第三話 鏡の魔女、追手を放つ

 城の警備責任者である衛士長のオッターは、王妹付きの侍女であり妻でもあるミレアから事のあらましを聞かされて思わずため息を漏らしかけ、あわやというところでそれを飲み込んだ。

 一人でいる時ならばいざ知らず、配下の衛士たちの前でそのような緩みを見せるのは、彼の誇りに反することである。

 いみじくも先王陛下より〈鋼のオッター〉の二つ名を賜った身であれば、常にその名に恥じぬ男であらねばならない。


 ここに至る経緯については、彼自身色々と思うところはある。

 だが女どもの争いに口を出せばろくでもないことになるということを、この老兵はよくわきまえていた。

 実際、彼の祖父はそれで命を落としたと伝え聞いている。

 だから彼は王妃陛下や王妹殿下、それから宮廷の奥方たちへの感情に厳重な封を施して、全てを事務的に処理することにした。


「まずはこの狼藉者どもを地下牢に放り込め。

 ツタを解く前に、手枷と足枷がきちんとはまっているかしっかり確認しろ。

 こいつらは本物だ。油断するな。

 牢に放り込む前に必ず服をひん剥いておけ。

 口はもちろん、尻の中まで徹底的に検査しろ。

 どこに何を隠しているかわからんからな。

 なに、手枷が邪魔で服を脱がせられない?

 構わん、服なぞ切り裂いてしまえ」


 オッターは矢継ぎ早に指示を出しながら、同時に次にとるべき行動に考えを巡らせる。

 結論はすぐに出た。

 何よりも重要なのは、安全の確保であろう。


「全衛士の非常呼集はすんでいるな?

 まだ他に侵入者が残っていないとも限らん。

 警戒を厳にしつつ徹底的に捜索をかけろ」


 女の争いには手を出さずとも、侵入者への対処は彼の領分だ。

 それが誰の指示によるものであれ、賊の侵入を許したことは重大な問題である。

 標的が白百合の姫であったのは不幸中の幸いだった。

 かの姫君はそうそう殺せるものではない。

 例えば、もしこれが他国が国王陛下を狙って放った刺客であったなら大惨事になっていただろう。


「奴らの侵入ルートも徹底的に洗いだすのだ。

 二度とこのような事態を引き起こしてはならん」


 警備体制の見直しも必要になる。

 国王陛下に増員を要請するべきだろうか?

