第31話 生きるが勝ち

 一人全速力で逃げるスノウ。

 もう長いこと走り続けていた。

 後ろを振り返り、探りを入れる。

 何もいない。気配もない。流石に振り切ったか……。

 木に片手をついて呼吸を整える。

 いくら体力はあるといっても無呼吸というわけにはいかない。

 息を荒げて空気を取り込む。


 これからどうするか……。


 妙な感覚。

 後ろを振り返る。


 気のせいか、どんな音でも敏感になっている。


 そんなスノウの足に突如何かが絡みつく。

 どうすることもできずに気がつけば天地が逆さまになり宙に浮くスノウ。

 油断したわけではなかった。だが自分の感覚を疑ってしまった。

 足元を見ると歪んだ空間。

 まさに悪夢と化した魔ダコ。

 そのままもう一本のタコ足でスノウの腹を貫く。


 「ぐうううう!!!」


 貫いたタコ足の吸盤がスノウの腹の中で蠢くのがわかる。

 反射的に短剣を取り出し必死で切りつける。

 軟体生物の癖に恐ろしく硬い。

 動くたびに腹部が焼けるように痛む。


 魔ダコは切りつけられるのを嫌がりスノウを放った。

 スノウは受け身も取れずに地面に転がる。

 受け身を取るつもりではあった。だができなかった。

 身体が痺れている。

 即効性のある麻痺毒が足先にあったのか。

 無理矢理起き上がると腹部から血が滴る。

 傷ついた身体は急激に再生を始める。だが時間が足りない。

 身体が鈍く、重い。


 魔ダコがわざわざスノウを放り投げたのも、麻痺毒があるからこそ。

 動きの鈍った敵をゆっくり、安全に仕留めればいいという考え。

 ゆっくりと近づき、見えない刺突を繰り出す。

 これで終わり。


 スノウは迫り来る揺らぎをなんとか手にした片手半剣の平で防ぐ。

 踏ん張れずに後ろへ飛ばされる。

 さらに追撃の気配。


 飛ばされたスノウ、今度はなんとか受け身をとり身体を起こす。

 見えない攻撃。

 直感を疑うな、レナードが言ったセリフを思い出す。


 「うおおおおおお!!」


 咆哮で己を叱咤し、見えない刺突を横に避けながら斬り飛ばす。

 手応えあり。しかし切断の感触はない。痺れた身体でうまく力が入らない。


 再び攻撃の予感。

 身体中の魔力を奮起。本能に任せて斬り下ろす。

 今度は力の入った一撃。


 明確に切断した、という手応え。

 その証拠に切断され迷彩の解けたタコ足の先端が落ちる。

 全体が土色、苔のような緑色が僅かに付いたタコ足の先端。


 少し怯んだ気配を感じ、スノウは落ちたタコ足を左手でわし掴んで逃走。

 掴んだそれを懐へしまう。

 痺れで足がもつれそうになりながらも全力で走る。

 今のは運が良かっただけ。

 次はうまくいく確信もない。

 横木を飛び越え、割れ目を飛び越え、木の根を飛び越える。

 とにかく死に物狂いで走るスノウ。


 疑うな!疑えば今度こそ死ぬ!


 先ほど自身の第六感を疑ったことを激しく悔いる。

 間違いなく奴は追ってきている。

 そう自分の感覚が訴えていた。


 迷界の森の中を一人走るスノウ。

 突如身体が総毛立つ感覚に襲われる。


 疑うな!


 右ななめに前転、頭があったところで何かが風を切る。

 そこから跳躍、地面に刺さる音。

 木の幹を蹴って前方へ飛ぶ、飛んだ木の幹に穴があく。


 ふっっざけんなぁぁ!!タコ野郎がぁぁあ!!


