第一話 白百合の姫、出奔す
どうやら少しばかりオイタが過ぎたらしい。
ツタでぐるぐる巻きになった男たちを見下ろしながら私は反省した。
出産でスタイルが崩れたことを揶揄ったら、ガチギレしたお義姉さまに暗殺者を送り込まれたのだ。
銀貨の一枚や二枚で雇えるチンピラたちとはわけが違う。
怪しげな黒装束に不思議な薬品の香りを漂わせた、本格派の皆さまだ。
高い高いお城の塔の最上階にあるこの部屋まで侵入してきたのだからその実力は推して知るべし。
お義姉さまは本気で私を殺しにかかっている。
どうかお義姉さまのことを心の狭い奴だなんて思わないであげてほしい。
私とお義姉さまの間には、それはもう色々なことがあったのだ。
今回のことはその総仕上げに過ぎない。
まあ、お産の直後でお義姉さまの気が立っていたことも無関係ではないとは思うけど。
これまでは私とお義姉さまのじゃれ合いをニコニコと見守ってくださっていた――時には知恵も貸してくれた――宮廷の奥方たちも、もう庇ってはくれないだろう。
私の迂闊な発言は、ついでに彼女たちも怒らせてしまった。
うちの宮廷で力を持つ奥方たちはみんな経産婦だ。
なにより、お義姉さまが産んだのはかわいらしく元気な男の子だったのだ。
念願の嫡男。
それはつまり、お義姉さまが真の意味で宮廷の奥方たちの支配者になったことを意味していた。
そんなことは分かっていたはずだった。
分ってはいたけれど、人間急には止まれない。
それでついやってしまった。
後悔してももう遅い。
お義姉さまは聡明なお方だ。
殺ると決めたからには中途半端なことをなさるはずもない。
必ずや私を仕留めにかかってくる。
そうなるとまずい。
お父様もお母様もずっと前にお亡くなりになっている。
お兄様は蛮族に対処するため軍を率いて北進中。城にはしばらくは戻らない。
今現在、宮廷にお義姉さまを止められる人は一人もいないのだ。
きっと食事の度に罪もない毒見役が命を落とすことになる。
となれば最初の犠牲になるのは侍女のミレアだ。
私がまだおしめをしていた頃から誠実に仕えてくれている、善良なおばあちゃんだ。
こんなことで死なせるのはあまりに忍びない。
城を出よう。私はそう決めた。
ひとまず、国境に近い〈闇夜の森〉に身を隠す。
あそこならお義姉さまもそうそう手は出せないはずだ。
森に潜んで遠征が終わるのを待ち、お兄様にとりなしてもらうのだ。
そうと決まれば話は早い。
いつかこんな日が来るだろうと、家出の準備はすっかり整えてある。
簡単な置手紙を書き上げ、かねてから用意していた荷物袋を行李の中から引っ張り出す。
ガサゴソと身支度を整えていたら、部屋の戸を叩く音がした。
「姫様。こんな夜中に何をしておいでですか。
扉を開けてください」
この優しいしわがれ声はミレアだろう。
どうやら物音を聞きつけて様子を見にきたらしい。
「ちょうどよかったわ。鍵は開いてるから入ってきてちょうだい」
ちなみに部屋の鍵を開けたのは暗殺者の皆さんだ。
彼らは塔の階段を上って私の部屋までやってきた。
さすがの一流暗殺者でも、〈浮遊城〉の異名を持つこの城――どうやってかは知らないけれど本当に宙に浮いている――の外壁を登ることはできなかったらしい。
「おやまあ!」
戸を開けるなりミレアは叫んだ。
それはそうだろう。大問題だ。
深夜、未婚の乙女の部屋に男たちが寝そべっているんだから。
「いったいどうしたことでしょう!
姫様、この殿方たちはどこから来たのですか!」
「知らないわよ。
知りたいならお義姉さまに聞いて」
ミレアはそれでおおよその事情を察したらしい。
彼女は額に手を当てて大げさに嘆いた。
「ああ、ああ、もうもう!
だからお妃様に意地悪をするのはおやめなさいって、何度も申し上げたではないですか!
それなのに姫様ときたら、宮廷の奥方たちと一緒になって悪だくみばかり!
大体ですね――」
さっそくミレアのお説教が始まった。
彼女のお説教は長い。
まじめに聞いていたら夜が明けてしまう。
「わかってる! わかってるわよ!
私が全部悪かった! 反省してる!
もう二度とお義姉さまに悪さはしないわ!」
彼女の気持ちはありがたいけど、今は無駄話をしている時間はない。
「またそんな心にもないことを!
わたくしももうごまかされませんよ!
このミレア、同じセリフをそのお口から百篇は聞かされております!
今日という今日は最後まで言わせていただきますからね!
いいですか、お妃様は貴女と同じ魔女なのですよ!
本当なら姫様の一番の理解者となってくださるはずのお方なのに、姫様ときたら――」
「ええ、ええ、分ってるってば!
貴女が正しいってことも、私のことを心から思って忠告してくれていることも、本当によくわかってる!
だけど今は時間がないの!
話ならあとで聞くから! 城に戻ってきた後に全部聞かせてもらうから!
だからお願い、今だけはその口を閉じて!」
「後で聞くですって!
この間もそうおっしゃったじゃないですか!
そうはいきませんよ。後でとはいつですか!
それをはっきりさせてもらわない事にはけっして黙りませんからね!」
「だから、城に戻ったらよ」
「城に戻ったら?
いったいいつお戻りになるって言うん……城に
ここにきてミレアはようやく私が家出の支度をしていることに気づいたらしい。
「ええ、そうよ。
私、ここを出ることにしたの」
彼女は「どうして――」と言いかけたところで、床に転がる暗殺者たちを見回し、それからまた額に手を当てて嘆息した。
「ああ、もう……。
それで、行く当てはあるのですか?」
「ひとまず、〈闇夜の森〉に身を隠すつもりよ。
あそこなら私もよく知っているし、お義姉さまも簡単には手を出せないと思うの。
そこでお兄様が戻るのを待つわ」
「森にですか?
どなたかのお館に匿っていただけばいいじゃないですか」
「それはダメ。
誰にも、余計な借りを作りたくないの。
それに、誰だって私よりもお義姉さまに貸しを作りたくなるにきまってるわ」
「なるほど。それは確かにそうですが……。
ならば、陛下のところに身を寄せるのはどうでしょう?」
「ダメ! それだけは絶対にダメ!
これ以上お兄様に迷惑をかけるわけにはいかないもの」
今回の戦は、隣国ホルニアとの初めての共同作戦だ。
太陽教が盛んなあの国では魔女は大変に嫌われている。
私がお兄様のところへ行けばきっと彼らと一悶着起きるだろう。
この重大な局面で、お兄様に余計な負担をかけるわけにはいかないのだ。
「何をいまさら。
だったら最初からお妃様とも仲良くなさってくださいな」
ミレアの正論に反論の余地はなく、私は呻くことしかできない。
「と、とにかく! お兄様のところには絶対いきません!
それにお兄様のところにだって、お義姉さまの手の者が潜んでいないとも限らないもの。
だったら、誰にも知られず身一つで隠れているのが一番安全よ。
いくらお義姉さまだって、私の居場所がわからなければ暗殺者の送りようもないわ」
仮に森にいるとバレたって、あの森の中で私を見つけ出すだけでも随分苦労するだろう。
「それはそうかもしれませんけど……」
ひとまず納得はしてもらえたらしい。
ところが。
「ではしばしお待ちください。
私も支度を整えてまいりますので」
「えぇっ!?」
安心したのも束の間。ミレアがとんでもないことを言い始めた。
「あなた、私についてくるつもりなの!?」
「当たり前です。
身の回りのお世話をする者が必要でしょう?」
当然とばかりにミレアが言う。
冗談じゃない。
そんなことになったが最後、城に戻るまでの間ずっと彼女のお小言を聞き続ける羽目になる。
それに、森で暮らすというのは大変なことなのだ。
野宿だってしなきゃならないし、食べ物だって自分で集めなきゃいけない。
いつぞやのようにお兄様の軍幕の中で過ごすのとはわけが違う。
なんだかんだ言って育ちのいいミレアがそんな暮らしに耐えられるとは思えない。
そうでなくても彼女もいい歳なのだ。あまり無理はさせたくなかった。
「だめよミレア。あなたを連れてはいけないわ」
「どうしてですか!」
あなたが心配なの、とは口が裂けても言えない。
言いたくない。
だからこう言うことにした。
「足手まといだからよ。
あなたが歩くのに合わせてたら追手に捕まっちゃうわ。
それとも、ミレアが私のやり方に合せてくれる?」
そう言われて、ミレアはブンブンと首を振る。
「それに、あなたまで城を出てしまったら、誰がお兄様が戻ってきたことを私に報せてくれるの?
