第28話 頼れる背中、怪しい背中

 空が赤くなってきた。日暮れが近い。


 「さ、こっからだ」


 レナードはスノウ達に発破をかける。

 朝から歩き通しだが、彼は明るいうちに距離を稼いでいた。

 夜になると視界が悪くなり、スノウの歩みが遅くなる可能性があったためだ。

 夜は動かないのが通常の旅の鉄則だが、その常識はここでは通用しない。

 極限状態でも動けることが必須条件。

 何故なら闇の中においても魔物と戦闘することが求められ、到底敵わない魔物が襲ってくる可能性がある。

 知能ある魔物なら、自分の有利、相手の不利を見てとって襲ってくる。

 適応できなければ瞬く間に命を散らす。

 迷界はまさに弱肉強食の世界。

 今回の探索はまさにスノウがそれに適応できるかを試すためのもの。


 スノウの視界が暗くなるにつれ、恐怖の感情が押し寄せる。

 人間が得る情報の大半が視覚情報。それが失われていくのにこの緊張感の中の移動はかなりのストレスになる。

 ここでスノウは生存本能からか集中力が増していく。

 それに伴い、嗅覚、聴覚が急激に尖ってきた。

 聞こえなかった音が聞こえ、周囲や風に乗ってくる匂いがする。

 さらに魔力が働いたのか、わずかな光を取り込んで徐々にこの暗がりの中でも見えるようになってきた。

 心と体が同じ方向を向いた時、魔力はそれに応え驚くべき進化を実現する。


 だがそれは新たな苦しみの始まりでもあった。

 鋭敏になった感覚は凄まじいほどの情報をスノウにもたらす。

 その情報の多さにスノウは苦しんだ。

 頭の中に入ってくる膨大な情報をうまく処理できず、必要なものがわからなくなる。

 身体は平衡感覚を失いつつあり、息が荒くなる。

 狂いそうなほどだった。


 「スノウ」


 レナードの声にハッと我に帰る。


 「辛い時は俺の背中だけに集中しろ」


 それだけ言ってレナードは前を向く。

 その言葉に助けられた。

 散漫な意識を背中に集中。なんとか落ち着きを取り戻せた。

 レナードからすれば今にも斬りかかってきそうな男が自分の背中を睨んでくるのだからできればしたくないことだろう。

 それにも関わらずそう言ってくれたのは勇気のいる行為で、自分を信頼してくれているからこその言葉。

 言葉にできない深い感謝の思いがスノウを満たした。


 雨が降り出す。

 強い雨だが、空を覆う葉に防がれ雫となって落ちてきた。

 雨音が周囲の音をかき消す。嫌な音だ。


 「滑るなよ」


 人が通れるほどの太い木の枝の上を歩きながらレナードが警告。

 足元が滑らないように確認して歩く。

 スノウ達が履いている靴はブランドンが設計したもの。

 製作は彼の弟子によるもので、非常に性能がいい。

 靴底には魔物の分厚い皮を加工して使っているのか、滑りを抑える。

 脛あたりまである軍用靴といったところ。

 つま先には金属が仕込まれており、足が潰されるのを防ぐ。

 脛に脛当てを仕込むことも可能だ。

 兵士たちにとってはなくてはならないものになっている。


 雨は通り雨だったようで、すぐに止んだ。

 谷に吹く風が湿気を飛ばしていく。

 その後、何度か魔物に遭遇する。

 頭上の木の枝に張り付いた大の大人ほどもあるヒルのような魔物。

 この暗闇、レナードが気がつかなければ奇襲されていたかもしれない。

 次に鬼の斥候部隊。

 身を潜めてやり過ごす。

 最後に魔狼。

 彼らはこちらより先に気づいたようで、遠吠えを繰り返して付かず離れずの距離を維持してくる。

 砦に来る魔狼であれば一目散に襲ってくるが、彼らはそうではない。

 一瞬月の光に反射して黄色い目が見える。


 赤い眼じゃないのか。何故だろう。


 魔狼の群れはスノウ達をしつこく尾けてくる。

 その気配に苛立つスノウ。

 来るならこい、と身体が力む。


 「放っておけ、おそらく縄張りの近くだったんだろう。空腹でなくて幸運だったな。飢えていたらどこまでも追ってくるぞ」


 魔狼達はしばらくすると姿を消した。

 スノウ達を観察していたのだろう。彼らは賢い。こちらが弱っていたら襲ってきたかもしれない。


 夜の行軍も体感かなりの時間と距離を歩いた。

 休憩はほぼない。

 歩いて、少し止まって様子を探る、それからまた歩き出す、その繰り返し。

 魔物の気配がしたり、地形によっては迂回し、登り降りも多い場合もあるので直線ではない。

 今の鍛えられた体力なら歩くだけならいくらでもいけそうだが、この迷界の中での行軍は流石に精神的に辛いものがあった。


 「少し休憩する」


 予定よりやや早く探索できている。

