第29話 帰るまでが遠足
少しばかりの休憩を終え、夜明け前に出発したスノウ達。
次第に空が白みを帯びてくる。
森を抜け、視界が開けた。
スノウ達がいるのは断崖絶壁。それも途方もない高さ。
その向こう側は海。水平線から朝日が昇る。
眩しさに目を細めるスノウ。
不快さはない。安心する心地よさ。
日の光が大地を照らすと、目の前には言葉にできないほどの美しい景色。
断崖は迷界の先まで続き、返しのようになって下からは上がれない。
壁面には大きな木の根がいくつも伸びており、横穴のようなものがいくつもある。
そこにはたくさんの生物が絶壁を伝ったり、飛行しているのが見えた。
「どうだ?いい景色だろ。崖際には近づきすぎないようにしとけ。下から襲ってくる場合もあるからな」
レナードが見せたかったものとはこのことだろう。
この絵画のような景色には確かにそれだけの価値があった。
心が震え、尖った気持ちがスッと和らぐ。
この感動はなんとも表現できない。
しばし時を忘れて見入る。
「この前来た時にも見たが、何度見ても飽きねえな。それにこの水の量を見ろよ!これが飲めればなぁ!」
「海っていうのはすごく大きいですねぇ」
「スノウは海を見たことがあるのか。あんまり驚かないな」
「うん……。ずっと昔……、見たことがあるんだ……」
本当に、本当に昔……、まだスノウになる前のことだった……。
美しい景色を心に焼き付けて、スノウ達は再び歩き出す。
崖沿いを進むと起伏の激しいところに穴がぽつぽつと見えるようになった。
何か潜んでいるのか、それともどこかに繋がっているのか。
「ここら辺とこれから行く西の端にはああいう場所がいくつもある。もちろんそれだけじゃないがな。不用意に入るなよ。一つの穴に入ると全く別の場所に出た、なんてこともある。迷界の歪みってやつだ」
レナードの解説が続く。
彼が言うには突然現れる強力な魔物や、夜に襲ってくる闇の魔物は大抵洞窟やその歪みから来ていると推察されている。
なぜそう推察されるのか。
まずこの辺りの地上の迷界はほとんどが探索されている。
つまりそこに生息する魔物の種類は大方把握していること。
ではそれ以外の魔物はどこから来るのか。
迷界の奥、地下につながる洞窟、どこからか発生する歪み、おおよそがその三つ。
迷界の奥から来る場合はその前兆が出やすい。
ならば残る二つのうちどれか、ということになる。
歪みはどこにあるかわからず、発生条件もわからない。
洞窟内は逃げ場もなく内部がどうなっているのかもわからない。加えて頻繁に出入り口が出現と消滅を繰り返す。
こうなるとリスクが大きすぎるため調査できない。
これらのことを鑑みて、地下もしくは地下に発生した歪みから迷い込むか餌を求めて地上に這い出てきたのではないか、と考えるようになった。
地下空間と聞いてスノウは砦を思い浮かべる。
砦の地下には川が流れており、それを生活用水として活用している。
その川はなかなかに水量も多い。
便所はその水流の上に建っており、ということは落とした便は下流へと流されていく。
それだけでなくゴミなどを捨てることも。
雨の際は水量が増えるものだから、さらに地下に降りると流される場合もあるので気を付けろとこの砦に来たばかりの時に注意されたものだ。
あの地下水流は迷界の奥からきて、山下に降るはずだ。
時折その中に水棲の魔物が混ざる場合もあるかもしれない。
だというのにそういう話は聞いたことがない。
あの川は一体どこへ続いているのだろうか。
あまり考えたくないことだが、ほんの少し気になった。
東沿いで寄り道した後、西側への横断を始める二日目。
まだまだ辛さはあるが初日ほどではない。
森の中の魔物達が朝日を合図に活動を始めたのか、真新しい痕跡を残す。
何か大きなものがあった場所を発見し、その痕を追うと大きな岩が動いているのを見つけた。
これは岩虫といい、わらじ虫に似た魔物。
苔や若い草を中心にした食性。
防御に特化して、人を襲えるほど速い魔物ではないので動いているのをのんびりと見守った。
いい場所を見つけたらそこにまた腰を下ろすのだろう。
途中、遠目にだが右手に水場が目に映る。
少し見えただけでも中々の大きさに思えた。
