第二十七話 白百合の姫、準備をする
私はすぐに、踏み込んではいけないところに踏み込もうとしていたことに気づいた。
だけど気づいたところでもう手遅れだった。
「あ、あの、変なこと聞いてごめんなさい……」
「いいってことよ」
イェルフはそう言うと、革袋の中身を一気に腹の中に流し込んだ。
それから、大きなげっぷを一つ。
血走った酔眼をこちらに向けて、口を開く。
「いいか、一つだけ教えといてやる。
地龍の眼を直視するな。特に光ってるときはな。
少しだけ逸らしておけ。
あの光を目にすると、誰もが理由もなく酷い恐怖にさいなまれる。
これは俺の実体験からも、他の奴らの証言からも間違いねえ。
その恐怖心は、奴に近づくほど強くなる。
奴に最も近づいた五人は、全員この眼にやられた。
たぶん、武器を突き立てるその最後の瞬間まで目を離さなかったんだろうな。
奴が逃げ去った時にはまだ五人とも息があったが、心は既に死んでいた。
飯も食えなくなっててな。
体のほうもそのままゆっくりと衰弱して死んだよ」
話し終えて、彼はまた視線を手元に落とした。
そこには空になって萎びた革袋がへにゃんと垂れ下がっている。
「皆、立派で勇敢な戦士の中の戦士たちだった。
あいつらは、恐怖に打ち勝ち、その任務を全うしたんだ。
なのに、俺は……俺は……」
イェルフは革袋を口に当てたが、すぐにもう中身が空っぽだったことを思い出して、力なく項垂れた。
そしてそのまま、声を押し殺して泣き始めてしまった。
私は無神経にも、彼の、まだ癒えていない心の傷に手を突っ込んでしまったのだ。
なのに私は、ただオロオロすることしかできない。
かける言葉も見つからなかったし、大人の男の人がこんな風に泣くのを見たのも初めてで、いったいどうすればいいのかさっぱりわからなかった。
イェルフはしばらくの間泣き続けていたが、やがてゆらりと立ち上がってフラフラと歩き始めた。
「ど、どこに行くの?」
私の問いに彼は振り返ることなく答えた。
「酒を取りに行ってくる。
なに、すぐ戻る」
仕方がない、のだろうか?
彼の背中を見送りながら、ふと悟った。
イェルフは死に場所を求めてこの遠征に参加しているのだ。
だとすればイェラナイフが「槍による仇討ち」を頑なに拒んでいた理由も分かる。
彼は、イェルフを死なせたくないのだろう。
私はそのままイェルフが戻ってくるのを待った。
ところが彼は一向に戻ってこなかった。
心配になって様子を見に行くと、イェルフは酒樽の前でグウグウとイビキをかいていた。
これではもう仕事になりそうにない。
その平和な寝顔に文句の一つも言いたくなったけれど、私には多分その資格がない。
結局その日はイェルフは目を覚まさず、私は溝掘りの手伝いをして過ごした。
*
そこからの日々は瞬く間に過ぎていった。
イェルフは次の日も、そのまた次の日も何事もなかったように私との訓練に付き合ってくれた。
おかげで私のツタの強度も随分と上がり、いまではイェルフが全力で突いても表面に小さな傷がつくだけだ。
それでも以前であればその小さな傷から魔力が漏れ出て、あっという間にツタが萎んでしまっていた。
だけど今は一部が傷ついても、魔力を流し込んで一時的に穴を塞ぐなんてことまでできるようになった。
イェラナイフたちの作業も順調で、溝形の落とし穴はもうすっかり出来上がっている。
今はネウラフの指導の下、目玉を撃ち抜くための大弩の訓練に余念がない。
ネウラフによると、固定された的に対してならみんな既に百発百中らしい。
後は私が奴を抑え込めるかに勝敗がかかっていると言っても過言ではない、と激励された。
そして五日目、方位盤を眺めていたイェラナイフが、皆を集めて「いよいよ明日だ」と宣言した。
その日の晩御飯は、少しだけ豪華になった。
といっても、イェンコも起きている時間の大部分を訓練に充てていたから、料理そのものはごく簡単。
薄切りにした塩漬け肉に、チーズ、固めのパン、それからお酒。
それらの量が増えただけの話だ。
せめて温かい食事にしようとイェンコが焚火を起こし、皆でそれを囲んで塩漬け肉を炙った。
「こんなものが最後の晩飯になるかもしれんとは、侘しいのう」
イェンコが串に刺したチーズを遠火に当てながらぼやく。
ディケルフがそんなイェンコを励ますように声をかけた
「大丈夫ですって。勝てばいいんです。
またみんな揃ってごちそうを食べましょうよ」
そう言う彼も、いつもよりだいぶ口数が少ない。
食事だってあまり進んでいないようだ。
それは他の皆も同様で、焚火の周りはどこかピリピリとした空気に覆われていた。
「そう願いたいところだが――あぁ!」
イェンコが返事をしかけて、突然切なげな悲鳴を上げた。
見れば、串に刺していたチーズが柔らかくなりすぎて焚火の中に落ちてしまったらしい。
彼はチーズを拾い上げようと慌てて串を焚火に突っ込んだが、トロトロに溶けたそれはもうどうにも助けられそうになかった。
イェンコが悲しげにため息をつき、周囲の空気が一層重くなった。
「まあ、お前ら。そう悲観することはないさ」
突然、イェルフが場違いに陽気な声を上げた。
彼はやおら立ち上がると、大げさな身振りでイェラナイフを示しながら続けた。
「こちらにおわすお方をどなたと心得る!
小石が原の合戦を初陣として、エルフどもの森を焼くこと三度、ゴブリンどもを荒野に追い散らすこと六度!
