第八話 白百合の姫、二日酔いになる
頭がガンガンする。
風邪をひいたときと似ているようで似ていない、生まれて始めての感覚だ。
これが二日酔いというものなのかしら。
昨晩は「肉を讃える宴」なるものが催されていたのだ。
主役はもちろん、私にイェンコ、それからディケルフの三人だ。
持ち帰った獲物は山鳥が二羽にウサギが一匹。
八人で分ければ本当にささやかな量の肉でしかないけれど、それでもみんな大喜びだった。
なにしろ、日の暮れたころにどこからか戻ってくるなり肉の焼ける臭いをかぎつけた彼らは、地下の倉庫――元からあったものではなく、彼らがこの小屋に増設したらしい――から未開封の酒樽を担ぎ上げてくると、それを丸机の真ん中に置いて周囲をぐるぐる回りながら歌い始めた程だ。
彼らは陽気で、ごつい見た目に似合わず歌もうまい。
あんまり楽しそうだったので、知らない歌だったけれど私も一緒になって歌った。とても楽しかった。
ローストされた肉をイェラナイフがみんなに手ずから切り分け始めると、皆が大興奮で机をたたき始めるものだから、肉を乗せたお皿が机の上でピョンピョンはねた。
私の前には一番大きく切り取られた肉が置かれ、上機嫌のドワーフたちが代わる代わるお酒を注ぎに来てくれた。
お酒を飲んだのは初めてじゃない。お城の貯蔵庫には最上のワインだって納められていた。
だけどこんなに楽しくお酒を飲んだのは初めてだった。
皆に勧められるまま大いに飲み、最初の樽が空になったあたりで私の記憶は途絶えた。
そして現在。朝。
私はベッドの上で目を覚ました。
自分で入ったのか、それとも誰かが運んでくれたのか、それすら定かではない。
頭を少し動かすだけでも響くように痛む。どうやら飲みすぎたらしい。
痛みをこらえながらどうにか上半身を起こすと、既に寝室は空っぽになっていた。
ドワーフたちはもう働きに出ているのだろうか?
彼らが酒に強いというのはどうやら本当だったらしい。
そして、とても勤勉だという話も。
それでも私だけは起こさずにおいてくれた彼らの優しさに感謝しつつ寝室の扉を開けると、ドワーフたちが空樽と一緒にだらしなく床に転がっていた。
空き樽の数は三樽。
お酒が好きなのは本当みたいだけど、勤勉かどうかはだいぶ怪しくなってきた。
それにしても頭痛がひどい。
こういう時はどうすればいいんだったかしら?
確か、もう一杯お酒を飲めば痛みが和らぐとかなんとか……いや、これはたぶん間違いだ。
それでは酔いが醒めかけるたびにお酒を飲む羽目になる。
とにかく水を飲もう。口の中はもうカラカラで、全身が水を求めている。
やっとの思いで水瓶をのぞいてみたら、既に空っぽになっていた。
水……水は……確か外に井戸があったはずだ。
面倒だけれど、汲みたての新鮮な水のほうがきっと美味しいだろう。
カナリアたちが天井の隅からピーピーと餌を要求してきた。
まだ誰も朝ご飯をあげていないらしい。
この惨状では当然か。
だけど、今は無理だ。いつもならかわいく聞こえるその囀りでさえ頭に響く。
「ごめんね。餌は後であげるから……」
そう呟いて、フラフラと扉へと向かう。
床にはドワーフたちが転がっているから、いちいちそれをよけて歩かないといけない。
ドワーフにしてはひょろりと長いイェラナイフをまたぐのは簡単だった。
太っちょのイェンコをまたぐのは一苦労。
ようやくまたいだその先、椅子でできた死角に小柄なケィルフが転がっていて危うく踏みそうになる。
おっとっと。
ケィルフをよけようとしてバランスを崩しかけ、片足で跳ねながらかろうじて持ち直す。
跳ねるたびに頭が痛むが、それでもどうにか持ちこたえた自分を褒めてやりたい。
ようやく扉にたどりついた。
そのまま、縋るようにして外につながる扉を開く。
森の空気はひんやりとしていて心地よい。
既に日は高く昇っているようで、見上げれば緑の天井の隙間から木漏れ日がキラキラと輝いている。
冷えた空気を胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
井戸のほうを見ると先客がいた。
誰かと思えば〈酔っ払い〉のイェルフだ。
井戸の縁に腰を掛け、棒砥石を手に一心不乱に槍の穂先を研いでいる。
「あら、――」
おはよう、と言いかけて私は言葉を飲み込んだ。
槍を研ぐ彼の目つきがあまりに真剣だったからだ。
あれの邪魔をするのはさすがに気が引ける。
とはいえ立っているのも辛いので、足音を立てないようそっと井戸の近くの切り株まで移動した。
ここで彼の作業が一区切りつくのを待つことにしよう。
シャッ、シャッ、シャッ……
穂先が棒砥石の上を滑る単調な音が続く。
しばらくしてその音が止まった。
イェルフは研いだ穂先を布でそっとぬぐうと、しげしげと研ぎ具合を確認し始めた。
もういいだろう。
「おはよう、イェルフ」
私は切り株に座ったまま声をかけた。立つのも少ししんどかったからだ。
彼は私の存在にまるで気が付いていなかったらしく、少し驚いた顔で振り返った。
「ああ、嬢ちゃんか。おはよう。
他の連中はまだ寝てるのか?」
「ええ、ぐっすりと。
ところで井戸を使いたいんだけど、いいかしら?」
「ああ、すまなかった。
……二日酔いか?」
「多分。初めてだからよくわからないけど」
「ならそこで座ってろ」
彼はそう言って立ち上がると、水桶一杯に水を汲み上げて私のところまで持ってきてくれた。
「コップは持ってこなかったのか?」
「あ」
イェルフに言われて初めて私は手ぶらで出てきてしまったことに気づいた。
ひどい頭痛がする上に、あまりにも喉が渇いていたのでそこまで気が回らなかったのだ。
「ならこれを使え」
そう言って彼はベルトにつるしていた
よく磨かれた牛の角に、繊細な幾何学模様の彫刻と銀の縁取りが施された上等な品だ。
「あ、ありがとう……」
この人、こんなに親切だったかしら?
知り合ってまだ二日ばかりしかたっていないけど、彼についてはその名のごとく〈酔っ払い〉のイメージしかない。
この間だって、私のことを酒樽と交換したそうな目で見ていた。
それが突然こんなに紳士的にふるまい始めたのだから戸惑わずにはいられない。
私がおずおずと角盃に手を伸ばすと彼は不思議そうに言った。
「どうした?」
「いえ、いつもと全然雰囲気が違うものだから」
私の答えに、彼は少しだけ顔をしかめた。
「素面だからだろう。
寝起きなんでな。酒が抜けてるんだ」
なるほど。
「あなた、お酒に強いのね」
私の朧げな記憶によれば、彼は他のドワーフよりも一回り早いペースで飲みまくっていたはずだ。
それでも一番早くに起きているのだから大したものだ。
「いいや弱いよ。
だからいつも酒に飲まれている」
「お酒に? お酒を、じゃなくて?」
「そうとも。
俺が酒を飲んでるんじゃない。
俺が酒に飲まれてるんだ」
意味が分からない。謎かけか何かだろうか?
首を傾げたら、頭が揺れて痛みが響いた。
「分らんなら分らんままのほうが幸せだ。
嬢ちゃんはそのままでいるがいい」
また子ども扱いされているような気がする。
どうもドワーフ達から見ると人間の女性は幼く見えるらしい。
確か、この間も髭がどうとか言ってたっけ。
「私、もう子供じゃないんですけど」
一応抗議してみた。
「そういう意味じゃない。
嬢ちゃんに限らず、誰だってこんな惨めな気持ちを知る必要はないって話さ。
それよりもほれ、水を飲みに来たんじゃなかったのか」
すっかり忘れていた。
私は角盃を桶に沈めて水で満たす。
井戸から汲んだばかりの水はひんやりしていて気持ちがよかった。
一気に飲み干す。
こんなに美味しい水は初めてだ。昨晩飲んだお酒よりも美味しいかもしれない。
もしかして、世の酒飲みたちはこの水が飲みたくてお酒を馬鹿飲みしているんだろうか?