 もはや心の中で愚痴ることしかできない。

 口から出るのは荒い息遣いのみ。

 今のも考えてやったことではなかった。

 ただ本能に従ってできただけのこと。


 魔ダコはスノウを諦めてくれそうもない。

 一人と一匹の一方的な追いかけっこは続く。

 足が止まれば命はない。


 魔ダコが攻勢を強める。

 背後に強い予感。

 振り向いて片手で剣を振る。攻撃を防いだ感触。

 間髪入れずに手首を返しもう一度振って連続でタコ足を弾く。

 反動でスノウの速度が加速。後退しながらの攻防。


 さらに敵が襲いかかる。

 全ての足を広げて覆い被さり、そのまま捕食してくるような攻撃。

 魔ダコの魔力をはっきりと感じる。

 迷彩を解いたからだろうか。

 自分の背後での出来事だったが、ようやく敵をはっきりと認識できたスノウ。

 振り返りながら短剣を投擲。

 虎の子の一本だった。


 投擲した短剣は魔ダコの口内に刺さる。

 スノウには確認する暇もなかったが、奇しくもグレイグが刺した横に並んだ。

 僅かに怯む魔ダコ。

 それでもそのまま覆い被さってくる。

 八本のタコ足がスノウを包囲するように迫るが、怯んだ分包囲に僅かな歪みができていた。

 そこを弾丸のように己の身体を回転させ剣を振り回すことでタコ足を弾いてギリギリ包囲を突破。

 しかしうまく着地できずにたたらを踏む。


 スノウにタコ足が伸びる。

 魔ダコからしても限界まで己の身体を伸ばした攻撃だった。

 鋭く尖ったタコ足はスノウの足を掠る。

 切られた感覚。堪えられず転ぶスノウ。

 足の腱を切られた。

 それでも転がるように移動して距離をとる。

 とにかく捕らえられないように必死だった。

 切られた箇所が痛みと熱を持つ。


 スノウは片膝をついて敵の方を向く。

 この怪我では逃げきれない。

 それを悟られまいと苦し紛れのハッタリだった。

 腱を切られた足は力が入らず、踏ん張りが効かない。

 逃げたところで追いつかれ、戦ったところで十分な力を出せない。


 ただでは死なねぇ……。お前を道連れにしてやる……。


 命懸けの相討ちを覚悟。


 魔ダコがこちらへ近づこうとする。

 しかしどうもおかしい。

 姿を隠したまま一向にこちらへ襲ってこない。

 少し進むような気配がするが、すぐに元の場所へ戻る。

 まるでスノウとの間に見えない壁があるかのよう。


 どういうことだ……?


