三宅天斗

第1話

 桜の舞う、ある春の日。私は近くの公園のブランコに座って、その風景を眺めていた。目の前では、楽しそうに笑う幼稚園児の姿があって、柔らかな風が葉を軽く揺らし、優しく私の頬をでて行く。

 そんなありふれた日常の一ページ。それが、私にとってはかけがえのない一ページ。

 幼い男の子が笑っていても、その声は聞こえてこない。

 春風が木々の枝葉を揺らしても、その音は聞こえてこない。

 私は耳が聞こえない。いつも、音のない、色だけが塗られた世界をずっと、ずっとさまよっている。私はその世界に、音を探して今日も絵を描いている。真っ白なスケッチブックに向かって鉛筆を走らせる。揺れる枝葉。笑顔の少年。いたずらっ子に手を焼く先生。描かれていくかけがえのない風景に、不意に笑みがこぼれる。この中でだけ、私はこの世界の一員になれているような気がする。

 スケッチブックから目を離すと、また私はひとりぼっち。誰の目にも私は映っていない。淋しさ。切なさ。孤独感。すぐ目の前に微笑ましい風景が広がっているのに、私は、私だけの世界にいる。


 ――透明人間みたい、私


苦しくなって俯くと、肩に二回、優しい衝撃を感じた。突然のことに身体がビクッと震えて、私は急いでブランコから降りて後ろを振り返る。その先には、一人の青年。歳は、私と同じくらいかな。その人はすごく爽やかな笑顔で私をまっすぐ見ている。私が話すをを待ってるんだろうな。

 でも、私は話せない。


――どうしよう……


 私が出来る会話。私は手を胸の前に持ってきて、手話で彼に話しかけた。でも、やっぱり彼には伝わらなくて、彼はキョトンとした顔で私を見つめるだけ。私は悲しくなって、その場から逃げるように立ち去った。


 それから数日が経って、私はこないだと同じ場所で絵を描いていた。今日は幼稚園の子達もいなくて、ただ流れる雲や揺れる草花を黙々と描いた。

 そんな時、また肩を叩かれた。驚いて離れると、後ろにはこないだと同じ男の子が立っていた。


 ――なんでまた……


私はこないだと同じく帰ろうとすると、彼は慌てた様子で私の行く先に立ちはだかって、話しかけてくれた。

「なにを、してるの?」

すごくぎこちなくて、拙かったけど、彼は確かに手話で私に質問をしてくれた。

「絵を、描いてるの」

そう返すと、彼はぎこちなく頷いて、手元のスケッチブックを見て私の言葉の意味を理解したように見えた。

筆談ひつだんにしますか?』

そんな彼を見て、私はそう提案したけど手話じゃ伝わらなくて。私はページを捲って、そこにさっきの内容を書いて彼に見せた。すると彼は、嬉しそうに笑って大きく頷いた。

『絵、見せてくれない?』

彼の書いた文字はすごく柔らかくて、少し癖のある字だった。私はブランコに座って小さく頷き、前のページに戻して彼にスケッチブックを渡した。

 自分の描いた絵を人に見せたことがなかったから心配だった。だけど彼は、楽しそうに目尻を下げて、私の絵を見てくれた。

『上手だね』

文字だけでは気持ちは伝わらない。でも、彼が書いた文字にはこころがあるような気がした。まっすぐに、純粋に、私を褒めてくれている気がした。

「ありがとう」

癖で手話で返事をすると、彼はうんうんと首を振って

『また、会いに来ても良いかな?』

優しい文字でそう聞いてくれた。

すごく嬉しかった。

透明人間の私だけど、彼はちゃんと私を見つけてくれた。透明な私に、色をつけてくれた。

その時、胸が少しくすぐったくなった。

『嬉しい。毎週ここにいるから、会いに来てくれると嬉しいな』

そう返すと、彼はまた嬉しそうに笑って

「うれしい」

手話でそう返してくれた。また胸がくすぐったくなった。初めての感情に、身体が熱くなる。


 ――なんだろう、この感じ


そんなことを考えていると、彼は立ち上がって私に向き直り

「またね」

手話でそう言った。

「またね」

私はまだムズムズする胸の前で、そう返して彼を見送った。


 ――またね


その言葉がこんなにも嬉しかったのは、今日が初めてだ。私は、この嬉しくて楽しくて、ワクワクする気持ちを絵にのせて、スケッチブックに鉛筆を走らせた。


 それから私たちはたまに会うようになった。彼は会う度に新しい手話を覚えてきてくれて、私たちは手話でいろんな話をした。自分のことも、彼のことも。お互い質問するのが会話のほとんどで、一か月で彼についてたくさん知ることができた。

 まずは彼の名前と年齢。彼の名前はカナタ。歳は私と同じで十五歳。年齢を聞くまでは、てっきり先輩だと思ってた。それくらいカナタは大人っぽくて、落ち着いていて、かっこよかった。

 あとは彼の趣味。彼は三歳からヴァイオリンを習っていて、将来はプロのヴァイオリニストになるのが夢らしい。カナタの演奏を聴いたことも、聴くこともないけど、彼ならなれるとなぜか自信を持って思える。


――どうしてだろう……。


彼に初めて会った時から、よくわからない感覚が胸にずっと残っている。フワフワしていて、温かくて、でもたまにすごく苦しくなって。こんな感覚がずっと消えてくれない。彼に会えば少しの間だけ和らぐけど、別れるとまたこの感覚が合う前よりも大きくなって戻ってくる。

 これまで味わったことのない複雑な感情に惑わされて、大好きな絵が手につかない。今日は透き通るような青空が広がっていて、青々とした若葉が、キラキラと楽しそうに輝いている。そんな美しい景色をぼんやりと見ていると、視界に彼が入ってきた。

 ドキッと胸が跳ね上がった。会えたことが嬉しくて、楽しくて。でも、別れが来てしまうことがもう淋しくて。ごちゃごちゃと絡まった感情が、今日はどうしても離れてくれない。

 近づいてくる彼を見ていると、左手に何か黒いものを持っているのが見えた。

「こんにちは」

カナタが私の前に来ていびつな形をしたカバンみたいなものを置いて、いつもの挨拶をする。

「こんにちは」

私も笑顔でそれに応える。そうすると、彼はいつも私の隣に腰を下ろすのに、今日は立ったまま、穏やかな表情でこちらを見ている。

「どうしたの?」

そう聞くと、彼は足元にあるカバンを開いて、あるモノを取り出した。

「それは?」

「ヴァイオリン。今日は、キミに僕の演奏を聴いてほしくて」

カナタはすらすらと手を動かして、私には理解できないことを言ってきた。

「聴いてほしい? 私は、耳が聞こえないのに?」

考えても分からなくて、私は彼に聞き返す。カナタはそれに、

「僕の気持ち」

そう言って、ヴァイオリンを構え、優しく目を瞑った。


 ――カナタの気持ち……。でも、聞こえないよ……


 カナタの腕が動き出す。きっと、美しい音色が響いているんだろうけど、私には聞こえない。

 少しすると、カナタを取り囲むように人が集まってきた。そんなにも人を惹きつけるような曲なんだと思うと、すごく胸が苦しくなった。

 カナタはすごく気持ちよさそうな表情をしている。

 そよぐ風もカナタの音楽に釣られるみたいに優しくカナタの柔らかい髪をなびかせる。

 集まった人たちも、眼を瞑って心地よさそうにカナタの奏でる音に耳を澄ましている。


 ――それなのに、私にはその音が聞こえない。


 涙が出そうなほど、胸が苦しく、切なく締め付けられた。


 どうして私には、カナタの奏でる音色が聞こえないの?

 どうして私は、カナタの想いを受け取れないの?

 どうして私は、いつまでもひとりぼっちなの……。


 ポロリと涙が零れ落ちそうになった時、耳に心地よい音が響いてきた。そんな気がした。

 柔らかいくて優しい。だけど、芯があって伸びやかな音。それが、今もまだ胸に響いている。

 カナタの気持ちよさそうな笑顔。

 そよ風になびくカナタの柔らかい髪。

 美しく、繊細に揺れる空気。

心の奥の方が、じんわりと熱くなってきた。その時、音から声が、こころが伝わってきた。


――好きだよ、ワカバ


カナタの奏でる音からは、そんな想いが伝わってきた。私は、すごく嬉しくなって笑みと一緒に涙が零れ落ちていた。


 演奏が終わって、周りにいた人たちはカナタに向かって拍手を送っている。

「伝わったかな?」

不安そうに聞くカナタ。少し恥ずかしそうに頭を掻いているのが、すごく愛おしく思える。

「聞こえたよ。カナタの想い」

涙を拭って笑顔でそう返すと、カナタは満開の桜みたいな温かい笑顔を浮かべて

「よかった。伝わって」

安心したように小さく息を吐き出した。

 声が聞こえたわけじゃない。耳が治ったなんてこともない。だけど、私の胸はやけに温かくて、苦しくて、でもすごく心地よくて。きっと、今までの感情が私に彼の気持ちへの答えを教えてくれているんだと思った。

「カナタ」

「どうしたの?」

大勢の人が周りにいるのに、二人だけの世界みたい。音のない、私たちだけの世界で、私はカナタへの真っ白な想いを告白した――。

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三宅天斗 @_Taku-kato

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