 たくさんたくさん泣いて、誰も何もしてくれなくて。


 そのうち体が水分を出せなくなって泣き止んで。


 気づいた。 

 ああ、私はひとりぼっちになったんだって。

 

 泣いても誰も助けてくれない。

 泣いている時間がもったいない。


 そう思った私は──泣くのをやめた。


 泣いちゃだめって、自分に言い聞かせた。


 いじわる侍女のメリサに“ほら今日のご飯だよ”と上から生ゴミをぶっかけられても。


 ──泣いちゃだめだ。


 お母さんが残してくれた『植物大全』をエリンに踏み躙られても。


 ──泣いちゃだめだ。


 義母リーチェに“口の利き方がなってない”と頬を引っ叩かれても。


 ──泣いちゃだめだ。

 

 父セドリックに、眠らず処理した書類を目の前で破り捨てられても。


 ──泣いちゃ、だめだ。 


 ──泣いちゃ……。


 ふと、思った。




 ……私は一生、このままなの?……




「────っ」


 弾かれるようにアメリアは半身を起こした。

 背中、首元、いや、全身にじっとりとした不快感。


「……っはあ……はあっ……」


 浅い呼吸を繰り返す。

 息が苦しい。落ち着け。


 思い切り息を吸い込んで、吐き出す。

 不規則に高鳴る心臓を宥める。


 何度か深呼吸をして、ようやく落ち着いてきた。


 あたりを見渡して、自分のいる場所がヘルンベルク家の自室であることを認識して。

 アメリアはようやく、安心する事が出来た。


「……ひどい夢」


 本当に、ひどい夢だった。

 思い出したくない、実家での出来事を立て続けに見せられた。


 たまに、起こる。

 過去の辛かった記憶が、夢の中で溢れて目覚めてもくっきり覚えている事が。


 嫌なことは我慢してすぐ忘れるようにしてる、その反動かもしれない。

 抑圧していた諸々の記憶が、感情が、自分の意思に反して漏れているような感覚だった。


 ──コンコンッ。


 ちょうどそのタイミングで、控えめなノックが鼓膜を叩いた。


「どうぞ」

「失礼します」

 

 シルフィだった。

 見知った顔を目にして、安堵が深くなる。


「おはようございます。……って、凄い寝汗ですね。怖い夢でも見たのですか?」

「怖い夢……」


 額に手を当てると、手の甲からじっとりとした感触が伝わってきた。


「そうね、見ていたかもしれないわ」

「それは災難でしたね。昨日は大はしゃぎだったようなので、その疲れが出てしまったのかもしれませんね」

「ああ、なるほど……」


 確かに、その可能性は高いかもしれない。

 疲労が溜まっている時や、精神的に参っている時に悪夢は見がちだ。

 

「寝起きですか?」

「そう、ちょうど今起きたところよ」

「ではタイミングが良かったですね」

「タイミング?」


 アメリアが首を傾げると、シルフィは控えめな笑顔を浮かべて言った。


「旦那様がお呼びです」

「ロ、ローガン様が?」


 変な高い声で聞き返してしまった。


「ええ。お仕事が落ち着いたので、一度ゆっくりお茶でも、とのことです」

「なるほど……」


 驚きと嬉しさが混ざって、でもすぐに嬉しさが勝って。


「わかった、行くわ。でもその前に……」


 汗だくの身体を見下ろして、アメリアは尋ねた。


「……お風呂に入る時間、あるかしら?」

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