1stake ベル、脱サラする

 うだるような暑さがじりじりと顔や腕を焼く。大量の汗によって、べっとりと肌に纏わりつくシャツが煩わしいと感じたのは、すでに数時間も前の事。


「……いつまで待たせんねん、クソ」


 顧客との営業打ち合わせに向かう為、上司と合流の待ち合わせを予定していた喫茶店が、不運にも臨時休業となっていた。おまけに上司は待ち合わせ時刻に対し大幅な遅刻。先ほどようやくメールで連絡が届いたが、到着まで後三十分は掛かると伝えられた。


 近場に避暑地が見当たらず、仕方なく僕は炎天下の中、木陰にかろうじて身を隠し、脳天だけでも日光から避けるようにし、待ちぼうけを食らっていた。


 現段階でも僕の中での我慢は限界寸前だったのだが、それ以上に不快なのは目の前の風景である。


「……ふざけんなよ、クズどもが」


 今は時刻にして十三時を超えたところ。そして曜日は平日。つまり普通の社会人なら社内や店内で仕事をしているか、スーツ等の仕事着で外出しているのがほとんどだ。


 しかし僕の目の前では数名の同世代くらいと思われる男たちが、私服でゲラゲラと笑いながら街中を闊歩している。風体は様々だがどいつも派手なシャツやサングラス、アクセサリーなどで着飾っていた。どうみても遊び人、という表現が最も似合うだろう。その連中に対して吐き捨てるように僕はそう呟いていた。


「あー寝すぎて頭いてぇ。今何時?」


「まだ昼の十三時過ぎやな。お前にしちゃ早起きじゃね?」


「昨日はパチンコが早い時間に噴いてくれたからなあ。いつもより早めに帰れたし、久々に夜ぐっすり寝れたんかも」


「お前いっつも閉店まで打ってるもんな。それより闇カジノの方が儲かるぞ。バカラいうんがすげぇんよ。今度連れて行ったるわ」


 そんな会話が目の前で繰り広げられたことにより、今の自分の状況と重ねた僕は、何の関連性もない彼らに対し憤りを感じずにいられなかった。


 しかしそれと同時に彼らのことを内心で蔑み、そして自身を鼓舞した。


 大の大人が平日の昼間からろくな仕事にも就かず、遊んでばかりいるお前たちの将来は終わっているな、と。


 そして反面、自分はこんな苦労をしているのだから、間違いなく彼らより素晴らしく立派で輝かしい未来が待っているに違いないのだ、と。


「おーい! 鐘築かねちく!」


 そんなふうに苛ついている僕に、小走りで手を振りながらこちらへ向かってくるスーツ姿の男が、僕の名を呼ぶ声が聞こえた。


「悪い、鐘築かねちく。すまん、待たせたな。昨日の接待で飲み過ぎてなぁ」


 本当に悪いと思っているのかわからない様子で、待ち合わせ相手であるその上司はへらへらとしながら僕の背中を叩く。


「……大丈夫っすよ。早く行きましょう」


「ああ、それなんやけど、今日はあかん。ヤメ、ヤメ」


「は? どういう事っすか?」


「さっき俺の携帯に先方から連絡があってな。今日は時間も遅うなってしもたんで、向こうさんも他の予約が立て込んでるからってことで、打ち合わせはキャンセルや言われたんや」


