泣いたって逃げたって、よかったんです
つづり
第1話 優しいひとに導かれて、私は外に……
彼のことを怖くなったのはいつだろう。いつだったか、わからない。私の頬を叩いたときだろうか。バチンという音が嫌なくらい生々しかった。頬の腫れ上がる感覚と、じりじりと焼けるような痛みが、苦しくて、涙がぼろぼろと出た。
殴られる前になにか無かっただろうか。彼は無言で酒を飲むようになった。チューハイの中でも強いヤツを、無表情で飲むようになった。一気飲みに近いのに、高揚した様子はなく、ただ赤らめた頬と死んだ魚のような目で、宙を見ていた。
残業が多く、いわゆるブラック企業に勤めていた彼が壊れていく様子を、私は間近で見ていた。泊まり込みで仕事をし、帰ってくると、風呂に入るのも嫌がるほどに布団にいたがった。
布団しか、居場所がないといわんばりだった。布団を被って、泣きながら眠る彼は、それでも腕を伸ばすことがあった。手のひらを掴むと彼はぎゅっと手に力を入れる。その、強さは痛いくらいで。……彼がどれだけ辛いのだろうと思うと、私は手放せなかった。
彼には、私しかいないのだ。
彼は私を求めた。
離れないで、見捨てないで……逃げないで、と。
私は彼のために仕事をやめて、家で彼を待った。
私はここにいるよ、あなたのために……あなたの、ため、に……。
……ひどい頭痛だった。痛みの強さに、顔を思いっきりしかめる。私はソファで横たわっていた。ソファはそれなりに高いものであったが、寝心地となるとあまり良くない。体の節々が固くなっている。今日に限ってはしびれるように痛い。
「今日は、まだ殴られてないからマシかな」
独りごちて、私は起き上がった。布団を片付けようか、それとも頭痛薬を飲んだほうがいいのか……。
そう考えあぐねていると、ピンポンとチャイムが鳴った。
誰だろう、と思ったし、宅配関係の予定もなかった。ならば無視をすればと思ったが、珍しくインターホンを見る。そこには見知らぬ男性がいた。何かの営業だろうか……それにしても随分と軽装というか……遊んでそうというか……。
チャイムがもう一度鳴らされた……いたずらかもしれないと思った。そう思ったほうが吉な気がした。けれど私はまるで引き寄せられるかのように、玄関を開けた。
「あ、出られた……よかったよかった。今日約束した、木島と申します」
甘い香りがふわりと感じる男に、私は戸惑った。まったく出会ったがない男なのに、今日会いに来ると約束したのか。私は怪訝な顔をしながら小首をかしげた。
「私、そんな約束をしましたっけ……」
木島は自信のある様子で、大きく頷いた。
「ええ、約束しましたよ。月見神社に行きたいけど、足が悪くて、補助を頼みたいと」
そう言われてピンと来た。縁結び、縁切り、交友関係のことに強い神社が市内にあって、私はそこに行きたかった。
だけど、もう私はボロボロで……一人で行けそうになかった。 知人に頼もうと思ったが、私の様子を見て、知人から彼に変な疑いをかけられないように、なんでも屋さんに電話したのだ。
急に全てを思い出した、というより、状況に理解した。しかしそうなると、寝起きのような有様の自分の姿が恥ずかしくなった。
もう、本当に、ボロボロなのだ……顔も腫れ上がっているかもしれないと思うと、ゾッとする。
「す、すいません……ひどい有様で……すぐに準備しますね」
すると男はきょとんとした様子で私を見た。
それから小さく笑い出す、その無邪気なくらいの笑うさまに動揺してしまう。
「な、なんで笑うんですか」
彼は縁取りが独特な手鏡を私に向けた。
「だって、お客さん、とてもお綺麗なのに……ひどい有様っていうんですもん……なんだかギャップデカすぎで……」
「あ……」
私は呆然とした。鏡の中私は、信じられないくらい、顔立ちが整っていた。とびきりの美人ではないと思っていたが、それでも、痣や暴行の痕がない私は、キレイだった。
「なんだか、自分じゃないみたい……」
私は足のつかないような気分で呟いていた。
木島は、ふっと息をついた。それから諭すように言った。
「自分ですよ、琴乃さん」
「あ……」
ぎゅっと心臓が掴まれてしまったようだ。感激と衝撃が同時に襲ってきた。名前を呼ばれたのは久しぶりだ……彼はたまに読んでくれるが、最近では「お前」ばかりだった。なにより、人と会わせてもらえないから……私はさっと青ざめた。
周りを勢いよく見回す。
彼が見ている気がする。
彼のことを一瞬忘れた自分を、罰しそうな気がする。
私は己を抱きしめるように自分に腕を回した。かちかちと歯の当たる音がする。
こんなことをしたら、私に何があったのかとか、いきなり訳がわからない行動をするとか、とにかく変に思われてしまう。
そんな私に木島はそっと言った。
「大丈夫です、今日のことは極秘で動いています……琴乃さんをけして傷つけません」
木島は優しく私の肩を叩いた。不思議なほど優しい。彼はうちの事情を知っているのだろうか。あまりに動揺がなかった。落ち着いている。
彼の態度は、私をなだめるような、落ち着かせるような、初対面の相手に普段こんなことをさせたら、申し訳ないと思うが……何故かとても嬉しかった。情けないことに、優しくされたいと思う自分がいたのかもしれない。私は止まりそうだった息をゆっくりと吐いた……まるで憑き物がとれたようだ。
「あ、ありがとうございます」
恥ずかしさに顔がさっと赤らめてしまう。まるで少女のような反応だと思ってしまったが、木島は気にした様子はなかった。それどころか、からからと笑って、私に手を差し伸べた。
「いえいえ、大丈夫です……さ、行きましょ。月見神社へ」
私はこくりと頷いた。
やっと外に行けると思った。
そう思ったと同時に、疑問が湧く。
どうして、私は外に出ようとしたんだろう。
彼のそばにいると、誓ったのに。
その誓いを無視して、どうして……月見神社に行こうと思ったのだろう。
自分の行動なのに、わけがわからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます