第36話

今年の誕生日にりほから貰ったアップルウォッチがブブッと振動し、枝豆数粒分の小さな液晶画面がパッと明るくなる。

りほからのラインを知らせる振動だった。

「社会人でびゅー、おめでとう!大変だと思うけど頑張ってね!」

でびゅー、という情けない響きについ頬が緩んでしまう。


4月の初日である今日、僕は初めて社会という得体の知れないトンネルに飛び込む。

ついにこの日が来てしまったという絶望感と、これからやっていけるのかという不安を抱えたまま電車に揺られていた。


「まもなく長津田〜、長津田に停車いたします」

スーツ姿の男で埋め尽くされた電車の扉が開き、僕は飲み込まれるように電車から降りた。

小学生の頃から大好きなMr.Childrenの楽曲をイヤホンで流しながら会社へと向かう。会社の近くのコンビニに立ち寄り、店内の鏡で最後の身だしなみチェックをする。

Youtubeの動画を何度も見ながら結んだネクタイ。黒光りしている革靴。一昨日染め直したばかりの、違和感さえ感じる真っ黒な黒髪。

何ひとつ自分がやりたくてやったことではないが、やりたくないことを我慢してやるのが社会人なのだと、今まで沢山の人から言われてきた。

ネクタイと気持ちを同時に引き締め、会社に向かう道を数分歩くと、これから何百回と通うことになるであろうオフィスが見えた。

オフィス、と言っても高層ビルや綺麗な建物の中にあるわけではなく、オフィスと倉庫を兼ね備えた大きくて少し立派な掘立小屋という感じだ。

予め指示されていた通りに正面の入り口から入り、階段を登って二階に上がると、研修室と書かれた部屋があり、新入社員はまずこの部屋に集合するとのこと。


一度大きく深呼吸をし、二回ほどノックした後に扉を開くと、新入社員9人のうちの7人は席に座っていた。

自分が到着したのはビリから二番目ということになる。

「…おはようございます」

声と吐息の間のような弱々しい声色で挨拶をし、軽く会釈をしながら空いている席に座った。

病院の待合室のような重苦しい沈黙が研修室に流れ、皆手元のスマートフォンに意識を集中させている。

(なんだか陰気臭い職場だなあ…)と出鼻を挫かれたような気持ちになったが、初日ならこんなものだろうと思い直し、自身もスマートフォンでSNSを眺める。


そこから数分経った後、集合時間のギリギリに最後の同期が入室し、その後ろから上司であろう社員が現れた。

「おはようございます。全員揃っているね」

上司が挨拶をすると、先ほどまでの陰気臭さが嘘かのように僕以外の同期はハリのある声で挨拶を返し、僕も慌てて後を追うようにおはようございますと口にする。

上司が現れた途端に同期たちの目の色はすっかりと変わり、「新入社員」という仮面を深く被ったように見えた。

この数分間での気持ちの切り替えに早さに僕は驚き、自分だけが社会に馴染めないのではないかという大袈裟な不安を早くも感じ始めていた。

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