第19話 月夜に煌めく焔の獣
落ちるスノウと悪鬼。
何度も岩に衝突しては回転しながら跳ねる。
スノウはただ必死に悪鬼の角を掴む。
悪鬼はスノウを引き離したかったが、衝突の衝撃と回転の遠心力によってそれは叶わなかった。
やがて崖から転がり落ちた悪鬼が大きな岩にぶつかり跳ねたところで、スノウの手が悪鬼の角を離れ、両者は分かたれた。
ここで幸運だったのは、スノウは直接地面に衝突しなかったことだった。
悪鬼が間に挟まり、地面の衝撃を吸収してくれたことで、スノウの即死は免れた。
ただ、それでもスノウが負ったのは並みのダメージではない。
崖下で倒れる両者。
先に起き上がったのはスノウだった。
幽鬼のようにゆらりと立ち上がる。
もう立てるはずはない。
体力も気力も使い果たした。
とっくに身体は限界を超えているはずだというのに────。
スノウはただ悪鬼を見る。
悪鬼は唸り声を上げ身体を起こす。
そしてヨタヨタと四つん這いになりながらもなんとか立ち上がる。
強靭な身体と体力を持つ悪鬼だったが、流石にこの落下によって、その身体は大きなダメージを負い、肩で大きく息をしている。
悪鬼は左手で左目に刺さった短剣を引き抜く。
「グゥオオオオオン」
思わず苦悶の声が漏れた。
短剣を投げ捨て、この傷を負わせた敵を探す。
そして立ち上がっているスノウを見つけ、憎しみと怒りの目で睨む。
悪鬼とスノウが相対する。
普通に考えれば、スノウが悪鬼に勝てるわけはなかった。
圧倒的な膂力の差、防御力の差。
だが悪鬼はそうは考えない。
自身の生存本能が警鐘を鳴らしている。
油断してはいけない、手加減するな、こいつは牙を隠し持っている。
左目の痛みがそう訴える。
悪鬼が一歩前に踏み出した時、スノウの目の端で何かが光った。
気づかれないようにそっと確認すると、鬼に刺さったレナードの長剣が月光に反射した光。
まるで俺を使えと言うように。
スノウ達より先に崖下に落ちた鬼はまだ息があった。
ただすでに死に体で、レナードの長剣が刺さったまま死を迎えようというとこ。
スノウはこの幸運に感謝する。
今武器は何も持っていない。
目の前にいる悪鬼を殺すにはあの長剣が必要だ。
身体は不思議と動く。
今はそれだけでよかった。
ただチンタラしている余裕はない。
少しずつ横に歩く。
意図を悟られぬようにと願いながら。
悪鬼はスノウが武器を持っていないことに当然気がついていた。
しかしこの敵は何をしてくるかわからない。
まだ何か隠しているかも。
そんな警戒感から、様子見に回っていた。
スノウが横に動くと、悪鬼にもその先にある仲間だった鬼が目に入った。
当然刺さった長剣も自然と目に入る。
悪鬼の目がそれを確認した瞬間にスノウが長剣に飛びつく様にに駆ける。
ようやくスノウの狙いに気が付く悪鬼。
土を蹴り上げ猛ダッシュする。
そしてスノウがその長剣を掴んだ時、悪鬼は飛び上がり両手を組んで振り上げる。
スノウは長剣を引き抜きながら死に体の鬼の反対側、右から左に飛ぶ。
悪鬼の振り下ろした両手は死に体の鬼もろとも地に沈んだ。
しかしそれで終わりではなかった。
悪鬼の攻撃は地を揺るがし、地面をえぐった。
スノウと悪鬼の目があった。
不思議と時間が遅く感じる。
その目には油断も嘲りもない。
まさにこの瞬間、スノウと悪鬼は対等だった。
この攻撃の衝撃によって、スノウは体勢を立て直せない。
悪鬼はさらに地についた両手をそのままスノウの方にスライドさせる。
そして悪鬼の手の甲がスノウを捕らえた。
スノウの身体は数メートル吹き飛び、背中から岩に叩きつけられた。
一瞬の沈黙。
目を開けろ!!!!