 信頼に値するものを雇い入れるのは骨が折れる。

 陛下がお戻りになる前に候補を挙げておかなくては。


「衛士長、ナハマン妃への報告はいかがいたしましょう」


 衛士の当直長がオッターに訊ねてきた。


 ナハマンとはお妃の名である。

 彼女ははるか南、遠い異教の地からやってきた。

 正式な名乗りは「ボルレアケ族の王ボルレの娘、マノア王ジリノスの妃にして〈鏡の魔女〉たる慈愛の淑女、〈漆黒〉のナハマン」となる。


 なるほど、この騒動の顛末について一番知りたがっているのはお妃に違いない。

 おそらく、一睡もせずに警備の者から上がるであろう報告を――暗殺の成否の報せを――待ち構えているはずだ。

 オッターはまじめ腐って当直長に答えた。


「無暗に御婦人方を怖がらせるものではない。

 明日の朝、ワシが自ら報告する。

 それまでは何もお知らせしてはならん」


 当直長はその意図を察してニヤリと笑うと、「皆にも徹底させます」と言って、己の職務を果たすべく立ち去っていった。


 これぐらいの意趣返しは許されるはずだ、と衛士長は思う。

 あの魔女のおかげで、こちらは当分寝ることもできないほど忙しくなるのだから。


 これだけでは到底割に合わない気もするが、まあいい。

 オッターはお妃の境遇に思いを巡らせた。

 ここに至った経緯については大分同情の余地がある。

 むしろよくこれまで耐えたものだ。その忍耐強さは驚嘆に値する。

 これが騎士同士であったなら、とうの昔に決闘騒ぎが起きていただろう。

 姫様もご無事であったようだし、残りはまあ、警備体制に不備があることを教えていただいたわけであるから、こちらの授業料ということで収めておくとしようか。

 お妃の処遇は国王陛下がお考えになることであり、彼の領分の外の話だ。


 オッターはこのようにして己の中での折り合いをつけると、これに関する思考を打ち切った。

 なにしろ、彼には意趣返しを抜きにしてもやらねばならないことが山ほどあった。


 そうした訳で、お妃の下を衛士長が訪れたのは翌朝の、それも随分日が高くなった後だった。


 オッターは、お妃の部屋の扉にかけられた大きな鏡の前に立つと、徹夜仕事でよれ切っていた身だしなみを念入りに整えた。

 乱れた服装で御前に出ることはまかりならぬ、必ずこの鏡の前で服装を整えるようにと、お妃からお達しが出ているためである。

 廷臣たちの中にはこのお達しをバカにして、身嗜みを整えぬまま入室する者が少なからずいた。

 お妃は盲目なのだから服装が多少乱れていたとて気づくものか、というわけである。


 オッターはそうした同輩たちの態度を常から苦々しく思っていた。

 これは見える見えないの問題ではない。

 お妃の命に従うか従わぬか、つまりその権威を認め敬意を払うか否かの問題なのだ。


 彼のお妃への第一印象は『烈女』であった。

 細く、整ったその容貌は美しさと同時に傲慢さをも見る者に感じさせた。

 体の隅々まで神経の行き届いた、高貴で繊細で、緊張感のある所作がなおのことその印象を強めていた。

 その様を見たオッターは、風習はもちろん信じる神すらも違うこの土地で、果たしてこのような気性の持ち主がなじめるものかずいぶんと危ぶんだものだった。

 だが、彼女は確かに傲慢ではあったかもしれないが、それ以上に柔軟だった。

 この国の言葉や作法、風習を身に着けるために彼女はあらゆる努力と労苦を惜しまなかった。

 そして実際に、短期間でそれらを完璧に習得して見せたのだ。

 激しい気性を内に秘めながら高い知性と強靭な意志でそれを飼いならす、まさに女王と呼ぶにふさわしい、敬意を払うに値する人物。

 それがオッターの、ナハマン妃に対する評価だった。


 服を整え、扉に向かって名乗りを上げようと息を吸い込んだところで、内側から声がかかった。


「オッターか。入れ」


 お妃の美しい声と共に、部屋の扉が音もなく開かれた。

 お妃は、どういうわけか扉の前に立つ人物をいつも正確に言い当ててくる。

 どうしてそんなことができるのか、毎度のことではあるがオッターにはいくら考えてもわからなかった。

 盲人はその視力を補うように聴覚が鋭くなるとはいうが、この分厚い樫でできた扉を通して、外の僅かな物音を聞き分けることなどできるものだろうか?

 あるいは、これも魔女の力のなせる業かもしれなかった。


(まあいい)


 オッターはいつものようにその疑問を頭の片隅に押しのけると、部屋の中へと進む。

 間の悪いことに、部屋の奥ではお妃が椅子の背に体を預けながら、疲れ切った様子で王太子――国王陛下が出征した後に産まれたため名前はまだない――に乳房を含ませているところだった。

 

「し、失礼いたしました」


 オッターが大きくはだけられた黒い胸元から慌てて目をそらした。

 いまやこの国において『誰よりも完成された淑女』となりおおせた彼女であったが、当人がどれだけ努力しようと変えられないものがあった。

 その一つが、肌の色である。

 〈漆黒〉の二つ名が示す通り、その肌は遥か東方で作られる漆器の様に黒く、滑らかで、美しい。

 だがその色はこの国ではあまりに異質であるがゆえに、宮廷の奥方衆からの評判はすこぶる悪かった。


 急いで踵を返そうとしたオッターだったが、しかしお妃に引き留められてしまった。


「構わぬ。昨晩はずいぶんと騒がしかったではないか。

 おかげで坊やが寝付けず、わらわも一睡もできなんだわ。

 なんぞ、説明をしてくれるのであろうな?」


 そう言ってお妃が大きくあくびをすると、それに合わせて彼女の胸元の、鏡をあしらった首飾りが大きく上下した。

 オッターはお妃の顔色を窺った。

 彼女はいつも通りに黒地に煌びやかな金刺繍を施した目隠しをかけていた。

 そのため目元の様子を知ることはできなかったが、その声色には確かに疲れが滲んでいる。


(まあ、眠れなかったのは事実だろうな)


 そんな思いをおくびにも出さず、オッターは彼女の前に片膝をつき、事の次第を淡々と報告した。


「お騒がせして申し訳ありません。

 昨晩遅く、狼藉者どもが城内に侵入いたしました。

 幸いにも狼藉者どもは王妹殿下により捕縛されたため大事には至りませんでしたが、あるいは残党どもが残り潜んでおらぬとも限らず、衛士総動員の上、城内をくまなく捜索しておりました」


「おお、恐ろしい!」


 お妃はわざとらしい声を上げながら、赤ん坊を抱きよせるようにして身をすくませる。


「して、我が義妹いもうとは無事であるか?