 コイツはへらへらしながら何を言っているんだ。元はと言えばお前が馬鹿みたいに遅刻したのが原因だろう。


 僕の苛つきはその感情と共に表情に出始めていた。


「ったくよぉ、先方ももっと早よう連絡してくれたらええのにな。確かに遅れた俺も悪いけど、ここまで来て直前でキャンセルはないわ。そやろ? 鐘築かねちく


「……」


 僕は呆れてものが言えなくなってしまっていた。


「ま、そういう事やから。お前は社に戻ってコトの経緯を報告してくれ」


「え? あの、課長はどうするんすか?」


「俺はあかん。体調が悪いから帰って寝るわ。元はと言えば昨晩あんなに飲ませる周りが悪いねん。うん、そう。俺のせいやないわ」


「いや、そんな事より僕は会社になんて言えばいいんすか?」

「はぁ? お前そんな事もわからんのか? 普通に先方の都合で打ち合わせがキャンセルになりましたって言うたらええねん」


「はあ……。課長の事はなんて言えば?」


「お前さぁ、もうちょっと機転とか利かせられへんの? 俺の事は風邪で寝込んだって言うといたらええだけやろ。ほな、そういう事でよろしく頼むぞ。くれぐれも余計な事は言うたらあかんぞ。これは命令やからな、わかったな?」


 僕の直属の上司であるその課長は、そう言い残して踵を返し、来た道を戻って行ってしまった。


「……」


 炎天下の中に取り残され、理不尽な命令をされた僕はこの瞬間、何かが自分の中で音を立てて壊れ始めたのがわかった。


 自分で言うのもなんだが、僕は仕事も勉強も出来る方だ。


 親がしっかりしていたおかげで立派な某有名大学に入れてもらい、それへ応えるように好成績で卒業し、そしてそれなりの企業に就職もできた。入社後は必死に仕事を覚え、上司に好かれるよう努力し、嫌な仕事も率先して引き受けた。


 真面目が一番だ。真面目を貫く人間に失敗などない、というのは父の口癖だった。


 そして僕もそう思っていた。


 僕こと、鐘築 敬史かねちく たかふみは何事においても真面目な人間だったと言える。


 幼少期から大学時代までにおいても、様々な面で真面目に取り組んだ。勉学はもちろんの事、運動や遊びも交友関係も、そしてギャンブルも。全てにおいて真面目に取り組んだのだ。


 ギャンブルといってもパチンコや公営ギャンブルなどではない。僕が取り組んでいたのは賭け麻雀だけだ。


 僕にとって麻雀はギャンブルなどではなく、限りなく至高の思考のゲームだと思っている。理論的に物事を捉え、その先を見据えて、相手を上回り勝利する。そのことに喜びを覚えるついでに、そこで小さな金額を賭けて遊ぶことはままあった。が、まぁあくまでお遊びのレベルだ。


 お金については遊びの範疇程度の金額でしか賭けなかったが、それよりも麻雀という至高のゲームで相手を打ち負かす事に、懸命に取り組んだ。だから学生時代にはキャンパスのなかで、僕に麻雀で勝てる奴などいなかったくらいである。


 麻雀以外のギャンブルは一切やらなかった。


 それ以外は本当に運否天賦うんぷてんぷのギャンブルでしかないとわかっていたからだ。


 だがギャンブルというものは続けていれば必ず胴元が勝つ。イカサマでもしない限りプレイヤーが勝つ事などありえない。数学上でも、理論上でもそんな事はわかりきっている。だからこそ、僕は運否天賦だけの勝負は絶対にしなかった。


 僕は不思議だった。


 皆、なぜ確実に負けるとわかっているものをやるのだろう、と。


 一時的に勝つ事はあるかもしれないが、続ければ必ず破滅する。それがギャンブルだ。皆、破滅する為にギャンブルをしている理由が僕にはわからなかった。


 わからなかったからこそギャンブルをする人間も、まともな定職に就かず人生行き当たりばったりのギャンブル任せな人間も、総じて見下していた。


 そしてどんな状況でも諦めず、努力を続ければ必ず報われる。いや、報われなければならないと思っていた。


 正義とは常に正しい情報や思考の先にあり、それは僕のような考え方であるべきだと思っている。僕は僕が絶対的に正しくて、真面目こそが正義。それこそが僕の原動力とも思っていた。