それから少しして、スノウ達はちょうど先を見渡せる崖上に出る。
そこから見えたのは大きな湖。
この辺りは段差になっているようで、迷界の奥に進むと窪んだ平地になっていた。
平地の真ん中に大きな湖があり、その先は霧で隠れているのか雲なのかわからないが見えない。
湖にはぽつぽつと木が立っている。
「水場には魔物が集まりやすい。あの辺りの水場に不用意に近づくな。水の中にも当然魔物がいる。引き摺り込まれちまうぞ」
レナードの説明を聞きながら湖を見つめる。
ここからは迷界の様子がよく見えた。
砦の周辺と違いかなり横幅が広い。
東は小山を含む断崖、西には大きな山脈。
迷界の奥に繋がる北は侵入を拒むかのように白いベールがかかる。
その先まで行こうとすれば行きだけで何日もかかるだろう。
「どうした?」
「いや、砦の近くと違って思ったより幅が広いんだな」
「ああ、あそこはちょうどそういう地形になってんだ。だから砦を建てたとも言えるな」
迷界に蓋をするように砦は建てられている事になる。
実際に見て、聞いて、感じると砦と迷界の関係性の理解が深まった。
湖を横目に見ながら進んでいると、引っ掻いたような大きな音が響く。
それを聞いたレナードは静止し、耳を澄ます。
「この前見たやつじゃねえか?あの時も同じような音を聞いたぜ」
「ああ……おそらくそうだろう。まだ湖の向こう側にいるようだ」
グレイグの意見に同意するレナード。
話しているのは前回の探索時に見かけたと言っていた大きなサソリのような見た目の魔物のことだろうとスノウは推測。
そいつは前回このあたりで見たのか。
今は見えないが霧が晴れていたら見えていたかもしれない。
「でかいナリだから回避するには余裕だろうが気になるな……。この辺りはあいつにとってそこまで居心地のいい場所でもないはずだ……。奥で何かあったのか……」
物思いに耽るレナードだが、考えたところでわかることではない。
行こう、と声をかけて探索に戻った。
予定より少し速いくらいのペースだが、それに越したことはないというのが迷界の探索。
予想外のことが起きるのが当たり前の世界。
西側は魔物が多く夜になると遭遇率が高くなる。
日暮れまでに予定の地点まで到着したいというのがレナードの本音。
歩く速度を少し早めて進む。
森の内側を進むとやはり何かしらの痕跡や気配が多い。
大きな何か、おそらく魔物がぶつかって崩れた斜面、留守にしているのか寝ぐららしき横穴、息を潜めて遠目からこちらを見つめる視線。
その情報を元になるべく安全だと思われる進路を取るのは非常に大変な作業だろう。
その作業をレナードは的確に判断してくが、時にはどうしようもない時もある。
前方から何かが近づいてきていた。
彼は後方の仲間に戦う準備をするように合図を出す。
スノウも遅れてその気配に気づく。
武器を構え魔物が姿を表すのを待つ。
身体が熱を持って暴れそうになるのを必死で堪える。
やがて姿を現した魔物は一匹ではなかった。
大きなムカデのような魔物と、大蛇。
両方とも二十メートルほどの長さ。
その二匹はスノウ達に見向きもせず、お互い絡まり合いながら相手を食おうとする。
二匹はまさに死闘の真っ最中であった。
これ幸いとレナードは素早くこの場を離れるべく指示を出す。
彼らが去った後には木にぶつかりながら地面を転がって争う二匹が残された。
どちらが勝ったのか、それは誰にもわからない。
*
スノウ達はレナードの希望通り日暮れ頃に西側へ到着した。
といっても西の端ではない。
目の前には巨大な山脈が連なっているのが見える。
東側と違い海は見えそうもない。
代わりに見えるのが岩石ばかり。
緑は見えないので岩石地帯のようだ。
斜面には崩落跡も見え、暗い穴も多い。
このうちのどれかに歪みとやらがあるのかもしれない。
「よし、これから少し森の内側を通って砦まで帰還する。油断するなよ。夜になればここらは魔物が多くなるからな……。最悪の場合戦闘もあり得る、覚悟しとけ」
レナードはスノウ達に忠告し、森の中に戻る。
わざわざ危険な西側を行くのはスノウの経験を積ませるためでもある。
迷界はいつも思い通りに行動できるわけではない。