「一杯じゃ足らんだろう。
もっと飲んでおけ。腹がタプンタプンになるぐらいな。
そうした方が早く楽になる」
彼はそう言いながら少し離れたところに腰を下ろし、再び棒砥石を手に取った。
槍研ぎを再開するつもりらしい。
酒飲みの彼が言うからには、その助言は多分正しいのだろう。
私は角盃を桶に沈め、それからまた飲み干した。
美味しい。
一息ついていると、カチカチと何かが金属にぶつかる音が聞こえてきた。
イェルフのほうからだ。
みれば、手が震えてうまく砥石に当てられない様子だ。
彼は私の視線に気づくと、ふうとため息をついた。
それから気まずそうな苦笑いを浮かべて言った。
「やれやれ、一度でも集中が途切れるともうダメだ。
今日はここまでだな」
集中が途切れたのは私が声をかけたせいだろう。
「悪いことをしたわね」
「嬢ちゃんは悪くない。俺が弱いせいだ。
酒が抜けるといつもこうなんだ」
彼はそういって棒砥石をしまうと、震える手で穂先を布でぬぐい始めた。
「かといって、こればっかりはな。
大事な儀式だ。酔っぱらって研ぐわけにはいかん。
本当はきちんと砥石でやらなきゃいかんのだが……」
「だったら最初から飲まなければいいじゃない。
それに今のあなた、とっても素敵よ。いつもこうだったらいいのに」
酔っぱらっている時な彼は、目がトロンとしていていかにもだらしがない。
でも今は違う。目つきはキリッとしているし、物腰もとても紳士的だ。
心なしか、ボサボサの髭までいつもより整って見える。
だけど、私の心からの言葉を聞いた彼はひどく悲しそうな顔をした。
「わかっちゃいるんだ。
わかっちゃいるんだがな……」
そう言って彼は、手元の槍に視線を落とした。
とても奇麗な槍だった。
幅広の穂先にはドワーフらしき人物が怪物を突き殺すさまが金銀の象嵌で精緻に描かれている。
穂先の根本には大きな宝石が嵌め込まれていて、血のように赤い輝きを放っていた。
先祖伝来ということならば、この宝石は実際に多くの血を吸ってきたのだろう。
ややあって彼は言った。
「嬢ちゃん、水は十分飲んだか?」
「え、ええ。ありがとう」
彼は私が差し出した角盃を受け取ると、腰の吊り輪にひっかけた。
「用が済んだなら、小屋に戻ってみんなを起こしてきてくれ」
「あなたは?」
「俺は」
と、彼は震える手で反対の腰につった革袋を外しながら言った。
「そろそろ陽気な、〈酔っ払いのイェルフ〉に戻らにゃならん。
さあ早くあっちに行ってくれ。
あまり他人に見られたくないんだ」
多分、彼を止めるべきなんだろう。
だけど口を開こうとした瞬間、さっき彼が浮かべたあの悲しげな表情が脳裏に浮かんできて私は何も言えなくなってしまった。
私の言葉ではきっと彼を止めることはできないし、そのことで彼はかえって惨めな思いをするに違いないのだ。
どうしていいか分からず、私は彼に背を向けた。
お兄様なら、こんな時どうしただろうか?
あるいはお義姉さまなら?