 その信念たるものが最近、揺らいで来ているのが自分でもわかってきている。


 僕がやっていることは、


 僕が考えてきたことは、


 僕が信じている未来は、絶対に正しい。……のだろうか。




        ●○●○●




 憤る頭の中を少しでも冷静にさせようと、会社へ向かう道中にあるスタバでアイスコーヒーを購入。それを飲みながら再び会社へと歩を進める。


 通り掛かった繁華街の中、過ぎ行く人々の装いはもちろん様々なのだが、どす黒く濁り始めていた僕の心の瞳には、そのどいつもこいつもが地面を這いずる虫けらにしか見えなくなっていた。


 ここは関西のとある繁華街の一角。僕の勤める会社がすぐ近くにあるここでは、色々な業種や人種がいた。が、僕からすればそのどれもがまともな人種とは思えないと侮蔑している。


 小さな飲食店などいつ潰れるかもわからない。玩具屋などいつ飽きられるかわからない。個人で電化製品を扱うお店などの収益なんて知れている。


 だが、それでもまだそれらの商売はまだ良い。居酒屋やスナック、クラブやラウンジ。ホストやキャバクラ、風俗店。そして更にはパッと見ではわからないように営業している違法カジノ店。


 これらの商売など水物にも程がある。そんな不安定な業種でしか働けないやつらと、そこに集まり一時的な娯楽、快楽で金を捨てる馬鹿たち。こんな奴らと同じ空気を吸うのも嫌気が差してくる。


 そう思い自身の優位性を保とうとすることで、僕の中にあった理不尽に対する怒りや憤りは、多少なりとも落ち着きを取り戻し始める。


 そうだ。僕はこんな奴らとは違う。


 今は西暦にして、二千年代初頭。


 バブル崩壊からようやく立ち直りを見せ始めた日本経済は、まだそれでも就職難などに悩まされる中、しっかりとした大学を卒業し、上場している企業に勤め、そして社内での交友関係や成績も良好、と確実にエリートコースを歩んでいる。


 そんな僕のようになれない可哀想な奴らが、ここにはごまんといる。だから、さっきのようなクズな上司の戯言など水に流してやろうじゃないか。あんな上司はすぐに落ちぶれるに決まっている。近い将来には、僕の方が立場が上になっているに違いない。


「……いや、待てよ」


 その時、妙案が浮かんだように感じた。


 あんな課長のことをどうして僕が庇う必要がある?


 そうだ。あの課長が遅刻した事を素直に伝えて、顧客との打ち合わせが破談になった件を正直に話せばいいじゃないか。そうすれば僕に非がないこともわかってもらえるし、課長は責任追及されて間違いなく評価査定は下がる。降格させる材料はこうやって積み上げて行けばいい。あんな人間が人の上に立つなど甚だしいにも程がある。クズは大人しくクズらしい立ち位置に居るべきだ。


 僕は間違っちゃいない。ありのままを伝えるだけだ。


 課長には「風邪で寝込んでいると言え」と言われた。


 ああ、いいとも。伝えてやるさ。その前後の文脈ひっくるめて全部な。生憎僕は頭がいい。課長、あんたが言ったことを一字一句逃すことなく伝えてやるよ。


 こんなことをすれば会社に居られなくなる、と今までの僕なら考えたと思う。でも逆だ。こんなことでもしなくちゃ上にのし上がっていくことなど到底かなわない。


 つまりこれもひとつの試練なのだ。乗り越えるべき試練。


 そう思うと不思議と僕の心は高揚した。


 こうなれば思い立ったが吉日よろしく、僕は早足で会社へと戻り、課長の失態を報告してやろうと息巻いたのだった。




        ●○●○●




「……そうか、わかった。ほんならお前も今日はもう上がってええぞ」


 会社に戻った僕は状況報告に加え、課長の言い放った言葉の一字一句を違えることなく、責任者である部長へと報告した。


 しかし僕が期待していた反応とは些か違った。


「……はい、失礼します」


 僕は簡単に会釈をして、部長ら管理職のいる事務室をあとにする。


 僕の思い描いた反応なら少なからず「アイツはふざけてるのか」とか「アイツを今すぐ呼び戻せ」という類いの言葉と、怒りをあらわにした反応が見られると思っていたのだが、そんなことは一切なかった。