 お手柄ではあったようだが、怪我なんぞはしておらぬか?」


「はい、お妃様。王妹殿下にもお怪我はありません。

 しかし――」


 オッターはそこで口ごもった。

 まさか当人を前にして「姫様は貴女を怖れて逃亡いたしました」とは言いづらい。


 オッターはお妃の表情を読もうと、微かに視線を上げた。

 だが大仰な目隠しに阻まれ、彼に見えるは口元ばかり。

 真っ黒な顔に白い歯のみがわずかに覗くさまに不気味さを覚えこそすれ、有益な情報は何も得られなかった。

 それ以上にオッターをして不安を感じさせたのが、目隠しに施された金刺繍だ。

 そこには異国の神の双眸が縫い取られており、お妃の閉じた眼に代わって彼を睨み下ろしていた。

 その視線に「決して嘘は許さぬ」という圧力を感じ、オッターはどことなく落ち着かない気分にせられた。

 しかし、いかに強力な神であろうと、遠く隔たったこの地にまでその力が及ぶものだろうか?


「どうした?」


 言いよどむオッターに、お妃は常と変わらぬ口調で続きを促した。


(えい、ままよ)


 オッターは口を開いた。


「王妹殿下は、此度の事件にお妃様が関与しているのではないかとお考えになり、身の安全のため出奔なされたとのこと。

 現時点では、城内にはおられません」


「なんとまあ!」


 お妃はひどく間の抜けた声を上げた。


「酷い誤解じゃな。

 わらわがそのようなことをするはずがないというのに。

 それで義妹の行方は分かっておるのか?」


「……分かりませぬ」


 金糸の神眼が気になりはしたが、こればかりは口を割るわけにはいかない。

 だが、お妃は聡明な女性である。

 神眼云々を抜きにしても、きっとこの嘘は見抜かれているだろうという確信がオッターにはあった。


 しばしの沈黙。

 オッターの頬を冷や汗が伝っていく。


「なるほど。

 行方が分からぬとは心配じゃが、無事であるのならまあよい。

 ご苦労であった。下がって良いぞ」


「はっ」


 だが、幸いにもお妃はそれ以上彼を追求する気はないらしかった。

 退出を促された彼は、お妃に一礼したのち扉へ向かう。

 その背にあるはずのないお妃の視線を感じたが、振り返る勇気は彼にはなかった。



 オッターが扉から出ていくのを見送ったあと、お妃はぽつりと呟いた。


「……本当に、何も知らんのじゃが」


 今にも泣きだしそうな声だった。

 あの老衛士長は明らかにお妃を疑っていた。


 お妃とて、幾分か年の離れたあの義妹に対しては腹に据えかねる思いを抱いてはいた。

 もし、事故か何かで彼女が命を落としたならば、一人でこっそり祝杯を挙げるぐらいはしただろう。

 だからといって、自ら殺害を手配する程お妃の理性は擦り切れていなかった。


 国王陛下の――彼女の夫の――妹に対する溺愛ぶりは広く臣民に知られているところである。

 あれに危害を加えようものなら、ただでさえ苦しいこの国での立場がさらに悪化するのは目に見えていた。

 まして殺してしまった日には。

 一体誰がそんなことをするものか。


 だが、この国の人々はそうは考えないらしい。

 なるほど、殊のほか面目を重んじる北の人間たちからすれば、とうの昔に血を見ていてもおかしくないということなのだろう。

 常から彼女に対して同情的な態度を示すオッターですらああなのだから、城中の他の者たちがどう考えるかなど聞かずとも分かり切っている。


 疑いがかかっているだけでも危険としては十分すぎるが、お妃にとってはそれ以上に大きな問題があった。

 お城の人々はお妃を疑い、彼女から白百合の姫を隠せばそれで安全だと考えている。

 だが違うのだ。

 いくら姫をお妃から隠したところで、何の解決にもなっていない。

 義妹は今も狙われている。

 万が一、本当の黒幕が事を成し遂げたならば、お妃は濡れ衣を纏って死ぬことになる。