多分私よりかは気の利いた言葉をかけることができたはずだ。
そういう言葉を思いつけない私はやっぱりまだ子供なのだろう。
私はそっと唇をかんだ。
*
準備を整え、昨日のメンバーと一緒に小屋を出る。
目的は食料の調達。
ひとまず昨日仕掛けた罠をめぐりつつ、食べられそうな植物があれば私の魔法で増やして回収する段取りだ。
その道すがら、イェンコたちにイェルフのことを聞いてみた。
「あの人、昔っからああなの?」
「ああというのは、酒のことかね?」
「ええ」
「なにか不快なことでもされたかね」
「そうじゃないけど……ただ、何かわけがありそうだったから」
イェンコは少し考えるようなそぶりを見せたが、「もう仲間だしなあ」と呟いてから答えてくれた。
「まあ、そう昔の話じゃない。
今から一年前、地龍の襲撃をうけてからだ。
あいつは〈はがね山〉の専業戦士の一人でな。
代々戦士たちの長を務めてきた一族の惣領息子で、あいつ自身〈山〉でも五指に入る戦士だった。
だがあの戦いで、同じ隊の戦友を全員失ってな。
それ以来ずっとあんな感じだ。
そうして新しい隊にもなじめず、とうとう盾の壁からも放り出されちまったのさ」
「盾の壁ってなに?」
「あんたらがどんなふうに戦をするかは知らんが、
わしらは戦をするとき、ずらっと横に並んで盾でみっしりと壁を作るのよ。
それが盾の壁だ。
列の両隣の戦士たちは常に互いを守りあいながら戦う。
必然、隣のやつが死ねば自分も死ぬことになる。
だから、盾を並べる仲間は互いに信頼しあっていなければならんのだ」
なるほど。酔っ払いに自分や仲間の命を託したいと思える人は確かに少ないだろう。
「最初のうちは、壁の仲間たちも必死で酒をやめさせようとしていたんだ。
だが、どうしてもあいつは酒をやめられなかった。
今ではもう皆諦めてしまっているよ」
「隊長を除いて、ですけどね」
ここまで列の先頭で黙って話を聞いていたディケルフが口を挟んできた。
「あの人だけは、イェルフさんは自力で立ち上がれると信じてるんですよ」
「あの二人は長い付き合いだからのう……」
「厳しいように見えて、妙に甘いところありますよね。
今回の遠征だってきっと――おや?」
ふいにディケルフが足を止めた。
「何か聞こえませんか?」
そういわれて耳を澄ませると、罠を仕掛けておいたほうからガサガサという物音が聞こえてくる。
私たちは顔を見合わせた。
「こりゃあ、大物がかかっておるみたいだの」
「そうみたいね」
そろって自然と笑みがこぼれる。
「早くいきましょう!」
今夜もごちそうが食べられそうだ。
藪をかき分けて、いそいそと罠のもとへむかう。
かかっていたのは通常より一回り体が大きい、立派な牙を持つ猪だった。
足に絡まる蔓草を振りほどこうと必死で地面を掻いているが、私の魔法で強化されたそれはびくともしない。
それどころか、弓よりもはるかに強くしなる枝によって数歩進んではズルズルと引きずり戻されている。
「それじゃあ、さっそくとどめを刺そうかの」
そういってイェンコとディケルフが持参していた戦斧と盾を構えたのを私は引き留める。
「もう少しやりやすくするから、ちょっと待ってもらえる?」
「じゃあ、よろしくお願いします」
ディケルフの目が好奇心で輝いている。
残念だけど、それほど大したものを見せられるわけではない。
私は改めて蔓と枝に念を送った。
その瞬間、しなっていた枝が空に向かってピンと伸び、同時に蔦がシュッと縮む。
結果、猪はピョンと持ち上げられて宙づりになった。
これでもう逃げようがない。
ついでに蔓を操作して後ろ足を縛り上げ、ぐるりと逆さ吊りにする。
「これでやりやすくなったでしょう?」
「なるほど、そのまま解体に移行できるってわけですか。
魔法ってのはやっぱり便利ですね」
そうでしょうそうでしょう。
「もっと褒め讃えてもいいのよ?」
「いやまったく、お嬢さんの力は素晴らしい!
じゃあ、さっそく――」
イェンコが踏み出しかけたその瞬間
バンッ!
私たちの背後で、大きな弓鳴りがしたかと思うと、猪にごく太の矢が突き刺さった。
その反動でか、吊るされた猪がくるくると回る、
矢は正確に猪の心臓を貫いて、その体の反対側に鏃を覗かせていた。
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