 拍子抜けというか、キツネにつままれたような感じだ。


 あの課長の失態は普通に考えたら懲罰ものなのは間違いない。が、反して部長のそれに対するリアクションは実に薄い。


「……これで、ええ……んかな」


 他の社員らがまだ仕事中の中、僕一人やや早めの帰路につきながら、会社のエントランスを出てひとりごちる。


 そう、種は撒けたはず。


 あとはこの芽がどんな花を咲かすか。それがきっと将来への道を開いてくれるはず、なのだ。


 なのに、押し寄せる不安感と焦燥感。


 先ほどまでは一種のヒロイックな思考で熱くなってしまっていたが、果たして本当にこれでよかったのだろうか。僕がやったことは大きな間違いだったのではないのだろうか。


 そんな自問自答が止まらなくなっていた。


「うぉーい! ベル坊!」


 会社を出て、大通り沿いの歩道に差し掛かる付近まで歩みを進め、思考を廻らしていると、後ろから僕のことをそう呼ぶ・・・・・・・・・声が聞こえる。この呼び名を使う人間は限られている。


 振り返ると、そこにはやはり、僕にとって見慣れた顔の男が居た。


「あ、ども、美作みまさかさん。久しぶりっすね」


「おう! やっぱベル坊やったか。おめぇの後ろ姿でワイはすぐにわかったでぇ!」


 美作みまさかさんは豪快にニカっと笑いながら、そう言いつつ僕の背中をバシンと叩いた。


「にしても、どうしててん? ベル坊、おめぇさん最近雀荘来んなぁ? 忙しいんか?」


「……僕も一応サラリーマンすからね。そう、毎日雀荘になんか行けるわけないっすよ」


「なーんや、そんならもう麻雀の勉強はええんか?」


 僕に親しそうに話しかけるこの男の名は美作 雄作みまさか ゆうさく。歳はまだ三十代半ばくらいだそうだが、実年齢より老けて見えるのはその雰囲気のせいだろう。


 なぜなら彼の風貌は、パンチパーマに黄色のサングラスを掛け、その首元には極太の純金のネックレスをし、派手な柄のアロハシャツを着こなし、ジャージにサンダル、と、完全にヤクザのような見た目だからだ。


 ちなみにこの人が呼んだベル、というのは僕のあだ名だ。


 僕の苗字は漢字で書くと鐘築と書くのだが、しょうちく、だとか、かねつく、だとか色々間違われやすいし、読みづらいと自分でも思っていた。なので、鐘の部分を取り、ベルでいいんじゃないか、と大学時代の友人に言われ、それ以来定着していた。美作さんも僕の呼び名を覚えてからは、ベル坊と呼ぶようになった。


「最近な、ツモの調子がエエくてなぁ」


 その美作さんはド派手な指輪をたくさん着けたその左手の、人差し指と親指の先をクイクイっと動かす。


「麻雀、調子いいみたいっすね」


「おう、今月は大ボーナスをもらてしもーたわ! そーいやよぉ、ワイのダチの後輩が経営してるあの雀荘なんやけどな、近々閉店するかもしれんらしいぞ」


 彼は賭け麻雀の常習者だ。この街の繁華街のとある風俗店の店長の彼だが、基本昼間は仕事をしない。なので夜が来るまで色んな雀荘で賭け麻雀で遊んでいる、まぁ遊び人だ。


「そうなんすね。あそこは何回か僕も行きました。経営不振すか?」


「いや、なんか遠くに引っ越さんとあかんようになったんやと」


「へぇ。良い店やったのに、もったいないっすね」


「せやなぁ。あそこはエエ稼ぎ場やってんけどなぁ」


 遊び人を嫌う僕でも、唯一この美作さんとだけは仲が良かった。


 彼と知り合ったのは言うまでもなく雀荘なのだが、僕が大学時代、友人たちと色んな雀荘に行って遊んでいた頃に偶然出会った。僕らもいつも賭け麻雀をしていたのだが、メンツがいつも一人足りなかった。なので雀荘でその一人を適当に見繕う。その中の一人が美作さんだった。