スノウの心がそう叫ぶ。
意思の力がそうさせたのか、スノウはカッと目を見開く。
眼前には既に悪鬼が右手を振りかぶり迫っている。
完全にトドメを刺しに来ている一撃。
スノウは弾けるように身体を動かし横に回避。
悪鬼の拳が岩を粉砕する。
岩が轟音を立て崩れる。
危ないところだった。
一瞬だが意識を失っていた。
この一連の油断も隙もない攻撃にスノウは戦慄する。
この鬼のなんという勝利への執念。
さっきの直撃した攻撃の後すぐさまトドメを刺しにくるとは。
それに地面を揺らしその隙をついた裏拳。
力に頼った攻撃だけではない。
自分の長所を理解しているからこそ出たもの。
こいつは馬鹿ではない。
スノウは右手を見る。
その手にはしっかりとレナードの長剣が握られている。
一瞬だが意識を失ったにも関わらず。
それはこの長剣を離したら命はないとわかっているからか。
重さは不思議と感じない。
これからだ。
長剣を握り締め、スノウは再び悪鬼と相対する。
内出血したのか血で赤い左目が月光に反射したように見えた。
スノウと悪鬼はジリジリと距離を詰めていく。
お互いの間合いを測る。
悪鬼は両手を肩あたりまで上げ、掴みかかるような体勢。
スノウは長剣をだらりと右手で持ち、そっと左手で支える。
もう少しで悪鬼の攻撃範囲に入る。
今度はスノウから仕掛けた。
一歩、悪鬼の間合いに入る。
だが悪鬼はまだ手を出さない。
もう一歩前に。
悪鬼これにも手は出さず。
そのままスノウは我慢比べのように少しずつ距離を詰めていく。
痛いほど張り詰めた空気。
不意に悪鬼が肩を動かしフェイントを仕掛けるが、スノウは動じない。
もとよりギリギリのところで回避する決意。
先に痺れを切らしたのは悪鬼。
頭上から軽いジャブを放つ。
スノウは前に出てそれを掻い潜り悪鬼の二の腕を裂く。
長剣は予想外の切れ味でそれを為す。
悪鬼はもとよりスノウもその長剣の鋭さに驚いた。
果たしてこの長剣はここまでの切れ味を見せていたか?
だが悪鬼は考える暇もなく次の手を出す。
左手でカウンターの横殴り。
完全に射程内、こちらが本命の攻撃。
しかしスノウはさらに前に進むことでこれを最小限の被害に抑える。
悪鬼の身体をぐるりと左回りに動くようにする。
結果、攻撃してきた悪鬼の左手はスノウの背中を押すような形に。
背中を押されたスノウは悪鬼の横を飛び抜け、身体を転がし素早く起き上がる。
身体をこちらに向ける悪鬼。
そのまま拳を振り上げ猛撃を仕掛ける。
スノウはこれを地面を舐めるように転がって回避。
悪鬼の拳が地面を抉り、土を飛ばす。
それを見たスノウは名案が浮かんだ。
攻撃が止んだ瞬間に下から長剣を掬い上げるように振る。
長剣は悪鬼には届かなかったが、地面には届いた。
土が悪鬼の顔に飛散する。
悪鬼はその予想外の攻撃をまともに受けてしまう。
うめき声をあげ、目を庇う。
スノウはさらに悪鬼から見て左側に回る。
潰れた悪鬼の左目の死角。
消えたスノウを探す悪鬼、さらには目に土が入りよく見えない。
スノウはその位置を維持し、足に斬りつける。
スノウの姿を捉えきれない悪鬼はがむしゃらな攻撃をせざるを得ない。
腕を無茶苦茶に振り回す。
スノウは位置を変えながら死角から斬りつける。
傷が増えてきた悪鬼はこれはまずいと跳躍し、一旦距離をとる。
スノウは追い討ちをかけたかったが、視界を回復した悪鬼を見て思い直す。
悪鬼はもう一度同じ手を食いたくなかった。
死角に回られると不利だ。
周囲を見渡す悪鬼。
勝つために頭をフル回転させる。
近寄らせると面倒だ。
不意に近くに生えている木に近づく。
悪鬼はその木に近づくと、なんと根本を掴み大声を上げてその木をへし折った。
バキバキと音を上げて折れる。
そして片方の手で枝木を払い、先端を適当な長さに折る。
あっという間に即席の棍棒が出来上がった。
持ち手を握りしめるとミシリと音を立てる。
悪鬼がそれを振ると、風が大きな唸り声をあげた。
この一瞬の出来事に呆気に取られるスノウ。
必死に手繰り寄せた勝ちの目が、再び振り出しに戻ってしまった。
悪鬼の膂力と体格から繰り出される棍棒の圧倒的な力とリーチ。
まともに食らえばひとたまりもない。
この土壇場で武器を持ってこられるとは。
悪鬼という魔物の勝利への執念は凄まじいものがあった。
