誘拐
柚吹 慧
-誘拐-
これをどう伝えたら良いのだろう。僕の言葉でどこまで伝えられるのかは分からないけれど、とにかくとても不思議な体験をしたように思う。
あれは七月のとても暑い日だった。
僕は母さんと妹と海に遊びに来ていて、ひとけのない桟橋を歩いていた。母さんは片方の手で妹の手を引きながら、もう片方の手でせっせとスマートフォンを操作していた。とても透き通った日だったから、またいつものように写真を撮って、空想の友達たちに自慢をしたいのかもしれない。
僕はその後ろを一人で歩いていた。わざと端の方を、まるで平均台の上でも歩くかのようによろよろ進んだ。母さんが振り返ることは一度もなかったけれど、僕はその時間を一人で十分楽しんでいた。
「危ないよ」
突然後ろから聞こえたその声は、低くてとても落ち着いていた。正直なところ少し驚きはしたけれど、僕はすぐに平然とした様子を装って振り返った。そこには真っ白な日差しのすべてを吸収してしまいそうなほど全身真っ黒な服をまとった背の高い男が立っていた。目元はやはり真っ黒の帽子のツバが影になってよく見えなかったけれど、なんとなく、“大丈夫そう”な雰囲気があった。
「そんなに端を歩いては、危ないよ」
男は、今度は帽子の下からまっすぐに僕の目を見てそう言った。影の中に光る眼差しは海風より柔らかく思えた。
「そんなこと、分かってるよ」
「それなら、もう少し真ん中を歩いてはどう?」
「ここを歩くのがいいのさ」
分かってないなぁ、と僕は強がったが、この男に声をかけられる前、確かに体がふわりと海側に倒れかけたのを思い出した。男の声が僕の重心を橋の上に戻したみたいだった。
「親は?」
男の声には抑揚がほとんどなかったけれど、不思議と親しみを感じた。
「母さん。……ええと、おかしいな。さっきまで僕の前に居たんだ」
「見えなくなったの?」
「もっと前、に、いると思うよ。……もう見えないけど」
「小さな女の子の手を引いていた女性?」
「そう。母さん、歩くのが早いから……」
男に訊かれて、初めて気づいた。いつの間にか僕は完全に母さんたちと離れていたんだ。それに気づいた途端、なんだかとても心細くなり、怖くなり、きっと声もあからさまに震えだしていただろうと思う。
男は小さく一歩、僕に近づいた。さっきまで何ともなかったのに、急に男の行動のすべてが怖く感じた。けれど、もうこれ以上僕は後退ることができない。さもなければ次は、海にこの足を引かれることになる。
男は僕の正面でしゃがみ込み、僕の両肩にそっと手を置いた。びくりと血の気の引いた僕の様子をしっかりと見たあとで、僕の方向をくるりと桟橋から離れる方角に向けて、そのまま遠くを指さした。
「母さん、もう向こうへ戻っているよ。このまま真っ直ぐ、今度は安全に真ん中を通って帰りなさい」
それから男は指さしていた手を下ろして、再度僕の肩の上に置き、じっと僕の瞳を覗き込んだ。
「海は、まだ君を呼んでいないよ」
え、何?と訊きかけたが、その言葉を投げようとすると同時に男がすぅっと立ち上がって、桟橋の更に遥か向こうに視線を落とす姿になぜかしら見入ってしまって、かける声を失くしてしまった。
「じゃあ、あなたは呼ばれてるの?」
漣の音の二、三過ぎたのち、僕は恐る恐る男にそう言葉を投げた。
「いいや、海には呼ばれていないよ。ただ」
「ただ?」
「“ここ”にはもう居られない」
「それって……」
そのあと男は何かをぽつりぽつりと呟いた、ように見えた。かすかな唇の動きは見えたが、音のすべては波の声に攫われてしまって、やはり彼の視線の遠く落とす姿に不思議な気持ちを覚えて、もう一度言葉の詳細についてを問い直すことはできなかった。
「行こう」
ゆっくりとした静寂が幾分か過ぎたあと、男は静かにこちらを見て、そっと手を伸ばしながらそう僕に伝えた。
「どこに?」
「君の母さんのところ。詳しい場所は分からないけれど、桟橋から戻るくらいなら」
差し伸べられた手に、こちらも手を伸ばして返そうとした。男の手のひんやりとした感じがこの掌に伝わった。その時だった。
「うちの子から離れて!」
僕が伸ばした手は、強い力で男ではない誰かに引っ張られ、僕の体はぐらついて、再び海に落ちそうになった。僕の手を引いたのは母さんだった。
「不審者め、離れなさい!」
母さんは少しヒステリックを起こしているように見えた。手持ちの小さなカバンで男の体をポカポカ攻撃していた。男はじっと動かないまま、ただ目を円くして母さんのことを見ていた。出会って初めて、男の人間らしい顔を見た気がした。
「離れて、離れて!さぁ、行くわよ、ハドリー。こんな怪しい男について行ってはダメよ」
母さんは強引に僕の手を引っ張って、男からみるみる僕を引き離した。頭では母さんについていかなければならないことを理解しながら、この足は歩を進めないままじっと動かないものだから、おのずと引きずられるような形になった。そんな僕の姿を、男は桟橋の上から一歩も動かずにじっと見つめていて、僕もなぜだか男から目を離すことができないでいた。
もう随分と二人の間の距離が開いてうっすらとお互いの表情が見えるか見えないかくらいになった時、カモメの高く啼く声に消されながら、男の口がわずかに動いたのを僕は見た。そのぼんやりと見える口元は、どうやら僕の名前を呼んだ、ような気がした。
帰り道、母さんはあの男について「きっとハドリーを誘拐しようとしていたわ。あなたはフォロワーの皆にもこぞって可愛い可愛いと言われるような美少年だから、目をつけられたに違いないのよ。まったく、汚らわしい変質者ね」と忙しそうにスマートフォンに目をやりながら憤っていた。しかし、僕を呼び止めたあの声、僕の瞳を真っ直ぐ見つめていたあの眼、ひんやりとはしていたが安心感を持てたあの手。僕には彼が、母さんの言うそれとは思えなかった。
数日後、僕は一人でその桟橋の近くまで行った。友達の家に行く途中に立ち寄れる場所だったから、母さんには友達の家に行くとさえ言えばよかった。
桟橋の端を、ゆっくりと歩く。今度は前のような不注意を働かず、きちんと一歩一歩確実に進んでいく。今、この動きは楽しくはないが、何か得体の知れない期待と胸の高鳴りが漣のように僕の胸に押し寄せていた。
「危ないよ」
あの日聞いた、凛とした低い声が聞こえた、気がした。桟橋のはるか遠くの方からだ。たまらない衝動が僕を駆り立てて、全力で走って気配の方へと向かった。
――が、そこに期待のその人の姿はなく、ただ黒い帽子だけが、ふわりと波に攫われるのだけが見えただけだった。
誘拐 柚吹 慧 @Kei_Yuzubuki
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