 賭ける金額は学生の僕らでは知れている。点イチだ。ハコテン(点棒が空っぽになること)でも三百円の損失。なのでお金はオマケ程度で麻雀を純粋に楽しんでいた。


 そんな中、初めて美作さんと知り合い、勝負した日。僕らはこてんぱんにやられた。彼の強さは常軌を逸するレベルだった。金額が小さかったから良かったとはいえ、そのあまりのレベルの違いに圧倒された。


 僕はその日、初めて本当の猛者という存在を知ったのだ。


 それからは美作さんのいる雀荘を探しては一緒に打たせてもらったり、研究させてもらったり、色々教わったりしていた。そんなことを学校帰りに毎日続けているうち、僕らはとても打ち解けたわけだ。


「ベル坊がリーマンになっちまってからもう三年くらいか? おめぇは見どころがあったんやけどなぁ」


 美作さんが少し寂しそうに呟く。


「美作さんの技術や考え方は、今でも至高の領域だと尊敬してますよ、僕は」


「っへ。ワイは尊敬されたくておめぇに色々教えたわけとちゃうぞ。ベル坊はおもろい奴やったし、考え方がギャンブルの外側にもあったから教えたっただけや! かっかっか!」


 ギャンブルの外側、という言葉は美作さんの口癖のようなもの。これを見ている人間とそうじゃない人間は一目瞭然なんだとか。


 端的に意味を言うと、平打ちで遊んでいるだけか、そうじゃないかの差というところだ。


 そして美作さん曰く、それはギャンブルだけの話ではなく、人生観についても見えてる人間と見えていない人間の差は歴然だそうだ。


 ――何をやろうと、取り組もうと、自分が信じて行動するなら信じた先の、その外側にも自分を立たせろ。そこからの景色がどう見えるかで勝ち組か否かは決まる。


 これが美作さんの座右の銘だ。


 そして……久々に美作さんからギャンブルの外側、という言葉を聞いて、僕は少し黙り込む。


「……で、どーよ? 立派で真面目な社会人サマになった感想は?」


 美作さんはわずかな僕の綻びを見透かすが如く、僕の瞳の奥を覗き込んできた。……ように感じた。


 いや、気のせいなどではない。この人は隙を見逃さない人だ。


「……とても、誇らしい気分、すよ」


 僕はこの言葉をかろうじて絞り出しながらも、息が詰まりそうだった。


「嘘やな」


 間髪入れず、美作さんが口を挟む。その一言にはさっきまでの遊び人の雰囲気を一瞬で掻き消すほどの威圧感がある。


「ベル坊、おめぇは自分がすげぇと思ってるし、それがわかってる奴や。そんな奴が、そんなつまらん応えを返すはずない」


 その通り。


「おめぇはただ怖えぇだけやろ? 今の自分を作った自分の選択肢が間違っていた、いや、今も間違っているかもしれんことを認めたくないだけや」


 その通りだ。


「おめぇは度を超す負けず嫌いや。そういう奴はだいたい同じ目ぇするねん。おめぇは今、負けるかもしれん自分の状況を認めんようにしてるだけやろ。ちゃうか?」


 その通りだった。何もかも見抜かれていた。


 初めて美作さんと麻雀を打った時、絶対に通るはずと思い込んで捨てた牌。それが僕の手から落ちることは、まるで決まっていたかのようにロン当たりを宣言してきた時の、あの目で言われた。


 逃げ場のない、狩る者の目。


「ええか、おめぇはちょっと勘違いしているようやし、忠告しといたるわ。負けることが絶対ダメなわけやない。確かにワイは以前、ギャンブルを運否天賦でやる奴は負け組やし負け組にはなるなよと教えたけど、せやから言うて負けることが悪いっちゅうわけではないねん。負けることで見える道言うのもあるんよ」


