第2話 世界を跨ぐ
涼しい風が小高い丘から吹き降ろす。遠く見える高い山には白い雪は今が冬に準ずる、あるいは雪解けの季節であることが分かる。しかし、この世界に冬などが存在するかは分からない。
今いるのは日本とは明らかに異なる、いやおそらく地球でもないだろうことは明らかだ。踏みしめる草に木立一つ一つの木、たった今飛び立った鳥らしき動物など全てが初めて見る物ばかり。
「なんだこれ。なぁおい、猫さんや。これは、っつうよりここ、何処?」
未だ整理のつかない心は未知の数々に打ち震える。ただ死んだわけでは無いようだ、拍動する心臓は確かに血液を全身へと巡らせている。
「ようこそ、ジン・ハイガミ。我が招待良くぞ受けてくださいました。」
四つ足の彼女は毛繕いをすると、凛とした声で話す。見た目と声とが起こす齟齬は如何せん頭を混乱させる。それに肝心の答えは聞けていない。
「そうでしたね。貴方が感じているようにここは異世界、先ほどまで居た世界との繋がりは極めて薄い。そして、貴方はこの世界へと招待された。ここまでは?」
そうそう、それが聞きたかったのだ。あまり認めたくはないが、答えはおおよそ思った通り。って待て待て。
「なぁあの、猫さん?もしかして心が読めるとか、、なんてな!」
乾いた笑いで冗談めかす。まさかねぇと目線を送ると、さも当然だとばかりに頷いた。そういったことは止めて欲しい、心が読まれていると分かった途端読んでほしくない様々な秘密が浮かんできてしまう。
「あなたがどんな人間なのか、たった今詳しく分かりました。」
彼女は呆れた様子の半目でこちらを流し見る、全く人間のように表情豊かな猫だこと。心が読めることを利用してセクハラしようだなんて思っていない、本当だ。なんて馬鹿なやり取りもこの辺にして本題に入る。
「それで?俺に何をさせたいんだ、どうやら元の場所には戻れないようだし。まぁもとより帰す気はないだろうけど。」
振り返るそこには正面に広がる景色と変わらない。少しの違いがあるとすれば細い川が流れていることだろうか。
「それは歩きながらにでも話しましょう。」
周りを見渡すジンを置いて歩き始めてしまう。慌てて後を追いかけてその背中に視線を送るが、歩くたびに揺れる尻尾がとてもかわいい。
「淑女の臀部を舐めるように凝視するのは、推奨されるものではありませんね。」
絶景だ、なんて冗談だ。けものの知りに欲情する程変態ではない、ほんとうだよ?
「淑女?それはいくら何でも、、って全部に突っかかってたら話が進まない。まずあんたの名前を聞いても?」
賢い判断だ。色々と聞きたいことはあるが全部を聞いていたら日が暮れてしまう。それに理解できるとは思えない。
「あ、忘れてました。私はアリアンデ・ヴァーナ・メリュジーク。長ったらしい名前は気にせずにアリアと。」
そう言ったアリアンデ、、もう忘れた彼女は一度足を止めて振り返る。こいつ最初より口調が悪くなったような、いや砕けただけか。
「おーけーアリア、で?俺に何をさせたいんだ。」
腕を組み彼女に問う。そんな時だ、ふいに欠伸が出る。特別退屈なわけじゃあないが抑えようのない睡魔が頭を侵食していく。訝し気にこちらを見つめる彼女の眼はこちらを見ているはずなのに、何故か俺を見ていない。そんな気がした。
「悪い、なんか瞼が重くてな。」
困惑しただろう、実際そうだ。目の前で普通に話していた男が、突拍子もなく体を揺らし目を擦り始めたのだ。前兆もないそれは明らかに異常で自分でも驚いている。しかしアリアはさも必然かのように、いやこの顔は何か知っているのか、微笑を浮かべ、こちらへ向き直る。
「丁度いいですね、貴方との話は後にしましょう。おやすみなさいジン。」
話が嚙み合わない、何を言ってるんだこの猫は。口を開いたはずなのに声が出ない。そういえば今は何時だろう、今日の課題は何だったか。徐々に強くなる眠気が俺の思考の邪魔をする。
ねむい、、聞きたいことがあるのに。
おやすみ。
だれの声だろう、懐かしくも感じるし煩わしくも感じる。でもいやじゃあない。短い子守唄に寝かしつけられる。ああそうだ、これはおれのこえ。
急転する
穏やかで優しさを纏っていた彼のオーラとでも言うべき表層が、攻撃性を孕む獣のそれへと変わっていく。いや変化ではない。変転というには生易しいこれはそう、闖入だ。
「くく、ははは。それじゃあまるで侵略者、、あながち間違いでもないか。」
灰咬仁は不適に笑う。いや仁ではない。姿形、声はまるで同じなのにも関わらず、明確にそう言えるのは惑わされているからか。幻術の類ではない、中身だけがそっくりそのまま入れ替わってしまったかのように、しかし別人ではないそんな不可思議を宿している。
「迅とでも名乗っておこうか、区別した方が分かりやすいだろう??」
それは勿論のこと、しかしそれは字面でしか分からない。
「やはり、貴方にして正解でした。ジン・ハイガミに宿る貴方は、元の世界では手に余る。多分にね。」
仁と話していた時には微塵も無かった緊張が、アリアの身体を強張らせる。ふさふさの毛並みに隠された生身を冷たい汗が伝い、背筋を冷やした。
「宿す?くはは!笑わせるなよ野良猫が、俺が仁を宿してるんだよ。いや、飼っているとでも形容しようか。」
高らかに笑う、彼の言葉に大きな間違いはない。本来主たる仁の精神には主導権は無いのだから。
解離性同一性障害。既知の者は多いだろう、ひとりの人間に本来のものとは全く異なる人格が宿る精神疾患だが、彼の持つそれは一般のものより症状がひどく、人格の切り替えが簡単に出来ない。その最たるは、元の灰咬仁の人格に主導権の一切が無いということ。
つまり迅の思うまま、好きな瞬間好きなだけ身体の主導権を握ることができるのだ。それは飽きるまで、永遠やも知れん。
目の前の灰猫は向き直る凛とした座り方は、決意に満ち満ちている。
「ジン・ハイガミにお願いがあります。この世界の理を見定めて欲しいのです!」
狂気を孕んだ獣に理など、そう思う心はもちろんあるが時間がない。これはある意味賭けなのだ。アリアは縋るような瞳で彼を見上げる。
「断る。」
それはあまりにあっさりと、そして残酷に告げられた。
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