第16話 ごくらく
「いや……身体を拭きたいとは言ったけども……」
まさか、全身まるごとお湯に浸すことになるとは、思ってもいないアメリアであった。
熱めのお湯に肩まで浸かりながら、アメリアは回想する。
──せっかくなので、お身体ぜんぶをきれいきれいしちゃいましょう。
どこか嬉しそうにそう言ったシルフィに連れられやってきたのは、お風呂だった。
アメリアも、東洋にそういう習慣があるということを知識だけでは知っていた。
しかしアメリアが知っているお風呂は、ひと一人分のサイズの湯船にお湯を張って浸かるもので、断じて部屋一つ分はあろうかと思うほどの広さの溝になみなみのお湯が注がれたものではない。
先代様が東洋の文化に感銘を受けて作らせたというもので、シルフィは『大浴場』と言っていた。
シルフィは「それではごゆっくり」と、拭く物や着替えの場所をレクチャーしてどこかへ去っていった。
ひとりでじっくりと楽しんでという、彼女なりの気遣いだろう。
回想終了。
「こんなに大量のお湯を惜しげもなく使うなんて……」
常温の水を温めるだけでもかなりの労力が必要のはずだ。
改めて、公爵様は凄いんだなと実感する。
大浴場の内装は大理作りで真っ白だった。
等間隔で白磁の彫刻が模されており、神話のような世界観を形作っている。
湯船からはほかほかと湯気が立っていて視界は悪いが、天使を模した彫刻が持つ大きな壺からじょばじょばとお湯が流れ出ているのは見えた。
「どんな仕組みなんだろう……」
知識欲の高いアメリアは気になったが、じきにどうでも良くなってきた。
実家にいた頃を思い起こす。
身体を清めるとなると、濡れた布で身体を拭くか桶に入れた冷たい水で身体を濡らすかが定番だった。
当然、お風呂に入った経験なんてあるわけがない。
熱いお湯に全身を浸すなんて、最初はおっかなびっくりだったが入ってみてすぐに確信した。
あ、これは最高のやつだ……と。
「気持ちいい……」
紛れもない事実だった。
生まれて初めてのお風呂というものは、想像以上に極楽だった。
身体に溜まった疲労とか、穢れ的なモノとかがじわじわと昇華されていく感じ。
アメリアは心を無にして、その感覚を楽しむことにした。
「こんなに幸せで、いいのかしら……」
想像していた場所とはずっと良くて、怖さを覚えてしまうくらいだ。
今この瞬間も全て夢で、本当は婚約の話なんて嘘だったんじゃないかとすら思えた。
夢だとすると、怖い。
温かい湯船に浸かっているはずなのに思わず身震いしてしまう。
「あ……支度金……」
不意に思い出した。
昨日バタバタしていてすっかり忘れていた。
ついたらすぐに支度金を送金するよう父に言われていたが……。
「なんか……どうでもよくなってきたわ……」
お湯に浸かってて頭がぼーっとし始めてそう思ったかは、わからない。
アメリア自身、生まれてから今まで家族に受けた仕打ちについて、怒りがないわけではない。
散々こき使った上に最後はお金に変えて売ったも同然なのに、なんで私がそんなことしないといけないのという反骨心はある。
もう当分顔も見たくない家族のことを思い出して、胸中に灰色の蟠りが浮かび上がった。
「いけない、いけない……」
せっかくお風呂を楽しんでいるのに、水差すようなことを考えてしまっていた。
「……支度金のことは、旦那様が話を出したら、でいいか」
ぼんやりとした頭でなんとなくそう決めて、アメリアはもう一度肩まで身を沈めた。
──こうして、支度金の件は双方の意識の外に追いやられてしまったのである。
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