 負けることで、見える道……。


「逆を返せば、負けんことには見えん道があるいうことやな。そこまで思考を廻らせたか? その先の先が見えたか? まだ見えてへんなら、おめぇはまだ自分を物事の外側から捉えられてへんいうことや」


 曇りに曇りきっていた鏡が、一気に磨かれ光り出すような感覚に陥る。


 この人の言葉はいつも、人の無意識領域をぶっきらぼうにこじ開ける。


 だけど、この人の言葉だからこそ、僕は今の僕を見つめ直せるかもしれないと気づかされる。


「……美作さん!」


 僕は大通りの歩道で思わず立ち止まり、声を荒げ、彼へと振り向く。


「オーラス、トップとの点差はおよそ二万点。子なら三倍満以上必要ってな状況やからって、絶望するにはまだ早え。なのにおめぇなんか、まだ東一局。ちょっとでけぇ役を直撃されただけのことで、いちいち萎えとんなや! おめぇなんかまだまだクソガキなんやしよ、ガキはガキらしく足掻かんかいや!」


 その通りだ。僕なんか、まだ卓についたばかりの小僧だ。


「はいッ! ほんと、あざっすッ!」


 久しぶりに自分の声を聞いた気がした。


 さっきまでの声は僕じゃなかった。何者かが演じていた僕のふりをした偽物。


 仮初の刃では何も切り開けないと、美作さんが教えてくれたような気がした。

 

 僕は、僕がするべきことを、やるべきことを、やりたいことをやろう。


 そして僕がこれから考えるべきこと。それは――。




        ●○●○●




「転属命令……ですか」


 あれから数日後のとある日。


 会社に着くとすぐに部長に呼ばれた。


 そして一通の辞令書を手渡されると共に、それを告げられた。


「事務のな、安全衛生部が人手不足なんや。今日中にデスクもそっちに移しておけ。だが、今、鐘築が抱えている案件については、しっかり次の者へ申し送るんやぞ」


 部長は目線を僕には合わせようとせず、淡々とそう言った。


 僕も馬鹿ではない。これが何を意味するかくらい容易に見当がつく。間違いなく先日の件である。事務の安全衛生部で人が不足しているなどという話は聞いたこともないし、そもそも今僕がいる部署の方が圧倒的に人手不足なのだ。つまり、要するにこれは体のいい左遷だ。


「……理由を念のため、聞いても?」


「理由はさっき言った通りや。早よ行け」


 話す気は毛頭ない、ということか。


 簡単な話だ。会社は僕ではなく、あのクズを選んだという事に過ぎない。


 僕はあの時、事実を述べた。そして部長はそのことに対し咎めるような反応を微塵も見せていなかった時点で、こういう可能性もあるかもしれない、とは踏んでいた。ついでに言えば、あの翌日から社内での同僚たちの僕への接し方が不自然になっていたし、課長に至っては僕の前に全く姿すら見せなくなった。だからこの辞令は、さほど驚くようなことでもなかった。


 でも、それでも。


 僕は切られてクズを残すという選択を、この会社はした。それが、事実。


「おい鐘築、どうした? いつまでもそんなところに突っ立っとらんと、さっさとデスクの移動に取り掛からんかい」


 これが会社の、社会の、僕が正しいと思い込んできた企業の、選択。


「おい、聞いてんのか!?」


 微動だにせず不動のまま、この場にいる僕に対し、部長が声を荒げ出したその直後。僕はスーツの内ポケットに入れて忍ばせておいた封筒を取り出して、部長へと突き付けた。


「あん? なんやこれ!?」


 怪訝な表情で、部長がその封筒を受け取ると同時に、


「退職届です。今日限りで辞めますわ」


 僕は心を冷やしてそう言い放ち、そして続けた。


「それとなぁ、半分わかってたことやし、ついでにお前に言うとくわ」


「お、お前、やと!? 誰にモノを言うてるんや貴様は!?」


 僕は自分でも信じられないくらい冷静に、かつ、低音で恨みつらみを込めた言葉を紡ぎ出す。それに対し、怒りを露わにした部長の言葉尻を聞いたのち、一呼吸を置いて僕は呪詛じゅその言葉を吐き出した。


