愛をさよならで包んで
長船 改
愛をさよならで包んで
「愛してるって言いなさいよ。」
美紀はソファから立ち上がって1万円札をばらまくと、アキラにそう命令した。アキラは目を丸くしてその行為を眺めていたが、すぐにふっと顔をほころばせるとお札を1枚1枚丁寧に拾い集めて、美紀の手に戻した。
「こんな事されなくたって、僕は美紀を愛してるよ。」
周りから歓声が上がる。それを契機として音楽が鳴り始め、あちこちのテーブルでグラスをぶつける音が上がった。美紀はふんっと鼻を鳴らしてソファに座った。それに続くようにしてアキラも隣に座る。その顔に微笑みをたたえたままで。
ホストクラブ【MUGEN】。アキラはここのナンバー2であり、もう少しでトップになろうという位置まで来ている、MUGENの稼ぎ頭の一人だ。
完成された顔立ちはどこか北欧の少年を思わせ、その佇まいや仕草はまさに上品そのもの。透き通った声質から繰り出される甘い言葉と微笑みを武器に、わずか半年足らずでここまで成り上がってきた。
美紀はこのMUGENに2か月ほど前から姿を現すようになった。ホストクラブは初めてらしく、最初のうちは、あてがわれたホストのノリについていけない様子だったが、アキラが相手をするようになるとたちまち熱を上げてしまった。だがお酒は飲むものの、他の客のように騒いだりはせず、静かに話をして去って行く。MUGENではそういう客は珍しい部類だった。
そんな客がお金をばらまいて、ホストに命令をした。周りの空気が止まったのも無理のない話である。
その原因は美紀の来店時にあった。アキラはその時ちょうど他の客の相手をしていた。美紀は別のホストに案内されて席に座り、アキラが来るのを待っていた。
そんな美紀の耳に、遠くからではあるがハッキリとアキラの声が聞こえてきたのだ。
「君を愛しているよ。」
それが彼の仕事と言えば、それまでの話だ。美紀にしても、その事はハッキリと理解できている。
それでも美紀は我慢ができなかった。実際に耳にしてしまうと、頭では大丈夫でも、心を抑えられなかったのである。
♦
美紀はアキラを愛するようになっていた。そしてその想いが決して報われないという事も知っていた。
理由は、美紀自身の体にあった。病魔は、若い体を加速度的に蝕んでいた。医者から宣告された時間は、ほんのわずか。美紀はその時間を、自分のために使うと決めた。
ホストクラブに通い始めたのもそのひとつである。
美紀には恋愛経験がなかった。死ぬ前に、一度でいいから好きな男を愛してみたい。愛されてみたい。だが現実にそんな男が都合よく現れるはずなどなかった。ましてや、美紀はもうすぐ死んでしまう運命だ。そんな女に付き合ってくれる物好きがいるわけがないのである。
しかしある時、美紀ははたと思い当たった。
もしかして、ホストならば自分の望みをかなえてくれるのではないか?
たとえそれが疑似体験だとしてもそれはそれでいいんじゃないか?
そして、美紀はアキラと出会ったのだった。
たった一度だけ、二人は体を重ねた事がある。その際、美紀は思い切って自身の境遇を告白した。そして服を脱ぎ裸になると、
「それでも、愛してくれる?」
と、まっすぐにアキラを見つめて言った。その身体はとても痩せていて、美紀の告白に真実味を持たせるに十分なほどだった。
アキラの顔に刹那、哀れみの影がよぎる。しかしそれはすぐに微笑みに溶けていった。
「もちろん。愛してる。」
信じられるはずもないその言葉に胸が詰まってしまう。そんな自分を隠したかった。見せたくなかった。
だから美紀はあえて「貴方、誰にでもそうやって言うんでしょ。」と、嫌味を言った。
するとアキラはほんの少し考える素振りを見せて「言うよ。」と、答えた。
美紀はぷっと小さく吹き出すと、くすくす笑いながら「ホストが客に対してそんな事言っていいの?」と言った。
アキラは、「嘘を言った方が良かった?」と言って、ふいっと横を向いた。
そんなアキラの拗ねたような、不満そうなその横顔を、美紀は愛おしそうに眺めた。そしてふわりとアキラを抱きしめると「貴方って、クズね」とささやき、ベッドに押し倒したのだった。
♦
「アキラさん、来月にはトップに立てるんじゃないですか?」
ある日の仕事帰り、ひとりの後輩ホストがアキラに声を掛けた。
「ばーか。そんな簡単にトップに立てるほど、あの人の壁は低くねーよ。」
アキラは冷めた表情で返事をした。客の前では見せない顔である。
「でも、そろそろ勝負かけるんでしょ?」
「お前ね。オレが普段勝負かけてないみたいな事言わないの。」
「ははは。じゃあアキラさんがマジんなったら楽勝っすね。あ、俺、駅こっちなんで。じゃ。」