 疑問に思いゆっくりと立ち上がるスノウ。

 この魔物にはこれ以上近づけない何かがあるようだ。

 こちらから近づく。

 この距離なら浮いているギョロリとした目玉がよく見えた。

 目はスノウをはっきりと見ているが、それでもくる様子はない。


 そこで諦めたのか、不意に魔ダコは迷彩を解いた。

 スノウは初めてまじまじとその姿を観察する。


 人間を丸呑みできるほどの大きさ。

 土色をした表面に苔のようなものがついている。

 匂い消しに使う香草の香りがした。

 八本の足がうねり、大きな頭は重さを感じさせずに浮いている。

 吸盤はスノウの知っている吸盤というよりも噛み付くような形をしている。

 スノウの腹で蠢いていたのはこれだろう。


 タコ足が何度もスノウに襲い掛かろうとするができないでいる。

 熱いものに触れたかのような反応。

 スノウがいるからというわけではなさそうだ。

 これ以上先へはいけないのだろうか。


 スノウは魔ダコを睨みながら地面に剣を一閃し線を引く。

 ここまでなら安全というライン。

 あとで役に立つかもしれない。


 ぎこちなく足を動かして後退する。

 背中は向けられない。

 魔ダコを睨みながらゆっくりと下がる。


 「殺してやる……」


 漏れる怨嗟の声。

 今ではない、だがいつか必ず、そう魔ダコに伝えるように。

 はたから見れば格好の悪いことだろう。

 負け犬の遠吠えと言われても仕方のないこと。

 それでもいい。生きているのだから十分だった。

 スノウからすればこれは勝ちに等しい。


 許さねぇ……。次だ……。次はお前を殺してやる……。必ずだ……。


 ドロドロとした殺気を向けながらゆっくりと後退していくスノウ。


 やがてじっとスノウを見ていた魔ダコは音もなく迷彩を纏い、森の中に消えていった。



 夕日が差す迷界から出てくる人影が見える。

 スノウはようやく迷界から帰還した。

 足取りもしっかりしている。

 切られた腱はすでに再生し、腹部からは真新しい皮膚が覗く。

 それでも心身はボロボロで、疲労の色も濃い。


 出口付近を歩くスノウは茂みに隠れていたフェイスに気づいた。

 巧妙に隠れているが存在をはっきりと感じられる。

 迷界はスノウをまた一つ成長させたのだろうか。


 隠れているフェイスの目を正確に見るスノウ。

 その目は睨んでいると言っても良かった。

 荒んだ、何者も寄せ付けないような、殺気のこもった目。

 意図してやっているわけではない。

 迷界が、魔ダコがスノウをそうさせた。



 フェイスはその強い殺気を受け流す。

 慣れたものだ、この程度は。

 これまで幾人もの殺気を浴びてきた。スノウ程度、軽い軽い。

 しかし迷界一度目でここまでなのは初めてのこと。

 それに自分の存在に気づくとは。入る時は気づけなかったはず。

 よほど強烈な体験をしたのだろう、と推測。


 迷界は人を変貌させる。

 それがよく働くことも、悪く働くこともある。

 どちらにしろ自分は自分の役割を果たすだけだ。


 