スノウは焦燥感に駆られる。
今でこそ身体は動いているが、いつそれが切れるかはわからない。
突然倒れるかもしれない危うさがある。
時間はあまり残されていない……。
長期戦になればこちらの圧倒的不利。
スノウは攻めに出ることを決断する。
前へ詰めるスノウ。
悪鬼はそうはさせまいと棍棒を横に振り回す。
雑に折られた棍棒の切っ先がスノウの額を掠める。
スノウの額が裂け、血が滴る。
出鼻を挫かれ、足の止まったスノウは流れる血を無視し、腹を決める。
再度前へ詰める。
もう引く気はない。
悪鬼は縦に棍棒を振り下ろす。
スノウは横に避けながら前へ。
振り下ろしから横に薙ぎ払いへ繋げてくる。
スノウは跳躍し空中で横に回転。
折り返しの薙ぎ払い。
わずかに浮いたそれを掻い潜って躱す。
もう悪鬼は目の前にいる。
肩からの振り下ろし。
脇に潜り込み、脇を斬りつける。
長剣は悪鬼の脇腹を切り裂く。
しかし悪鬼はそれを受けながら思い切り真上に跳ぶ。
スノウが悪鬼を見上げると棍棒を頭の上に振り上げる悪鬼と目があった。
ギラついた赤く光る眼。
体重を乗せた全力の攻撃は地面を揺るがした。
スノウの身体が軽く浮いたように錯覚する。
棍棒がスノウに迫る。
悪鬼は攻撃が当たった感触がした。
悪鬼はスノウがいた場所を何度も何度も狂ったように叩く。
やがて大きく息を荒げながらスノウが死んだかを確認する悪鬼。
だが土煙が晴れると、そこにスノウはいない。
代わりに左足に激痛が走り、悪鬼は転ぶ。
腱を切られていた。
悪鬼が見るとスノウがそこにいた。
先程の悪鬼の攻撃はスノウに当たってはいた。
当たってはいたが、スノウはあえて前に出て棍棒の根本で受けた。
もし後ろに下がっていたらやられていただろう。
棍棒を杖のように使い起き上がった悪鬼だが、左足を引きずっている。
渾身の攻撃だった。
それなのにこいつはまだ生きている。
俺を殺そうとしている。
恐ろしい……。
悪鬼は目の前のちっぽけな人間に恐怖した。
敵の中で一番弱いと見ていた奴だった。
そいつが俺を追い詰める。
殴っても殴っても起き上がってくる。
「ウウゥゥ」
悪鬼の口から知らずに弱気な声が出た。
スノウも息を荒げて悪鬼を見る。
身体は悲鳴を上げ、もうボロボロ。
苦しい、痛い、もう逃げたい、そんな感情が途端に噴出してくる。
だが同時に喜び、楽しいといった高揚感もあった。
訳のわからない感情。
こんなことは……、こんなことが……、
今まであっただろうか────────。
生まれて初めての想い、感情。
溢れた想いが行き場をなくし、涙となってスノウの頬を伝う。
右目からは透明な涙が、左目からは血の涙が。
もう少しだ……、もう少しで、こいつを殺せる……。
全てはこの鬼を殺すために。
スノウは剣を片手に駆ける。
悪鬼は近づいてくるスノウにもはや恐怖から手を出す。
繰り出される棍棒。
そこに殺意はなく、恐れるものは何もない。
棍棒の折れた切っ先がスノウの髪を撫でる。
今度はもう恐れない。
スノウの集中力は極限まで研ぎ澄まされていた。
次々と迫る攻撃。
スノウはそれらを全て紙一重で躱していく。
身体が思った通りに動く。
もう自分でもどうなっているのかわからない。
自分がどんな姿をしているか、どんな顔をしているか、わからない。
ただ、目の前の鬼を殺すために動く。
近づいてくるスノウに、後退していく悪鬼。
遂に目の前まできたスノウ。
懐に入り、悪鬼の腕を蹴って首目掛けて長剣を振る。
それを見た時の悪鬼はまるで恐ろしいものを見たかのような顔をした。
一体何を見たと言うのだろうか。
迫る長剣、だがそこで悪鬼の足が滑った。
ガクンと悪鬼の身体がずり落ちる。
長剣は悪鬼の自慢の角を一本、綺麗に切断した。
幸運にも命が助かった悪鬼だったが、その顔は恐怖しかなかった。
生きるために棍棒を捨て背を向けて逃げようとする悪鬼。
だがスノウはそれを逃そうとはしない。
もう片方の悪鬼の足の腱を切る。
前へ倒れる悪鬼はそれでも四つん這いになりながらも逃げようとする。
その時、声がした。
美しい声だった。
透き通るような、聞く者を魅了させるような声。
意味のあるものではない。
遠吠えのような美しい獣の声。
悪鬼は唯一見える右目で後ろを振り向く。