後輩ホストは屈託なく笑うと、ひょいと手をあげて挨拶し、雑踏の中に消えて行った。その後ろ姿を苦笑交じりに見送ると、
「来月……ねえ。」
アキラはそう呟いて、にやりと笑った。
♦
数週間後、美紀は久々にMUGENを訪れた。しばらく体調が優れず、外を出歩く事もままならなかったのだ。
アキラへの想いを膨らませていた美紀は、当然のようにアキラを指名した。しかし、その返事はNOだった。まさかの指名拒否である。
ヘルプでついた後輩ホストに「アキラはどうしたの? 指名したのに断られたんだけれど。」と尋ねると、彼は内緒話をするように、小声で「怒んないで聞いて下さいね? アキラさん、今月トップ狙ってんですよ。だからよりお金落としてくれるお客さんを優先してるんです。」と答えた。
美紀はアキラのいるテーブルに目をやった。なるほど、テーブルの上には高そうなお酒が何本も並んでいる。とてもではないが、美紀にプレゼントできるような代物ではない。
「すみません、美紀さん。そういうわけで今日はオレがお相手するんで。」
後輩ホストがすまなそうに言った。美紀は何でもないといった表情で振り向くと、
「分かったわ。じゃあ今日はよろしくね」
と言って微笑んだ。
アキラのいるテーブルではボトルがさらに何本も飛び交っていた。
「アキラ~。一気、行けるっしょ? ほら飲んで~!」
酔っ払った客に煽られて、アキラはボトルを一気飲みし始める。嬌声が上がる中、アキラは懸命に熱い液体を喉に流し込み続けた。高濃度のアルコールにむせ返りそうになりながら、一瞬、美紀の座っているテーブルの方を横目で窺ってみると、そこには、ぎこちなくではあるものの楽しそうに後輩ホストと話している美紀の姿があった。
その月の終わり、アキラはついに、MUGENのトップの座に立ったのだった。
♦
アキラは美紀へメールを送った。トップの座についたという報告と、指名拒否をした事への詫び、そしてまた会いに来て欲しいと。
しばらくして返信が届いた。そこには『おめでとう。じゃあ来週の土曜日に会いに行くね。』と、簡潔に書かれていた。
アキラは自分でも何故だか分からなかった。ただの客だったはずの美紀の存在が気になって仕方がなかった。
アキラがトップを狙うと決めた時、最初に切り捨てたのが美紀だった。美紀はお金は使うが、その額はほとんど一定で、来店率も高くなかったからだ。
しかし、美紀が後輩ホストと話している姿を見た時、アキラは込み上げてくる感情を抑える事が出来なくなった。ボトルを飲み干した後、気持ち悪くなったフリをしてトイレに駆け込み、声を殺して慟哭した。
メールの返事を心待ちにしている自分がいる。
メール画面をわくわくしながら開く自分がいる。
そしてそこに並んだ淡白な文字列に、落ち込む自分がいる。
アキラは自分を支配しようとしているその感情の正体を知っていた。
知っていて、それを自覚することを、避けた。
♦
あくる週の土曜日の夜。
アキラは “いつも通り”を装って客の相手をしていた。今、アキラの隣でシャンパンを飲んでいる女は、アキラをトップの座に立たせるためと貢ぎに貢いだ女で、アキラの事を本気で愛していた。そのせいか、女は今この瞬間、アキラの心が自分に向いていない事を見抜いていた。
「アキラ、どうしたの? 楽しくない?」
女はわざと悲しそうな表情で言った。
アキラは思わず、
「ううん。そんな事ないさ。だって、君の隣に居られる幸せをかみしめていたんだから。」
と、口から出まかせを言った。辛うじて、彼の武器である微笑みだけは保ったままで。
女は大げさに「良かった。嬉しい。今夜はずっと一緒だからね?」と言って、アキラに抱きついた。
女が笑んでいたのはその声だけだという事に、アキラは気付いてはいなかった。
夜11時55分。
そろそろ営業も終わろうかという時間に、MUGENの扉は開かれた。
そこには、こじんまりとした深紅のバラの花束を持った女が立っていた。その女が美紀であることに気付いた後輩ホストは、急いでアキラの元に報告に行った。
報告を受けたアキラは思わず立ち上がった。そして入口の方を見て絶句した。
美紀の姿が、遠めに見ても明らかに以前より痩せていたのだ。全体的に精気と言ったものが感じられず、メイクはしているものの、むしろそれは死化粧のようにアキラの目には映った。
「ちょっと、ごめんね」と、アキラは絡みつく女を半ば強引に引きはがし、不満の声を無視して席を立ち、美紀の元へと歩み寄った。
「良かった。美紀になにかあったんじゃないかって心配していたんだ。寒かったでしょ? さ、中に入って。」
アキラは努めて明るい声を出した。
美紀は力なく、しかし精一杯に微笑むと、深紅のバラの花束をアキラに渡して言った。