お兄様だって私の行方が分らなければ使者の出しようもないわ。
お願い、ここに残って。私が心から信頼できるのはあなただけなの」
彼女はもう一度わざとらしいため息をついた。
「分かりましたよ、私のかわいいお姫様。
でも、決して無理はなさらないでくださいね。
〈闇夜の森〉はとても危険なところなんですから」
そう言ってミレアは渋々といった様子で私の外套を取りにクローゼットへ向かう。
「大丈夫、草も木もみんな私の味方よ。
森の中でなら誰にも負けないわ」
私が鉢植えに指示を出すと、鉢から伸びたツタがうねうねと動いてグルグル巻きの暗殺者をクローゼットの前からどかした。
「そりゃまあ、ここよりは味方が多いかもしれませんけどね」
外套を取り出す間もミレアの口は止まらない。
「でも、草や木はお喋りの相手にはならないし、着替えだって手伝ってはくれませんよ。
それにあの森の奥には恐ろしい人喰い鬼やら、悪魔やらがいるそうじゃないですか。
それからたくさんの亡霊だって……本当についていかなくても大丈夫ですか?」
私はミレアが差し出してくれた白い外套に袖を通しながら答える。
「ただのお伽噺よ。
私は見たことないわ」
森にいるのは獣や無法者だけだ。
どちらが襲ってきても私なら返り討ちにできる。
私は外套のフードを深めに被り、首元から引っ張り出した覆い布で口元をしっかりと隠した。
フードの縁からは黒い薄布が垂れているから、これで私の顔は外からはまったく見えなくなる。
まるで床に転がっている暗殺者たちみたいだ。
外套は厚手のなめし革を縫い合わせ作られた、決して光を通さない優れモノだ。
暑苦しいことこの上ないけれど、私はこの外套がないと太陽の下を歩けない。
私の雪のように白い肌は、太陽の光を長く浴びると火ぶくれしてしまうからだ。
魔法の力を持って生まれた者は、必ず何かが欠けているらしい。
私の場合は、たぶん「色」だ。
「でも、お母上は妖精を見たことがあるとおっしゃっていましたよ」
ミレアは外套の前紐を留めながら喋りつづける。
これは私が生まれる前に、お母様が妖精に祝福されたとかいう話のことを言っているのだろう。
彼女は懐かしそうに口にするけれど、噂の当事者にしてみれば懐かしいじゃすまない。
「あんなのデタラメよ。
お母様もあんな軽口をたたく前に、もう少し物事を考えてくださればよかったのに」
その与太話のおかげで、私は随分と苦労させられている。
やれ妖精の落とし子だとか、とりかえっ子だとか、そんな噂がいくつも流れている。
私は正真正銘お父様とお母様の間に生まれた人間の子供だ。
妖精の子なんかじゃない。
だけど、少しトゲのある私の返事にミレアは悲しそうな顔をした。
「あまりお母上のことを悪く言わないであげてくださいな」
「分かってる」
ミレアの言う通り、お母様を責めても仕方がないのだ。
お母様だってなにも自分の子供を苦しめるためにこんな話をしたわけじゃない。
あれは魔女として生まれた私を慰めるための、ちょっとしたお伽噺。
両親が健在であれば他愛もない冗談で済んだ話。
お父様もお母様も自分たちがあんなにも早死にするなんて思ってもみなかったのだろうし、もちろん望んでいたはずもない。
「はい、終わりましたよ」
「ありがとう、ミレア」
これに先ほどの荷物袋を背負えばもう準備は万端だ。
私は窓に駆け寄ると、重たい鎧戸をぐっと押し上げる。
窓の隙間から夜風がフードの縁を揺らした。
外套の隙間から忍び込んでくる冷たい空気が心地良い。
空にはいつも通りの真ん丸な月が明るく輝いていて、世界を銀色に照らしている。
月の光はいつだって私に優しい。