 スノウは迷界を出る。

 ようやく出たというのにその喜びはない。

 あれだけ迷界にきたことを後悔していたというのに。

 帰りたかったはずなのに。


 そんなことよりもスノウの中にあるのは怒りと苛立ちだった。

 愚かな自分、弱い心を持つ自分、それにあのクソッタレのタコ野郎……。

 砦に続く坂を降りながらもそのことで頭が一杯のスノウ。

 過敏になった感覚が背後から来る気配を察知する。


 細い熊のような見た目の魔獣が数匹。

 スノウを目にした魔獣は立ち上がり威嚇する。

 魔獣が立ち上がると身長はスノウを優に超え、その目は爛々と赤く輝いている。


 スノウと魔ダコが森を荒らしたので出てきたのかもしれない。

 立ち止まり、振り返って魔獣を見据える。

 この苛立ちを、やり場のない怒りをぶつけたい。

 丁度いい相手がいるではないか。

 衝動的な殺意が爆発する。

 抜き身の剣を手に、敵が来るよりも早くこちらから仕掛ける。



 数分後、スノウの周りには魔獣の死体が散乱していた。

 今頭の中にあるのは後悔。


 やり過ごせば良かった……。やろうと思えばできたはずだ……。


 怒りで物に当たるような行為。恥ずべきことだ。

 冷静さを取り戻し、自己嫌悪に陥る。

 魔獣の死体を見て、どうしようと悩む。


 その時道沿いの石が崖から転がり落ちる。

 何事かとそちらをみるスノウ。

 彼が気になったのはその石ころではなく、石ころがあった場所。

 穴が空いた場所から視線を感じる。

 その視線はフェイスのものだった。


 秘密の洞窟……。


 彼のような者が使う洞窟を掘っていたに違いない。

 周りに入れるような穴はないことから、迷界の出入り口付近から掘った洞窟だろう。

 どの程度の長さなのか気になるが、今はどうでもいいことだ。


 「俺が片付けておく……。今は帰れ。レナードたちはもう随分前に帰った……」

 「悪い……」


 小さな声でそう告げるフェイスに礼を言うスノウ。

 目元だけが見えるフェイスは言い終えると姿を消す。

 彼に借りができてしまった。

 後始末を買って出てくれた彼が言ったように砦へ急ぐ。


 途中、ふと思いだして懐に手を入れる。

 取り出したのは切断したタコ足。

 手に持つと、未だピクピクと動いている。

 ツンとした匂いが鼻をつくが、近づけて嗅ぐと若干の生臭さも感じた。

 自分の匂いを消そうとするとはやはり知能が高いのかもしれない。

 後日役に立つだろう、と懐へ戻す。

 それよりも今はただ、休みたかった。


 砦の前に着くと、魔物の迎撃のために集まった兵士たちが見える。

 スノウが近づくと、道を開ける。

 ジェイルが腕を組みこちらを見ているが、目を合わせる気はない。

 横を通り過ぎると、ジェイルは肩をすくめ仕方ないという表情。


 「おめえら!解散だ!どうやら夜飯はスノウが食っちまったらしい!」


 兵士たちは愚痴りながら解散していく。

 悪意のある愚痴ではない。

 しょうがねえ、まーたスノウがやらかしたのかよ、などといった愚痴。

 批判も甘んじて受け止めるつもりだった。

 良くも悪くも兵士たちには受け入れられていることに感謝するスノウ。


 スノウは門のそばに座るレナードに気づく。

 一人静かにこちらを見ている。

 彼自身も迷界から出たばかりで落ち着かないはずなのに、スノウを待っていてくれたのだろうか。

 レナードはスノウが近づくと立ち上がり、大きく息をついた。


 「よく帰った。今は休め……。話は明日だ」


 小さく頷き合う。

 今はとにかく一人になりたい。


 門を抜けるとマナがいた。随分と久しぶりに見た気がする。

 こちらに近寄ろうとするが、手で制す。

 間合いに入って欲しくなかった。

 自然と手が剣の柄に触れる。

 今自分はどんな顔をしているだろうか。


 マナは何かを察し、距離をとる。

 彼女を置いて、スノウは一人になれる場所を探してふらりと歩き出す。

 他の三人もそれぞれ落ち着けるところへ行ったのだろう。


 どこに行こうか。


 ふらふらと砦の中を歩き回る。

 部屋にはすでにレナードがいた。

 いつも通り静かに横になっているが、こちらには気づいているはずだ。

 予備の短剣を自分の荷物から持ち出して去る。

 何かあった時のために予備の武器を持っておきたかった。


 鋭くなりすぎた感覚が仲間の居場所を掴む。

 グレイグは壁の上に。司祭は物置の一室に。

 それぞれ一人で息を潜めるようにしている。


 スノウが辿り着いたのはヨルの仕事部屋。

 ここならヨル以外はほぼこない。

 そのヨルは隣にある自室で寝ている。

 彼の規則正しい寝息が聞こえる。


 スノウはその部屋の隅に背中を預けて座る。

 この部屋の紙の匂い、遠くの兵士たちの気配を感じ、どこかで流れる水の音が聞こえる。

 周囲で起こっているありとあらゆることが頭の中で鳴り響く。


 ずっと前にレナードが言っていたことを思い出す。

 その時彼はうまく言葉にできないと言っていた。

 まさにそうだ。

 うるさくて、自分がまだ迷界にいるようで、恐ろしい。

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 どうすればいいのかわからなくて、ただただ自分を守ることしかできない。


 疲れ果てた精神と、傷一つない身体。

 睡眠を取ろうとしても眠れない。身体はそれを求めていない。


 あれほど休みたかったはずなのにまるで休めないな……。

 一人自嘲気味に笑う。


 スノウはおもむろに短剣を取り出す。

 放っては掴み、手の中でクルクルと弄ぶ。

 落ち着きなく、延々とそれを続ける。


 とてつもなく長い三日間だった。

 迷界で過ごした時間は、恐ろしく濃厚で、新鮮で、強烈だった。

 その体験は彼にどういう変化をもたらすのか。


 あれがたった三日だと……?そんな馬鹿な……。倍以上に感じた……。


 そう思うのも当然かもしれない。

 なんせ睡眠を取らずに三日三晩行動していたのだから。


 スノウは迷界でのことに思いを馳せながら孤独に静かな夜を過ごす。


 彼の初めての迷界探索はこうして幕を閉じた。

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