 冗談ではない。


 一刻もはやく義妹を呼び戻し、保護しなければならない。

 あの義妹がどれだけ強力な魔法を使えようとも限度というものがある。

 例えば、より強力な戦闘向きの力を持った魔法使い、あるいは単純な数の暴力。

 相手方の力の使用が制限される分、城中で護衛に囲まれているほうが安全なのだ。

 できれば直に話して誤解も解きたかった。

 だが、義妹を呼び戻そうにも、誰がお妃を信じてくれるだろうか。

 城中の者に使者を出せと命じたところでどうにもならないだろう。

 こうなっては自らを頼るほかない。


「ファラ! ファラはおるか!」


「はい、お妃。ファラはここに」


 一人の女が物陰から音もなく姿を現した。その肌の色はお妃と同じように黒い。

 ファラは、お妃が国許から連れ出すことを許されたただ一人の侍女であり、この国で信用のおける唯一の女でもある。


「鏡をここへ。それから、人払いを。

 しばらくの間、誰一人としてこの部屋に近づけてはならぬ」


「かしこまりました」


 お妃の前に、互いに尻尾を咥えあった二匹の金蛇の彫像に縁取られた鏡がおかれた。

 スウスウと可愛らしく眠る我が子をファラに託し、お妃は鏡に呼び掛けた。


「鏡よ鏡、己がおもてに映る景色をわらわにも見せておくれ……」


 お妃の脳裏に、鏡に向かって念を送る自身の姿が浮かんだ。


「鏡よ鏡、他の鏡を見せておくれ。お城の一番高い塔、そのてっぺんの部屋にある鏡、そこに映る景色を見せておくれ……」


 鏡に写る像がぐにゃりと歪み、波打つ。

 その揺れは時間と共にゆっくりとおさまっていき、やがて新たな像を結んだ。

 そこに映っていたのは紛れもなく、リリーの寝室の光景だった。

 同じ景色がお妃の脳裏にも浮かぶ。

 お妃は鏡への集中を一層高めながら次なる念を送る。


「鏡よ鏡、時を遡り、過去の景色を見せておくれ……昨日の夜、月明りの下で起きたことをわらわに教えておくれ……」


 鏡の中の像が再び揺らぐ。

 お妃は息を止め、その意識の一切を鏡に集中させる。

 グニャグニャと捻じ曲がる像をもう一度安定させるには、お妃の力をもってしてもなお、額に汗がにじむほどの努力を必要とした。

 やがて先ほどと同様に揺れは小さくなっていき、鏡の中にリリーとミレアが映し出された。

 その足元には黒ずくめの男たちが転がっている。

 物音一つ聞こえはしないが、問題はない。

 唇の動きを読めばそれで事足りる。


 知るべきことを知ったお妃は、集中を解いて大きく息を吸い込んだ。

 途端に脳裏に浮かんでいた虚像が鏡の中のそれと同時に消え去った。

 額の汗をぬぐいながらつぶやく。


「……なるほど、〈闇夜の森〉か。

 しかし、さて、どうしたものか」


 厄介なところに逃げ込まれた。

 森の中で人を探すだけでも大変なのに、相手はあの白百合の姫、森の木々と草花に愛された魔女である。

 お妃はしばし黙考。自身の、数少ない秘密の友人たちを順に思い浮かべていく。

 いずれも、森の奥で時折催される宴で知り合った者たちだ。

 彼ら、あるいは彼女らはお妃の肌の色などまるで気しない。

 奇妙な外見など、魔法の力を持つ者の間では珍しくもないからだ。

 すぐに妙案が浮かんだ。

 森での失せもの探しであれば、狩人が適任である。

 ちょうどいいことに、彼女の知り合いには一人、腕の良い狩人がいた。


「ファラ、言伝を頼みたい。

 そうじゃ、あの男じゃ。

 なんとしても我が義妹を連れ戻すように、と。

 なに、多少強引でも構わん。褒美も相応に出す。

 ただし必ず無傷で。

 それからくれぐれも秘密は漏らさぬように。

 では頼んだぞ……」

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