「……お前らがやったことは、立派な不当命令やろ。権利を横暴に利用し、立場の弱い者に対する明確なパワハラ。それで、どうせお前らみたいなクズの言うことは大体決まってて、そんなもん証拠はない、とか、課長が遅刻したんは関係ない、とか、くだらん言い訳を並べるだけや。せやけど、それでも状況証拠や僕の言い分を書面にし、出すべきところに出して、知り合いの弁護士使ってお前らクズどもと徹底的に戦ういう選択肢もあるんやぞ? でも、安心せえ。ここは僕が引いたるわ。僕がこの会社を辞めてやることで、お前らのことは不問にしたる。感謝せえ!」


 この応接室に部長に呼ばれる前から、僕は言いたいことは全て準備しておいた。これらの言葉はできるなら使いたくはなかったが、こうなってしまっては仕方ない。


「き、貴様。どういうつもりや!? 私や会社を脅してるんか!?」


「そんなわけないやろ」


 いかにも怒り心頭のように僕は装うが、心の中は至極冷え切っていた。


 さっき述べた通り、徹底抗戦したって良かった。生憎僕は一度決めたことは貫き通す性格だからな。それをせずに、僕が辞めてやるって言っているんだ。むしろ感謝すらして欲しいくらいだ。


「い、今、貴様が抱えている案件はどうするつもりや!? あれには今期の予算が大幅に……」


 確かに今、僕が担っている仕事には大きなものがある。そのうえ、僕が作った資料のまとめなどは、僕以外にはわからない点も多いだろう。


 だが。


「なぁ、部長。あんたなんでまだわからへんの? 僕は会社を辞める言うてるんやわ。今日限りで。この意味わかるか? 小さな脳みそ使ってよう考えてくれ。今日限りでこの会社を見限ったって言うてるねん。その会社になんで忠義を尽くして、あんたらの大事な大事な案件をご丁寧に申し送る必要があるんよ? 僕はあんたらのことを訴えずにこの会社を辞めたる言うてるんやぞ。案件がポシャるとか、自分らでなんとかせえよ! ぁあ!?」


 自分でも信じられないくらい、どすの効いた声が腹の底から湧き出た。でも、とても気持ちよかった。言いたいことを言えるというのが、こんなに気持ちの良いことだなんて初めて知った。


「ひ……」


 僕の最後の恫喝に思わず、よろけて尻餅を付いている部長のその姿は実に情けなく、実にいい気味だ。


「……これは失敬。僕に脅されたと告発してくれはってもええですよ。そしたら僕も、僕が出来る限りの知識とコネを使って、あんたらと全力で戦うだけですから。それでもよければどうぞ、訴えるでもなんでもなさってください。それでは失礼致します。せいぜい真面目にお仕事頑張って下さい」


 言いたいことをひとしきり言い切ると、僕は踵を返して二度と部長の顔を見ることなく、その部屋を退出する。


 自分のデスクに戻ると全ての道具や持ち物をまとめた。もう先日から身の回りの整理はある程度準備しておいたので、割とすぐに社内の身辺整理は片付いた。


 その様子を同僚たちが目を丸くして見ていたので、


「みなさん、今までありがとうございました。明日から来ません。ほな、さいなら」


 と、だけ言い放ち、僕はこの会社を退社した。


 会社のエントランスの自動ドアをくぐると、僕は空に向かってうーん、と言いながら大きく伸びをする。実に気持ちのいい、すがすがしい気分だ。


 平日の昼間。今日も初夏の日差しが強く蒸し暑いのに、なぜかその蒸し暑さすら心地よく感じさせる。


 この結末は美作さんと出会った直後からイメージしていた通りだった。


 あの上司の態度から察して課長と部長の癒着は強い。それを軽視して先走った僕を潰そうとするのは、冷静になれば当然の流れだと後からわかってきた。それにハッキリと気づけたのも美作さんの激励があってこそなのだが。


