あんがい、高熱も悪くない


 おっさん的な日常と言われると酒を飲んだり縮れたすね毛が畳の上に落ちていたり……とにかくだらしのないくさい中年男性を指すような気がしていた。

 ランバラルやブライト・ノア、カクリコンを年上のオッサンだと思っていたが、気づいたら誰よりも年上になっていたというのが現実だ。

 自分自身がおっさんである事は認める。

 認めるけれども、加齢臭がひどいことや少子化の促進に拍車をかけている事や、未だに風俗通いを辞められない点などは、あまり直視したくない現実であり、テレビで揶揄されるようなおっさんに『自分はなっていないんだぞ!』と心の奥底で声高に主張しているけれども、肉体と頭皮は確実に中年のおっさんに近づいている。痴漢で逮捕され、警察署から連れ出される姿が映し出されるとするならば、視聴者の大半が「やっぱり人相でわかるよね」と納得する肉体と相貌、そして雰囲気を獲得しつつある。

 悲しいことに。


 先日、三回目のコロナワクチンを打った。

 日程感を無視した職域接種ではなく、地域の病院でこちらのタイミングで打った。

 一度目、二度目と高熱が出たわけではなかったので、あまり強く身構えはしなかったが、ちょっとだけわくわくしていた。

 ここ一か月は多忙に多忙を極めていて、帰ってくるのは深夜に近い。

 多くの独身中年が遭遇する、薄給で長時間働かされ、深夜の夕食と酒、そしてストレスが醜悪な肉体と荒涼とした頭皮を作り上げるわけだ。僕もそうした境遇のなかでおっさん的な容姿と相貌を手に入れたわけだ。

 そうした労働環境のなかで『ワクチン接種』という会社の労働とは全く異なるイベントが起こるわけだ。おまけにこいつは『発熱するかもしれない』という不安要素があり、それによって『休んでもいいよ』という果実が会社から与えられる。

 僕は久しぶりの連休に胸を躍らせて、スポーツドリンクよりもレンタルDVDやら積んでいた本のどこを崩そうかという事ばかりを考えていた。

 そうしてワクチンを打った。


 初日からだるさが出てきた。

 でも、書籍を読んだ。

 ロバート・A・ハインラインの夏への扉だ。

 春先に購入したもので、まだ読み切れていなかった。

 ゆったりとした夢うつつのなかで読んだけれども、逆にそれが物語への没入度を高めてくれて……あっという間に読み終えた。熱も上がって、読後感を堪能するよりも倦怠感に「おおう」と驚くばかりであった。

 そのあと、少し間を置いてから源氏物語を読んだ。田辺聖子氏の素晴らしい現代語訳で、こうしたチート種付け貴公子になって、あちこちに愛人を作って国家の中枢に食い込む人間になれたら、そりゃこの世の春を感じられるだろうなと思った。

 これぐらいの味付けでいいのだ。チート無双のハーレムはこれぐらいでいい。異世界に転生する必要なんてないわけじゃないか。

 そう思いながら丸谷才一と三島由紀夫を読んだ。


 気づいたら熱も引き、休日は終わりを迎えようとしていた。

 ずっと自宅に居て、布団の上でもそもそやっていた休日だ。

 コロナワクチンを打って高熱が出たのだから致し方がないが、なんとも幸福に満ちた休日だったことだろう。

 こんな幸せな休日を何年も経験していないような気がする。

 日々の忙しさに再び身を投じる。

 働きに出ることが、どれだけ日常的な精神をすり減らして醜悪なおっさんを生産するのか……もう少し企業経営者や社会を先導している人々は考えたほうがいい。


 しかしながら、僕は思う。


 僕と言う中年のおっさんは、こうした文学的読書のなかで老いていき、朽ちていきたい。

 若い小娘の尻を追いかけるよりは、三島由紀夫のような高尚な理想のもとに置いていきたい。

 その理想のために自ら刃を向けるような結果になったのだとしても……僕はまァ『ありなんじゃないか』と思う。

 こんな醜悪な中年が老人になって、腐った匂いを発しながら耳の機能を失い、声の調節能力も失い、電子機器についていけなくなり、頭の回転が鈍って社会から荷物のように扱われる。

 子どももなく、資産もなく、投資する原資もなく、ただ日常をずるずると引っ張られるように生きているのだから……途中で自刃するのも選択肢のひとつかもしれない、と半ば本気で考えたりもした。


 それもこれも、きっと熱のせいだ。

 そして三島由紀夫のおかげかもしれない。


 僕は本を閉じ、ちょっとひどい匂いのする布団からずるずると抜け出る。

 もう僕は青年じゃない。

 そういうぬめぬめしたおっさんになっちまった。

 でも、文学や書籍はどんな年齢になっても新しい気づきを与えてくれる。

 だからもう少し、このくそったれな書籍の山を登ろうと思う。


 たぶん、死ぬその時まで。


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