第46話

2週間もどこかに滞在するのは、専門学生の時に行った自動車免許の合宿以来だった。

行く前こそ2週間も自宅以外の場所で生活をするということに不安を感じていたものの、行ってみればあっという間に2週間が過ぎ、帰る時にはもう少し滞在したいと思えるほどの余裕さえあった。

今回の泊まりこみの仕事もあの頃の免許合宿のようにあっという間に終わってしまうだろうと予想していたが、全くそんなことはなかった。


泊まりこみにも関わらず毎日朝5時から夜の21時ほどまで続く過酷な業務。

裁判をすればぎりぎりに勝てるのではないかと思うほどの攻撃的な暴言。

虫と砂と泥が混在している清潔感の欠片もない宿舎。

山の近く特有の変わりやすい天気によって荒れ果てた地面。

それによって汚れる靴と作業服。


言い出せばキリがないほどの悪条件が重なり、1時間は数時間に感じ、1日は数日に感じるような地獄の日々を過ごしていた。

しかし、ミスと叱責と戦慄を繰り返し、毎日夜逃げをしたい衝動に駆られながらもどうにかやり過ごし、ついに最終日を迎えた。

昨日までに大方の片付けは終わり、今日は残った備品を回収して会社へと戻るだけのわりかし楽な一日だ。

僕は会場を区分けするプラカードを回収し、現地へのコンテナへと運ぶ役割をしていた。

例のバブルサッカー事件があって以来、僕は以前にも増して簡単な業務しか任されなくなっているのだ。

社内での評価が圧倒的に低く、明らかに誰からも信頼されていないこの現状に多少の不満と焦りはあるが、全ては自分が招いた惨事だと思えば何も言えない。


「中島さんすみません。このプラカードはどこに運ぶんでしたっけ?」

ちょうど僕の横を通り過ぎようとした中島さんに声をかけた。

「それはここずっとまっすぐ行って突き当たり右に曲がったコンテナ。

 てか、まだコンテナの場所も把握してないんかい。もう最終日じゃないのよ」

すんません、と言いながら頭を下げる。

中島さんは2歳年上だから話しやすく、女性ということもあるのかあまり怒らない。僕に1度も怒ったことがない唯一の社員と言ってもいいかもしれない。

だからこそ僕はついつい小生意気な態度を取ってしまうのだ。


大量のプラカードを両手に抱えてコンテナへと向かう。

昨日まで雨と曇りを繰り返していたせいで地面は泥だらけで、一歩歩みを進めるたびにぬかるんだ地面がねちょねちょ音を立てながら靴裏にしがみついてくる。

まっすぐに行って突き当たりを右。

まっすぐに行って突き当たりを右。

生来極度の方向音痴である僕は、コンテナまでの道順を忘れないように何度も呟きながら歩いた。

すると、どうやらショートカットになりそうな道を発見した。

まだプラカードは大量に余っているし、仕事は早く終えるに越したことはない。

何年も使っているこの会場だが、未だにこのショートカットを誰も発見していないのだとすれば、僕が第一発見者ということになる。

このショートカットを使って光の速さでプラカードを片付けることが出来れば、先輩や社長から驚かれるに違いない。

「おお、もう終わったのか。どうしてこんなに早く片付けられたんだ?」

「まだ誰も気付いていないと思うんですが、実はコンテナまでの近道がありましてね。そこを使ったらあっという間に片付け終えてしまいましたよ」

「おお、そんな近道があったのか!お前もたまには良い仕事をするな!

 案外、お前も駄目なところばかりじゃないのかもしれないな!」

などと社長たちが大盛り上がりし、早くも諦めかけていた出世街道を再び駆け上がる自分を想像しながらその近道へと足を踏み入れる。

そこは水捌けが悪いのか、先ほどまでの道よりも粘度が強くて歩きにくい。

それだけでけなく、糞尿が混じったような異臭さえする。

(なんだ、これじゃあ結局大してショートカットにならねえなあ…)

と思いながらも歩みを進めると、突然、水溜りを踏みつけたような感触を足の裏に覚え、その瞬間、体ごと一気にその水溜りへ落ちてしまった。


「ちょっ、なんだここ…!」

その水溜りは想像よりもはるかに深く、顎の下まで体がすっぽりと収まってしまった。

そして、この水溜りはなぜか物凄い異臭がするのだ。

あまりの匂いに胃液が込み上げてきたが、プラカードを投げ捨てて必死に水溜りから脱出した。

あまりにも突然の出来事と身体中に染み付いた異臭で訳が分からずに茫然と地面にうずくまっていると、すぐ近くで悲鳴が聞こえた。


「えっ栗原なにしてんの!?」

中西さんが慌てたような表情でこちらに近づいてくる。

「いや、ショートカットしようとしたらなんか急にこの水溜りに落ちてめっちゃ臭いんですけど!

ここなんなんすか?まじで溺れそうになったんですけど」

僕がそう言うと、中西さんの表情か一気に豹変し、近づきつつあった僕との距離を後退りしながらもう一度遠ざける。

僕から逃げているようにも見えた。


「お前、本当にここに落ちたの?」

「えっはい。いやとりあえず臭すぎてどうにかしたいんですけどこの体。泥だらけでまじで最悪なんですけど」


中西さんは分かりやすく溜息をついて、僕にこう言った。

「お前、これ水溜りじゃなくて肥え溜めだよ…」







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