たった七人を率いてトロルの大群からヌメリの橋を守り切り、また、かの地龍への最後の反撃の指揮を執り見事追い払った我らが英雄!
常勝不敗の無敵将軍、〈間違い種〉のイェラナイフとはこいつのことだ!
おい、ナイフ。お前からも何か言ってやれ」
イェルフに促されて、イェラナイフは渋々といった様子で立ち上がった。
それから、背筋を伸ばして咳ばらいを一つして口を開いた。
「ああ、諸君。
まあ……なんだ。
既に、できる限りの準備は済ませた。
これ以上できることは何もない。
これでも勝てぬというのであれば、それはもはや神々の定めたもうた運命というほかはないだろう」
イェラナイフは気だるげな顔のまま言葉を区切る。
それから、ふいにいつものあの笑みを浮かべて皆を見回した。
「だが、裏を返せば、そうでもなければ我らの勝利は決して覆らぬということだ。
大丈夫、諸君らならば必ずやり遂げられる。
その点は、この俺が保証する。
だから、明日は万全の体調で挑めるよう、今夜はゆっくりと休んでくれ」
たったそれだけを言って、彼は元通り座り込んでしまった。
こういう時はもっと勇ましいことを言うものではないのかしら?
だけど、周りの皆はまんざらでもない顔だ。
常勝不敗の無敵将軍だなんて、イェルフが大げさに言っているのだとばかり思っていたけれど、案外本当だったのかもしれない。
*
仲間たちは食事も早々に切り上げて眠ってしまった。
イェラナイフはお酒も好きなだけ飲んていいと言っていたのに、皆それすら気持ち程度に飲んだだけだ。
イェルフに至っては水を飲んだだけで、一滴もお酒を口にしなかった。
それだけ、今度の戦いが彼にとって重要だということなのだろう。
方々からイビキが響いてくる中、私は一人、焚火の前に取り残されていた。
一度は横になったものの、さっぱり寝付けなかったからだ。
戦うのが怖いから、というわけではない。
距離をとって一方的に狙撃しようというのだから、森での戦と比べればむしろ危険は少ないぐらいだ。
私を不安にさせているのは無知だ。
私は一度も地龍と戦ったことがない。
本当に私の力がそいつに通用するのか、その判断材料を私自身は一つも持っていないのだ。
そしてもし私の力が通じなければ、仲間と〈浮遊城〉とを危険にさらすことになる。
それは私自身が危険な目に合うよりも、ずっとずっと恐ろしいことだった。
私の力が全く及ばないというのなら諦めもつく。
私にはどうにもならないことなんて、昔から山ほどある。
だけど、今回はそれすら分からないのだ
何もかもが私の双肩にかかっているというのに、できるのか、できないのか全く判断がつかない。
同じ腹をくくるでも、自信をもって踏ん張るのと、諦観の上に覚悟を決めるのとでは種類がぜんぜん違う。
このままでは気持ちの据えどころすら定まらない。
そのことが私をひどく不安な気持ちにさせていた。
とはいえ、このまま考え続けたところでどうにかなるわけでもない。
少しでも早く寝て、体調を整えた方がいくらかましだろう。
いっそのことお酒を痛飲して無理やり寝てしまおうかとも思ったけれど、それで二日酔いにでもなったら目も当てられない。
どうしたものかと悩む間にも、ズルズルと睡眠時間が削れていく。
焦りは募るばかりで、目はますます冴える。
このままこうしているよりはましだろう。
意を決してお酒を取りに行こうとした瞬間、背後から声がかかった。
「眠れないのか?」
振り返ると、イェラナイフが自分の寝床から半分身を起こしてこちらを見ていた。
「え、ええ。そんなところ」
「何も考えず、横になって目をつぶっていろ。
眠るにはそれが一番の早道だ」
「それができれば苦労はしないわよ」
そんなのは最初の最初からいきなり無理な要求だ。
どうしたって、うまくいかなかったときのことが頭に浮かんでしまう。
「……まあ、そうだろうな。
だが、あまり酒には頼るなよ。明日に差し支えるしなにより――」
イェラナイフはちらりとイェルフに目をやった。
「キツイときの酒は身に沁みすぎる」
それだけ言うと、彼はこちらに背を向けてごろりと横になってしまった。
「あ、待って」
「なんだ」
イェラナイフはまた身を起こすと、面倒そうにこちらに顔を向けた。
「え、えっと、その……」
思わず呼び止めてしまったけれど、別に用事があるわけではない。
ただ、一人になるのが寂しかっただけだ。
もう少しだけ、誰かの声を聴いていたかった。
「あ、あの、そうだ!
貴方たちの国の昔話でも聞かせてくれないかしら」
イェラナイフが訝し気に眉をひそめた。
「こんな時にか?」
「子供の頃、眠れないときにお母様がお話を聞かせてくれたの。
そしたらよく眠れたから……何か聞かせてよ」
「すまんが、俺はそういう話はあまり詳しくないんだ」
「じゃあ、貴方のことを話して。
自慢話でも、何でもいいから」
自慢話なんてものはたいてい退屈なものだ。
聞いているうちに眠くなるかもしれない。
それに、よくよく考えてみれば私は彼について何も知らないのだ。
他の皆は彼は英雄だと言う。
自慢話でも聞いて、彼がいかにすごい英雄かを知れば、私も皆のように安心して眠れるかもしれなかった。
「……聞いたところで愉快な話にはならんぞ」
「いいから聞かせて。お願い」
私がかわいらしくお願いすると、イェラナイフは小さくため息をついた。
「さっさと自分の寝床で横になれ。
そしたら聞かせてやる」
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