 ――とにかく。


 こうして僕のおよそ三年弱に渡ったサラリーマン生活は、ここで一度ピリオドを打つこととなったのだ。




        ●○●○●




 さて、晴れて無職となった僕だが、当然何の当てもなく手堅い収入減であった会社勤めを安易に放り投げる程、馬鹿ではない。


「……よし、入口の飾りの位置はここでええか」


 テナントビルの二階。そのドアに飾られたアーチ状の花飾りを手直しながら僕は呟く。


 美作さんに久々に出会い、それから退職するまでに着想していたことを実現化するため、会社を辞めたあの日から僕は連日休まずに動き、そしてそれがもうじき実を結ぶ。


 かねてより抱いていた小さな夢。それは、お店の経営。


 そしてそれは僕の大好きな麻雀屋。そう、つまり雀荘屋の経営だ。


 サラリーマンをしていた時は、福利厚生がしっかりし、有給がちゃんと消化でき、定年退職金がたくさんもらえる会社に勤めることこそが正義と思い込んでいたし、それが自分の自信へと繋がっていた。


 しかしそのサラリーマンとは、対価として『理不尽』を心にたくさん飲み込まなくてはならないことを知らされた。理不尽はじっくりと心を蝕んでいく。自分でも気づかぬうちに。


 僕は自分がいつの間にか理不尽に飲み込まれ、黒い感情を防衛反応として、剥き出しにし始めていることに気が付けた。だから、会社を辞めた。


 だけど、それが悪いことではないことも少しはわかる。皆、大なり小なり理不尽の中で戦い、抗い、生きている。穏やかなる安寧を手放すまいと。


 それが出来る人はそれでいいと思う。


 僕は生憎、理不尽への器が小さかった、というだけだ。


「いよいよ明日から開店、かぁ」


 僕は穏やかなる安寧ではなく、仕事として収入を目指しつつも、ある程度刺激ある日々の選択をした。


 ここは関西の大きな繁華街の一角。


 普通なら安易に土地やスペースを借りて店を開く、なんてことはそうそう出来ないのだが、以前美作さんの話にあった、彼の友人の後輩が経営していた雀荘を、引っ越しの都合上、手放さないとならないという話があり、そこをお願いして買い取らせてもらい、少し店内を改装した。店の名義は父の会社を利用させてもらい、僕は雀荘を開く運びとなった。


 立地はある意味とても良く、この土地の習性も相まって、雀荘ならまず食いっぱぐれないだろうと踏んだ。


 しばらくの間は収入が不安定だろうけど、それも三年近くサラリーマンをしてある程度の貯蓄があるし、それを食いつなげば問題はない。


 そして何よりも、空いた時間には自分も麻雀を打つことが出来る、というのが最高の喜びだ。当然、美作さんにはすぐに一報を入れて置いた。開店初日の明日には必ず遊びに来てくれる約束だ。


 この前やめた会社のビルが少し近いことを覗けば、この雀荘はとても素晴らしい。


 僕のとりあえずの目標は二つ。


 ひとつは、この雀荘を盛り上げること。


 そしてもうひとつは、麻雀のプロを目指すこと、だ。


 麻雀は社会的に公式でプロテストがある。僕は麻雀を鍛えて、いつかはプロ認定テストも受けたいと考えていた。やはり雀荘の経営者たる人物は、その道のプロである方が断然カッコイイというものだ。


「……そのためには、まずはこのお店を盛り上げるぞ!」


 僕はこれから始まる新たな生活と、待ち受ける未来に夢と希望を詰め込んで、開店前日の店内でひとり声を上げた。






 ――そんな麻雀に将来を託そうと考えていたこの僕、鐘築ことベルが、まるで違う道を歩むことになり、そして全く別の世界のプロになることなど、この時はまだ夢にも思わなかった。

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