灰燼ト踊ル

式 神楽

第一章 第1話 こちらへどうぞ

 六限目終わりのチャイムが鳴る。六月三日水曜日、初夏。緑の葉をつける校舎横の桜の木が影になり、暑い日差しを遮ってくれる。クラスの喧騒も微睡みの中では遠く小さい。

 バシッ!

 「いっつぅ!」

 厚い紙束で脳天にヒットする衝撃で目が覚める、両手で頭を押さえ犯人を見上げると、腕を組み仁王立ちする男が怒り顔でこちらを睨んでいる。

 「気持ちよさそーに寝やがって。」

 顔を上げると担任の佐藤がノートを片手に仁王立ちする。

 「何もいきなり叩くことはねーでしょうがい。」

 軽く悪態をつくじんはどこ吹く風、背伸びをして一息つく。欠伸をする午後、暖かい風が吹き抜ける今日は、変わらずに静かな一日だった。いや、そうでもないか。

 最近になって酷い睡魔が体を襲い、五・六限の授業は起きていられなくなる程だ。体には覚えのない傷も増えた。取り巻く環境は平和だというのに、近頃身の回りで起きる奇怪な出来事が頭をよぎる。今朝なんて特にそうだ。

 

 朝七時半、まだ時間はある。登校の足取りは重くだらだらと道を行く。ふと、そう、本当にちょっとした思い付きだった。目の端の路地裏を覗いたのは変わらない毎日の風景への退屈であろうか、脇道の甘い誘惑が誘った。

 「こちらへ。」

 女性の声がした。こんな狭く暗い道でなにをしているのだろうか。奥へ、奥へと進んで行く。しかし、数度曲がった先は行き止まりで声の主は誰もいない。

 ペタペタという音の方向を見ると、塀の上を優雅に歩く灰色の猫がこちらを見つめている。

 「おーどうした、猫ちゃん。迷子かい?」

 撫で声で手を伸ばすが、するりと跳び逃げてしまう。すると、足元へと降り立った小動物はこちらを見上げている。

 「こちらへ。」

 再度腰を落とし手を伸ばそうとした瞬間、また声がする。

 「こちらへ。」

 あまりの驚きに尻もちをつく。動いたのだ、眼前の猫の口がはっきりと声に合わせて。後ずさり壁に背を付くと、彼女はこちらに一瞥すると壁に吸い込まれるように消えていった。悪い夢だ、猫が喋り手を招くなど飾り物でしかない。

 いつも通りの道。まだ六月、暑い時期でもないくせに見た陽炎が忘れられない。


 退屈なホームルームを終え帰路に就く、嫌に残る眠気に大きな欠伸で答えると、行きとは変わり軽い足を上げる。

 足を止めたのは朝の細道前。未だ鮮明に残る記憶とあの声が誘っている。

 「こちらへ。」

 ハッとする。幻聴と思いたいのに、耳に残る声が抜けていかない。何故かふらふらと、まるで密に誘われる蝶のように行き止まりへと行き着いた。

 声が聞こえるのは壁の向こうからで、恐る恐る撫でる指が浸かるように消えていく。思わず手を引くが指はしっかり付いている。溶けたわけでは無いようだ。

 再び手を触れる。今度は思い切って腕まで入れるが、壁に空いた見えない穴は際限なく身体を飲み込んでいく。

 五体全てが穴を抜ける。眩しい光が瞳に差し、思わず顔を覆う。さっきまで夕日に染まっていた世界は、雲一つない青空に照らされ輝いていて、目の前に広がるのは一面だだっ広い草原のみ。コンクリートの人工物など何処にもない。

 「ようこそこちらの世界へ。」

 草原に座る猫は朝見た彼女。猫はマタタビに誘われるというが、この子は俺をどうしたいのだろうか。

 六月、季節は初夏、だったはずの日常は今壊された。天使のように綺麗な眼をした灰猫、彼女は敵か味方か。未だ知る由もない仁の眼には、世界を崩した悪魔のように美しく映った。

 

 

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