その『黒い目』には輝く星空、白く輝く満月、それを反射して光を放つ長剣、そして迫り来る焔が見えた。
*
崖に上がったレナードは急ぎスノウの元へ向かおうとする。
スノウが仮に生きていたとしても、悪鬼に勝てるわけがない。
ならば自分がトドメを刺さなければ。
その時森の中から人影が現れる。
グレイグと司祭だった。
二人とも疲れているようだが、大きな怪我は負っていないようだ。
「すまん、手間取っちまった」
「いえ、私の方を手伝ってくださいまして」
グレイグはそう言うが、自身が終わった後司祭の援護に回っていたようだ。
「どうした、何があった?スノウは?」
その質問にレナードは「とにかくついてこい」と先を急ぐ。
そして山を降りながら事情を説明する。
悪鬼と共に崖下に落下したことを言うと、グレイグは渋い顔をした。
「ううん、……なんともいえんなそれは」
急ぎ山を下る三人。
グレイグは急に足を止め叫ぶ。
「待て!!……何か聞こえる」
三人が耳を澄ますと、鈍い音が聞こえた。
「戦っている……」
レナードはポツリとそう呟いた。
なんとなくそう感じた。
落下してからまだそこまで時間は経っていない。
生きているのか、スノウ……。
信じられない、だが間違いなく生きている。
あの落下を生き延びて、悪鬼と戦っている。
急がなければ。
手遅れになる前に。
あいつが死ぬ前に。
崖を迂回するように山を下る。
少しずつ近づいている。
その時、声を聞いた。
「……これはなんだ?……誰の声だ?」
獣のような美しい声に、誰ともなく呟く。
レナードもこんなものは聞いたことがない。
スノウなのか?……いや、そんな訳がない。
だが悪鬼でもない。
……なら一体どんな奴が?
*
スノウは逃げる悪鬼目掛けて跳躍する。
声を聞いたような気がした。
どこか他人事のようにそう思う。
そして長剣を悪鬼の背中に突き刺す。
長剣は悪鬼の身体を貫く。
ビクリと悪鬼が跳ねる。
だがそれでもなお、逃げようと動き出す悪鬼。
スノウは長剣を抜きながら悪鬼の背から跳躍。
空中でクルリと横に回転し、そのまま悪鬼の首へ振り下ろす。
長剣は悪鬼の首を綺麗に切断し、音をたてて頭が落ちた。
死んだ悪鬼の顔は恐怖に染まっていた。
悪鬼が死んだのを確認したスノウは一人立ちすくむ。
張り詰めた糸が切れたようにふらふらとよろめく。
もう何もない。
もう何もスノウには残っていない。
全て出し切った。
考えることも、息をすることも億劫だ。
スノウは人形のように膝から崩れ落ちる。
そしてようやくスノウは意識を失った。
その手に長剣を握ったまま。
それから少ししてレナード達がやってきた。
首が取れた悪鬼を見て、その横で膝をついて項垂れているスノウに駆け寄る。
レナードがスノウに近寄った時、突然スノウが動いた。
長剣を振りかぶるスノウ。
レナードはスノウの身体を抑える。
長剣をグレイグが両手を使って短剣で防ぐ。
スノウは恐ろしい力で二人を押し込む。
慌ててグレイグを司祭が後ろから支える。
レナードがスノウの顔を見た。
片目を血に染め、目を見開いているが、その目は何も見ていない。
スノウは意識のないまま歯を食いしばり、本能で敵を殲滅せんと動いていた。
「俺だ!!!スノウ!!!レナードだ……!!!」
必死にそう訴えかけるレナード。
三人がかりで抑えているにも関わらず、なお押し込んでくる。
やがて力が抜け、倒れ込むスノウをレナードが受け止める。
ようやく一安心して、レナードはスノウの背後を見た。
凄まじい死闘の跡だ。
抉れた地面が悪鬼の暴力を物語る。
だがその悪鬼は片方の角をなくし、首を切断された状態。
レナードは今しがたの出来事を思い返す。
項垂れたスノウが急に動き出した時、まるで閃光の如くスノウの魔力が光を放ったのを感じた。
その光の何と言う輝きか。
それは後ろにいる二人も感じたに違いない。
レナードはまだ剣を握っているスノウに気づいた。
取ろうとすると、スノウの手は別の意識があるように力が入っており離そうとはしない。
レナードは優しくその手を剥がしていく。
一本一本丁寧に。
スノウの手から長剣が離れた時、ようやく戦いは終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます