第2話 泣くことも逃げることも自由だったはず
月見神社は、海沿いの道路を通って、少し山側の方へ登ったっ所にあった。私の家からはそれなりに距離がある。
私は木島の車にのっていた。少し開けられた窓から海風を感じる。塩気のある匂いが新鮮で、何かが目覚めそうなほどな爽快感を覚えた。天気もいいし、キレイな青空と日差しが眩しいくらいだ。そんな絶好なお出かけ日和に……私は存外はっきりした声で言っていた。
「私、なんで、神社に行きたかったんでしょうね」
木島は私の言葉に苦笑する。
「いや、それを言われてしまったら、俺が困っちゃいますよ」
その言葉に、なんてことを言ったのだと、一瞬動揺した。
私は縮こまる。
「ご、ごめんなさい……なんでしょ、自分でも今日、おかしいなって思ってて……現実感がないというか……記憶があやふやというか」
木島は私の言葉に、なるほどなるほどと頷く。
その姿に私は見とれてしまった。この人はとても落ち着いているなと思う。だって家の中でも私はおかしかったし、今でも変なことを言っているのに……。
聞き上手なのかな……私は小首をかしげた。
「……人の話はよく聞こうと思ってるだけですよ。聞き逃してしまったり、忘れたら大変かなって思ってしまうので」
木島は私の不思議に思ったことを丁寧に答えてくれた。
なんだろう、この人の声色は優しいけど、寂しい響きもしている。でも、いきなりそんな指摘をしてもおかしいな……と、私は口をつぐんだ。
「そういえば琴乃さんは、記憶力ってどうですか?」
木島は急にこんなことを言いだした。私は目を丸くして、顎に手をやった。
「どうなんでしょ……今日はずいぶんあやふやなんですけど、普通だと思います……いつもは」
「重大なことはさすがに覚えてるって感じですか?」
「そうですね……」
「そうですか……ありがとうございます」
木島は、車を自販機が立ち並ぶ駐車場へと入れた。
外に出るためドアをあけた際に、彼は独り言のように呟いた。
「俺もそう、思ってました……」
木島の顔は苦虫を潰したような顔だった。
どうして、そんな苦しそうな顔をするのだろう……。
気になってしまう自分がいた。
木島も外に出たしと、私も車の外に出た。
駐車場の端、海のよく見える場所だった。
きらきらと、海は日差しを反射し、宝石を見ているかのようだ。
懐かしい……。
彼はまだ元気だった頃は、私を海に連れて行ってくれた。
散歩をしたり、お茶をしたりして……優しい彼だった。
優しくて、私を抱きしめるときにすら、力加減を聞いてくる始末で……今の怖い姿と程遠くて……。
私は顔を伏せた。ぎゅっと目を強く瞑る。
ねえ、琴乃……また、海に行こう。また遊ぼう。
夕暮れの砂浜で、風に飛ばされた帽子を拾った彼は、私
に優しく声をかけた。夕日の光の具合で、彼の顔に影がかかっていたけど、その声の優しさが何より暖かくて、私は何度も頷いた
行きましょ、あなた……またいっしょに
辛いなと思った。本当に辛い……私は気づいてしまった。
私は今の彼を一切信じてないのだ、不安に感じて怖くてしょうがないのだ、けれど彼を信じたいのだ。あの頃の優しい彼にいつかもどってくれると、私達はまた笑いあえるのだと。だけどそのすがるような希望すら、私はもう信じきれなくて……なんて弱いのだろう、彼を愛して、そばにいると決めたのに。嗚咽が漏れた。
ぽろぽろと涙が流れ、感情がいくつものクレヨンで塗りつぶしたかのようにぐちゃぐちゃだ。逃げちゃダメなのに……現実から、逃げたら、しょうがないのに……涙が止まらない。
「琴乃さん……」
木島が声をかけてきた。私は見られたことに恥じらいが起きて、ごしごしと涙を拭った。ごめんなさいと、震える声を出す。
「色々と思い出しちゃっただけで……なんでもないんです」
「本当にですか……?」
本当ですよととっさに言えなかった。今の状態は、感情が爆発しそうなのをこらえている……と言っても良かった。木島は私にタオルを差し出した。
「うちの母も、そう、泣いていたんでしょうかね」
木島は言った。その言葉に私は疑問を持つ。
「木島さんのお母様がですか?」
木島は小さく頷いた。
「母は夫からDVを受けていたんですよ……でも暴力を振るう夫のことも信じたいと思っていたし、俺のこともとても愛してくれました。うちの親は、夫婦の問題を子供には見せないタイプだったんでしょうね……でも母は、今の琴乃さんのように、突然泣くことがありました」
木島は悲しそうに目を伏せた。
「俺、女性が泣いてるところで、黙ってられないんですよ」
「木、島さん……」
そんな優しい言葉をかけないでほしい。優しく私を受け止めないでほしい。壊れてしまう、なんとか保とうとした自分が、壊れてしまう……また身体が震えだす。
木島はそんな私をそっと自分に引き寄せた。
とん、と木島の身体に触れた時、私の目が大きく見開いた。
あぁ……ああ……と声が震えた。凍った心が溶けていく。
私は木島の胸を掴む。顔を押し付けて、泣いてしまった。
子供かと思うくらいみっともなかった。
けれども私はずっと、こんな風に、寄る辺が欲しかったんだ……情けないかもしれないけど、誰かに助けてほしかったんだ。
そう、あの時だって……。
ふと私は自分で思ったことに、頭をひねりそうになった。あの時って、なんだろう……。疑問とともに、喉に引っかかった骨のような、大きな違和感が生まれ始めていた。
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