「今日はやめとく。これ、お祝い。本当はもっといい物を贈ってあげたかったんだけれど。」
「いいよ、そんなの。1。2。5本のバラか。とても嬉しいよ。ありがとう。」
「じゃあ、私、行くね。」
美紀はゆっくりと踵を返して歩き始めた。
「ま、待って、美紀。もう少しで営業が終わる。それまで、待っていてくれないかな。」
その時、店の中でグラスが割れるけたたましい音がした。割ったのは、さっきまでアキラが相手をしていた女だった。
「アキラ。なんで……? なんでそんな女なんかと。」
女は涙を浮かべながら、アキラの方に向かって駆け出した。
しまった、とアキラは思った。ホストとしての自分の立場を失念してしまっていた。致命的なミスだった。
青ざめたアキラと、泣いて詰め寄る女。
そこに助け舟を出したのは、美紀だった。
「アキラ。 “埋め合わせ”は今日じゃなくていいよ。今度、またね。」
……嘘だった。美紀には、埋め合わせされるようなことをした覚えはない。だが彼女は、他の女との事で狼狽するアキラを一瞬でも見たくはなかったのだ。
たとえその女とアキラが今夜寝るような事があったとしても、アキラがアキラでなくなるよりはいいと、本気でそう思ったのだ。
そして、それが失敗だった。
女はその瞬間、美紀とかいうこの貧相な女に見下された、と感じた。
アキラはもともと自分のものなのに、突然現れたこの女は何を勘違いしているのか、偉そうに、アキラを自分に譲ろうとしたのだ。
もはや女に、激高する以外の選択肢はなかった。
女は美紀を突き飛ばした。立っているのもやっとといった具合の美紀は、よたよたと店外へ弾き飛ばされた。
「やめろ!」
制止しようとするアキラに、女は金切り声をあげて抵抗した。
「離してよ!」
女は持っていたショルダーバッグをアキラの顔面に投げつけた。そしてアキラがひるんだ隙に美紀の方へと向き直ると、恐ろしい形相で近づいていく。その手には、いつの間にかナイフが握られていた。歩みはやがて早足に、さらに駆け足となり、美紀の体をめがけて突進していく。
その瞬間……。
アキラの目には、二人の体がゆっくりと重なり合ったように見えていた。ありきたりなドラマのスローモーションのように、ゆっくりと。
二人を繋いでいるナイフを伝って、深紅の液体がポタポタと零れ落ちていた。
誰かの悲鳴と共に、辺りは騒然となった。「救急車!」と、別の誰かが叫ぶ声がする。
ホスト達の手によって女は美紀から引きはがされ、取り押さえられた。ナイフは、美紀の胸の辺りを深々と刺し貫いていた。もはや誰の目にも、手遅れなのは明らかだった。
アキラは震える手で美紀を抱き起こした。
「アキラ……だよね?」
目の焦点が少し合っていないのか、美紀が力なく問いかけた。
「あ、あぁ。そうだよ。美紀、大丈夫だよ。もう少しで救急車が来るから。」
アキラは必死に笑顔を作って言った。しかし美紀は、微かに首を振った。
「ううん、いいの。どうせ長くない命だったんだし。」
あの夜の事を思い出して、アキラは胸を締め付けられる思いがした。
「だから、今死んでも一緒なのよ。」
「ば、馬鹿か。そんな事、死んでも言うんじゃねーよ!」
「やめて。乱暴な事言わないで……。アキラは、そんな言葉遣いなんてしない。
私が愛したアキラは、いつも微笑みながら甘い言葉を口にするの。そうでしょう?」
そう言いながら、美紀はアキラの頬を優しく撫でた。「ごめん。そうだね」と、アキラは努めて優しく言った。美紀が頬を撫でるたび、表面張力が崩れて涙が零れ、美紀の手を伝っていった。
「ねぇ、アキラ。」
少しずつ美紀の声が小さくなってゆく。アキラは「なに?」と言って、耳を、美紀の薄めの唇に近づけ必死に言葉を聞き取ろうとした。
「アキラ……。
……愛してるって、言いなさいよ。」
あの時、万札をばらまきながら口にした言葉を、美紀はもう一度言った。
口元をきゅっと結んで、震える目でアキラを見つめている。
その目を今度は直視できなくて、アキラは目をぎゅっとつぶり顔をそむけた。
それでもやがてアキラは再び目を開き、美紀の方に向き直ると、切なさも悲しさも、人生に訪れるであろうあらゆる負の感情をすべて溶かしたような天使の微笑みを浮かべて、
「愛してるよ、美紀。」
と、口にした。
美紀は一筋の涙を流した。ふわっとした柔らかな笑みを浮かべて。それは、満足しきったという笑みだった。
そして “最期”にこう言った。
「やっぱり貴方って、クズだわ。
……さよなら。」
愛をさよならで包んで 長船 改 @kai_osafune
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