時には危ない橋を渡らなければならない時もある……。
やがて日が落ち、暗闇が訪れる。
闇の世界の魔物達が動き出す。
早速スノウ達は魔物に目をつけられた。
樹上から何匹もの魔物の視線を感じる。
レナードは駆け足になって速度を上げ、振り切ろうとする。
見逃してくれるならそれに越したことはない。
だが不幸にもその魔物達は木を伝いしつこく追いかけてくる。
スノウ達を囲むように左右から追い立てる。
数は十数匹といったところか。
闇の中影しか見えないのでわからないが、そこまで大きくはない。
といっても人の大人ほどの大きさはあるように見えるが……。
レナードは敵が見逃してくれそうにないと見て、後方のグレイグに手で指示を出す。
グレイグは頷き、腰に手を当てる。
攻撃準備の合図だった。
スノウも反転の時を待つ。
自分の感覚が研ぎ澄まされていく……。
攻撃の合図が出た。
グレイグが鋭く短剣を投擲する。
鋭く、速さをもって投擲された短剣は樹上の魔物の一匹に当たる。
その攻撃は大した傷は与えられなかったが、魔物は驚き、体勢を崩して地に落ちる。
それを見たスノウは弾かれたように身体を反転させ、落ちていく魔物に迫る。
近づく魔物、その姿は黒い猿だった。
闇猿というべきか。
闇猿が地面に落ちるのと着地地点にスノウが到着するのはスノウが少し速い。
空中で何もできずにこちらを見る闇猿。
歯を剥いたスノウと目が合う。
勢いそのままに肩から斜めに斬り下ろす。
これまでのストレスを爆発させるような速い振り。
落ちてきた闇猿は身体を斬り裂かれながら飛び、絶命した。
人知れずスノウの心が歓喜で震える。
それはようやく全力を出せた喜びか、はたまた別の理由か。
スノウが闇猿を斬り飛ばした時、仲間を守ろうとしたのか数匹の闇猿達がスノウ目掛けて一斉に頭上から飛びかかる。
それをレナード達が素早く援護。
正確に撃ち落として撃退する。
レナードが撃ち落とした二匹の闇猿は死んだが、残りはまだ生きている。
周りの闇猿たちは雄叫びを上げ空中と地上から攻勢を仕掛けてくる。
それに負けずとも劣らない雄叫びをあげるのは司祭。
奇声をあげてメイスを振り回し、笑いながら敵を吹き飛ばす。
彼も色々と溜まっていた。
スノウも彼に続く。
雄叫びを上げ闇猿へ飛びかかり、殴られながら敵の首を削ぐ。
すでに視界は明瞭。昼にも劣らない明るさ。
たまらず相手に掴まれ投げられると猫のように受け身を取り近くにいた別の敵へ飛びかかる。
迷界での戦闘は不思議な心地よさがあった。
そんな二人とは対照的なのがレナードとグレイグ。
彼らは冷静に敵を相手にしつつ、すでに後のことを考えていた。
それはこの戦闘によって別の魔物を呼び寄せてしまう可能性。
また、血を浴びてしまったことによって自分たちが追跡されてしまう可能性。
ほどほどのところで退散したい。
苦労人二人の思いが一致する。
「「グェッッ!!」」
目を合わせ、素早く意思疎通を行った二人はそれぞれ暴れている二人の首根っこを引っ張り後退する。
怒り心頭の闇猿たちは追ってくるが、敵が怯えから逃げたのではないと冷静になり追跡を中止。
彼らもこの迷界を生き延びてきた。
引き際は見誤ってはならない。
追跡を振り切ったレナードは念の為後方に意識を向ける。
後方ではすでに別の魔物の咆哮が聞こえていた。
騒ぎを聞きつけ集まってきたのだろう。
スノウ達が息を整えるのを待つ。
「やりすぎだ。最初の一撃で十分だったぞ」
「ごめん……」
「はぁい……」
静かにそう諭すレナード。
しゅんとする二人。
だが責めはしない。
この迷界は人を狂わせる。
抑圧された感情を引き出そうとしてくる。
それを止めるのが自分の役割でもあった。
「自覚できてるのならいい。血を浴びた外套は捨てろ。身体についた血液を水でできるだけ落とせ」
できる限り身体から血の臭いを落とす。
特にスノウが多く血を浴びた。
「よし……。進もう……」
夜はまだ長い。
持てる手札でできることをやるしかない。
迷界では常に想定外のことが起こるのだから……。
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