 スノウが思ったよりも早く適応し始め、着いてこれたからであろう。

 レナードは夜明け前まで少し休憩することにする。

 巨木の根に隠れるようにして各々が座り込む中、レナードは一人巨木に背中を預け立つ。

 スノウには周りを気にする余裕はなかった。

 座り込むと疲労が一気に押し寄せる。

 まだ一日目。常に気を張り詰めておくのは思った以上に辛い。

 とにかく心がすり減っていく。


 「火は……つけれないのか?」


 無性に焚き木の火を見たかった。

 明るい光の揺らぐ様をみたい。


 「だめだ。この迷界では火がつかない」

 「マジかよ……」


 驚愕の事実に思わず漏れる言葉。


 「試すなら入り口近くでな」


 グレイグもやったのか、それを思い出して笑っている。


 「煙が出るだけだ。……さあ、集まれ。探索の行程を説明する」


 レナードの声で彼の元へ寄る。

 彼は短剣で地面に簡単な絵を描いた。


 「今俺たちはここ辺りのはずだ。東側は崖になっていて、それに沿って歩いている。もう少し歩いて見せたいものがある。それが済んだら今度は西側に向かって森を横断する。それが二日目。んで西側に沿って帰る。三日目の日暮れまでには帰る計算だ。簡単だろ」


 旅の行程を確認する。

 絵に描けば実に簡単に思える。

 正直舐めていた。まあなんとかなるだろう、と。

 だが実際は今日だけでも過酷すぎるほど。

 なぜこんな思いまでして迷界に入る必要があるのか。


 「なあ、なんでこんな危険なところへわざわざ入るんだ?」


 疑問が口をついて出る。

 レナードは遠い目をする。


 「疑問に思うのも当然だな。だが理由は……ひどく複雑だ。まず命令でもある、上のな。それから……資源、戦争、歴史、強さ……命……」


 それらの言葉が何を意味するのか、聞くに聞けなかった。

 彼が今それを話さないのは知る必要なないということ。

 レナードはよくそういうことを言う。


 「あのぅ〜いいですか……?」


 発言したのは司祭。

 スノウはいきなり何だ、と思ったが残る二人はそうではなかったらしい。

 大きくため息をついて早く済ますように軽く手を振り急かす。

 司祭はスノウ達に背を向け暗がりの中ゴソゴソとする。

 嫌な予感がしたスノウ。

 そっと横から盗み見る。

 司祭は消え入るような小声で自身の神に祈りを捧げ、袖を捲り上げ筋肉質な細腕を出す。

 そしてなんと右手に短剣を握りしめ、逆の腕に刃を静かに押し付けた。

 短剣から血が滴り、地を濡らす。


 ああ……我が神よ……私からのささやかな捧げ物をお受け取りください……。


 表情は見えないが恍惚としているのがわかる。

 切りつけられた腕の傷はすぐに癒えた。


 明らかに異常な光景。しかも血を流すなど、危険すぎる。血の匂いを嗅ぎ付けられたらどうするのか。

 スノウは抗議の視線をレナードに向ける。


 「いいのかよ!?」

 「よくない。よくないが、しょうがねえだろ……。やめろと言ってもやるんだからよ……。逃げる準備だけしとけ。魔物が来たら見捨ててもいいってよ」


 前回の時はさぞかし慌てたことだろう。

 止めてもやったのか。

 すでに二人には諦めが見えた。


 「いつもこんなことしてんのか?」

 「いつもではありません。捧げられなかった日だけです……」

 「何を?」

 「生き血ですぅ」


 スッキリした顔の司祭。

 なるほど。

 つまり砦で司祭が戦うのは魔物の血を必要としていたからか。

 毎日襲ってくるのだから都合がいいのだろう。

 だがそれ以外の時はどうしていたのか。

 想像もしたくない……。


 司祭の自傷騒動も終わり、静寂が訪れる。

 スノウは少しでも身体を休めようと目をつむる。

 だが眠れない。眠れるわけがなかった。

 鋭敏になりすぎた感覚は様々なことを訴えてくる。

 こうやって静止していると時間の進みが遅く感じる。

 今はそれが鬱陶しいほど。

 一日何も口にしていないのに、腹も減らず喉も乾かない。

 疲労しているはずの身体はエネルギーに満ち溢れ、動く時を待っている。

 その一方で精神だけはひどく疲れ果てている。

 それが何よりも恐ろしかった。異常な自分。


 「もう大丈夫だ」


 スノウはレナードにそう言って先へ行こうと促す。

 それにレナードは頷いて返し、号令をかける。

 彼にはスノウの葛藤がよくわかった。

 矛盾した心と身体。常識が通用しない異常な場所。

 この迷界は人を狂わせるのだ。

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