夜明けはまだ遠く、東の空には黒に近い紺色がべったりと張り付いている。
家出するには最高の夜だ。
私は鎧戸につっかえ棒をかけると、窓からグッと身を乗り出して下界の草木に呼びかけた。
ところが草木も眠るとはよくいったもので、誰も私の呼びかけに応えてくれない。
困った。日が昇る前にできるだけ距離を稼いでおきたかったのに。
諦めきれずに二度三度と念じていると、ようやく応えが返ってきた。
応えてくれたのはお城の外の茨だ。
うわあ、茨かあ。
あれ、チクチクするのよねえ。
もっと強く呼びかけてみようかとも思ったけれど、それはそれで大きな力を使うことになる。
要するにしんどい。
月明かりの下とはいえ、後のことを考えれば力はなるべく残しておいたほうがいいだろう。
私が応えてくれた茨に念じると、茨はこちらに向かってスルスルと枝を伸ばしてきて、みるみるうちに立派な茨の梯子が出来上がった。
私は窓の縁に腰掛けると、グッと足を延ばして梯子の強度を確かめた。
うん、問題なし。
「姫様、こちらをお使いください」
ミレアが私に手袋を投げてよこした。
受け止めてみると妙に重い。そして硬い。
こんなの持ってたかしら?
「なにこれ。
どこで見つけたの?」
「そちらの殿方にお借りいたしました」
なるほど。
手の甲に金属板の入ったそれは、手袋というより手甲に近い代物だった。
手のひら側も分厚い革で補強されていて、これなら茨のトゲも大丈夫そうだ。
「じゃあ、あとはよろしく。
衛士長を呼ぶのは私が降りきってからにしてね」
「心得ております」
元気でね、と心の中で呟いて私は茨の梯子を降り始める。
少し降りたところで見上げてみると、ミレアが頭だけ出してこちらを心配そうに見つめていた。
怖がりのミレアにしては上出来だ。普段は窓にすら近づかないのに。
そんな彼女の気持ちに応えて、軽く手を振ってあげる。
ところが、私が片手を離しただけでミレアは卒倒しそうな顔つきになった。
可哀そうなので、これ以上からかうのはやめて梯子を下りることに専念する。
お城自体が浮いているため、降りるだけでも酷く時間がかかる。
ようやく地面が足につくと、頭上からわざとらしい悲鳴がかすかに落ちてきた。
同時にお城の方々で慌ただしい気配が起こり始める。
さあ、逃げ出そう。
森に駆け込んだ私はずんずん奥へと進む。
夜の散歩には慣れている。
月の明かりがあれば歩くのに不自由はない。
目指すはいつもお世話になっているイチイの樹。
目的地に到着した私は、方角をよく確かめてから樹に呼びかける。
反応がない。寝ているらしい。
樹に直に触れながらもう一度強く呼びかけると今度は応えてくれた。
イチイの樹が眠たげな気配を振りまきながら、枝を震わせる。
まるで「用があるならさっさとしろ」とでも言いいたげな様子だ。
私はもう一度方角を確かめて、それからイチイの樹にお辞儀をした。
樹の方も、ミシミシと音をたててお辞儀を返してくれる。
もう少し、あともう一息!
私がさらに深く頭を下げると、イチイの樹もミシミシと軋みながらさらに深くお辞儀する。
樹のてっぺんに手が届きそうな高さまで下がったところで、私はお辞儀をやめた。
おっと、あなたはそのままでいてね。
私はよいしょと飛び跳ねて、イチイの樹の先っぽを掴んだ。
それから、樹にかけていた魔法を解く。
無理やり幹を押し曲げていた魔法の力がなくなり、お辞儀をしていた樹は唸りを上げながら背筋を伸ばした。
その先っぽを掴んでいた私はものすごい勢いで打ち上がる。
月に向かって、私は飛んだ。
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